第一話「異世界の概要」
この世界に来て、およそ五年の月日が経った。
家を歩き回れるくらいには体も出来上がったし、喋れるくらいには舌も発達した。
と言っても、まだ少し覚束ないが。
わかったことがある。
この世界は、色々とおかしい。
まず一つ。文化レベルが低い。
食事の味は薄く、洗濯は手洗い。
移動は徒歩か馬だし、トイレも厠みたいな作りだ。
極めつけに、水が欲しいときは井戸から汲む必要がある。
これじゃ本当に中世だ。
それと、言語。
発音や文法が、なぜかまるっきり日本語なのだ。
もちろん意味も理解出来るし、会話もできる。
そしてあろうことか、文字まで日本語だ。
なのに、名前だけは欧風だからややこしい。
言語が、というよりは、俺の頭の問題だろうか。
そして、最後。これが現状一番不可解なことだ。
それは――
「『ファイアボール』!」
淡い光が手を包み、手のひらの先からからピンポン玉ほどの火の玉が現れる。
俺が力を込めると、それは落ちることなく一直線に空中を駆けた。
十メートルほど進んだところで、今度は手を閉じ力を抜く。
すると、火の玉は跡形もなく消え去った。
――そう。
この世界には、魔法があるらしい。
その一つがこれ、『ファイアボール』だ。
手から火の玉を放つ、初級魔法である。
飛距離は最大二十メートルほど。
大きさは調整可能で、最大でバスケットボールくらいにはできた。
だが、その分威力や熱は落ちる。
限界があるということだ。
それと、今は魔法名を声に出したが、基本は言わなくてもいいらしい。
言った方が、魔法の精度がほんの少し上がるらしいが、本当に微々たる差だ。
こんな練習じゃ、本当にどっちでもいい。
今は、そっちの方が雰囲気が出るから言ってるだけだ。
魔法を使うには、何やら『魔力』なんてものが必要らしい。
なんでも、人体にある謎の物質だとか。
詳しいことはよく分からない。
確かなのは、持てる魔力には上限があり、時間で回復するということくらいだ。
初級魔法で使う魔力を一だとすれば、俺が持っているのは二十くらいだろう。
回復するのは、一時間で二くらい。
全快までは十時間だ。
魔法のランクが上がれば、その分消費量も増える。
初級、中級、上級という具合に分類され、増加量に規則性はない。
その中で、俺が使えるのは初級だけだ。
さっき使った、『ファイアボール』がまさにそれになる。
中級は発動こそできるが、威力は初級と同じ程度しかない。
それでいて、消費魔力は初級の倍以上だ。
上級に至っては、発動すらもままならない。
使いこなすには練習が必要ということだろう。
ちなみに、魔法は父親から教わった。
あの赤髪のナイスガイのことだ。
聞くところによると、彼は昔高名な『魔道士』だったらしい。
魔道士というのは、その名の通り魔法を使う職のことだ。
魔道士が何をするかは様々だ。
衛兵になったり、冒険者的なことをしたり、子供に魔法を覚えさせる教師になったり。
うちの父親は、その中で言う冒険者の括りにいる。
冒険者の仕事は、『魔族』を倒すことらしい。
魔族とは、一言で表せば、人型の化け物のことだ。
魔法を自在に操り、それでいて人より体も強い。
知能も人並みにあり、街みたいなものを形成しているところもあるらしい。
ゲームとかでよく出てくる、敵キャラのテンプレみたいなやつだ。
そんな魔族を討伐するのだから、もちろん危険があり、殉職率も高い。
しかし、冒険者の数は全人口の一割を占めるほどに多い。
それはひとえに、異常なまでの給与の高さによるものだ。
一体魔族を倒すだけで、数年分は何もせずとも生きていけるほどの額が懐に入るらしい。
人によっては、たったの一年で生涯遊んで暮らせる額を稼いだのもいる。
というか、うちの父親がそうだ。
自由人というか、色んな意味ですごい人だ。
なんてことを考えている、ちょうど真っ最中。
玄関から、ドスをきかせた低い声が辺りに響いた。
「よう、アラン。相変わらず早起きだな」
「おはよう、父さん」
話をすればなんとやら。
目を擦りながら欠伸をする彼こそが、俺の父親、『ルーカス・ベイカー』である。
朝に弱いのか、上の空といった感じで俺のことを眺めていた。
アランというのは俺の名前だ。
フルネームは『アラン・ベイカー』になる。
中々悪くないんじゃないだろうか。
外国とかでよく聞く名前だし、少なくともキラキラネームって感じじゃない。
ちなみに、母親の名前は『エマ・ベイカー』である。
これもやはり、ありがちな感じだ。
名前の雰囲気は、元の世界とアメリカ辺りとさほど変わらないんだろう。
「今日も魔法の練習か?」
「まあ、他にすることもないからね」
はっきり言って、ここでの生活は退屈だ。
娯楽というものが基本的に何もないから、暇を満たす方法が少ない。
日本の生活に慣れたしまったせいだろう、前時代的な玩具では楽しめなくなってしまった。
しかし、魔法は面白い。
元々そういうことに憧れがあったから、毎日これのみに没頭できた。
起きて、魔法の練習をして、寝て、また起きて。
そんな生活を繰り返しているのに、まるで飽きが来ない。
前世で退廃的な暮らしをしていた俺にとって、魔法はこれ以上なく刺激のあるものだった。
「……そんなに魔法が好きなら、街で本でも買ってくるか? 小遣いぐらい出してやるぞ?」
寝ぼけながら、ルーカスが聞く。
……ふむ、本か。
この世界には、魔導書的なものがあるんだろうか。
ちょっぴり興味がある。
それに、街だって、今まで両親同伴でしか行ったことがない。
この年齢なら仕方ないと諦めていたのだが、親が許可してくれるなら話は別だ。
異世界の街を一人でぶらつくってことも、実は結構憧れがあった。
しかし、やはり危険ではあるだろう。
いくら精神が大人だとは言っても、体はまだ幼い。
それに、ここは異世界だ。
日本と治安はまるで違うのだ。
少し遠くに行けば、戦時中の場所なんてざらにある。
安全を考えるなら、行かないでおくべきか……?
……だけど、こんな都合のいい状況、きっともうこない。
ルーカスはこんなでも結構慎重な方だ。
今みたく寝ぼけてなきゃ、こんな提案してくれないかもしれない。
そう、今許可を貰うことが重要なのだ。
一度外出を許可しておきながら、次から行くなとも言いづらいだろう。
成り行きでズルズルと断れないままになるかもしれない。
逆に、ここで俺が断れば、もうこんな提案はしてくれないだろう。
次、街に出たくなったときは、ルーカスの気が変わっているかもしれない。
そうなれば、街へ出られる日はずっと遠のく。
……よし。
「じゃ、行ってみようかな」
「……そうか、なら少し待ってろ。金を持ってくる」
自分の言ったことにようやく気づいたのか、苦虫を噛み潰したような顔になりながら、仕方なしと言った様子で彼は言った。
やはり、自分で言っておいて、早々に前言撤回というわけにもいかないんだろう。
意を決して正解だった。
なんて思っていると、ふと、頭に疑問が浮かんだ。
そういえば、この世界での本の値段はどのくらいなんだろうか。
流石に日本ほど安くはないはずだ。
だけど、こんな簡単に許可してくれるくらいだし……。
いや、ルーカスの金銭感覚は当てにならない。
なまじ十代で億万長者になってしまったから、金遣いが荒いのだ。
成金坊ちゃんと言ってもいい。
一冊数万か、それ以上でもおかしくないな。
そんなことを考えること、二分。
扉から、小さめの袋を提げたルーカスが現れた。
「ほら、金は入れといたぞ」
手渡された袋から、ずしりと重さがかかる。
大体、一キロくらいだろうか。
袋には、パンパンに膨らんだ財布が見える。
中を覗くと、金色に光る硬貨がびっしりと埋めつくしていた。
この世界の貨幣は、よくある金貨形式になっている。
日本円に換算すると、金貨が十万円、銀貨が四千円、青銅貨が千円、銅貨が五十円ってとこだ。
あくまで、一つの指標に過ぎないが。
それで言えば、財布の中の金は、ざっと三百万ほどあるだろう。
どれだけの金を子供に持たせているんだ、この父親は。
「ありがとう、父さん。それじゃ、さっそく――」
「待て」
意気揚々と声高々に庭から外へ出ようとした俺を、ルーカスが肩を掴み止める。
そして、一言。
「……お前に、一つだけ言っておく。街の外にだけは出るなよ? いいな、絶対だ」
「う、うん……わかった……」
いつにない剣幕で、ルーカスは言った。
今までに見たことがないほど、真剣な目だった。
わずかに、恐怖すら感じるほど。
「……驚かせてすまない。
じゃあな、アラン。あんまり長く店に居座るなよ?」
「うん、父さん。じゃ、行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
優しい声色で、ルーカスが言う。
俺は大きく手を振って返事をし、柵を開けた。
そして、街を目指し歩く。
ルーカスは、姿が見えなくなるまで、庭で俺を見つめていた。
……愛されてるなあ、俺。
ここに母さんがいたら、きっと泣いてるんだろうな。
あの人、涙もろいし。
かくいう俺も、実は結構泣きそうだ。
……家族って、いいもんだな。
心の内で密かに呟き、俺は街へと足を踏み入れた――。