第3話 奴隷解放の条件
「ぐあっ!」
まさか自分の奴隷に殴られるとは思いもしなかったデニーロは、無防備なところに問答無用の一撃を受けて一瞬で意識が飛んだ。だが、
「まだだっ!」
エルは、白目を剥いて自分の方に倒れ込むデニーロの額をわしづかみにすると腹を思いきり蹴りあげた。
その強烈な蹴りに巨体が軽々と宙に浮くと、地獄のような苦痛で再び意識を取り戻したデニーロは、そのまま壁まで飛ばされ激突した。
ドガーーーンッ!
壁はひび割れその衝撃で家全体が激しく揺れると、棚の食器がカランコロンと音を立てて床に散らばる。
「うげえっ・・・ゲホッ、ゲホッ」
胃液を撒き散らしながらその場にもんどり打つデニーロに歩み寄ると、エルは仁王立ちで見下ろした。
「男・桜井正義、お前だけは絶対に許さん」
この時エルは確信した。
今の「俺」は、女であることを隠して生きてきた、さっきまでの「私」ではなくなった。
エルの身体には前世でも感じたことのない強いパワーに満ち溢れていて、こんな非力な少女の身体でも、醜く太った中年男を壁まで蹴り飛ばして見せたのだ。
そう「私」は、生まれて一度もケンカに負けたことのない正義の番長、桜井正義なのだ。
「よくも俺の親父とお袋に手を出してくれたな。覚悟はできているんだろうな」
指をボキボキならしながらドスを利かせ、エルはその顔をデニーロの鼻先スレスレまで近づけると、関西の不良どもにしていたのと同じように思いっきりメンチを切った。
一方、理解不能の出来事に呆気にとられていたデニーロは、だがようやく我を取り戻すと、顔を真っ赤にして怒り出した。
「き、き、貴様っ! 奴隷の分際でこのワシに何をしたか分かってるんだろうな!」
屈辱にワナワナと震えながらゆっくり立ち上がったデニーロに、エルは構わず言い返した。
「奴隷だから何じゃい! 俺は正義の番長・桜井正義じゃ! 大切な家族に手を出した報いを今から何倍にもして返したるわいボケッ!」
覚えたての関西弁で啖呵を切り、デニーロの胸ぐらを掴んで壁に押し付けると、まずは脅しのためにその顔面すれすれの場所を殴りつけた。すると壁に腕がめり込んで、隣家との間に穴が開いた。
ボコッ! バラバラバラ・・・
それを見て顔を青ざめるデニーロ。
「何て馬鹿力だ、人間業とは思えん・・・だがワシの所有物であるこの奴隷長屋をよくも壊してくれたな。これでも喰らえっ!」
そして一言【ダルム・エル】と唱えると、エルの全身を強烈な激痛が貫いた。
「ぐわあああっ!」
「がはははっ! 奴隷の分際でご主人様に楯突くからこういうことになるのだ。やめて欲しければワシの言うことを素直に聞くことだな。だがお前にはしつけが必要だ。屋敷に帰ったら早速地下の折檻部屋に入れてやるから覚悟しておけ! ウヒヒヒッ」
「うぐぐぐっ・・・これが奴隷紋の痛みなのか。だがこんなもの番長の俺には効かん。うおおおおーっ!」
奴隷紋の効果は全身を貫く激痛だけではない。運動神経も麻痺して奴隷を硬直させる効果もあるのだ。
だが!
「どりゃーっ!」
エルは奴隷紋の激痛を根性ではね除けると、胸ぐらを掴んだ手にさらに力を込めて、デニーロを壁に押し付けたのだ。
「バカなっ! 奴隷紋が効かない!」
「見たか、これが桜井正義の底力じゃ!」
そして壁をメチャクチャに殴りつけるとボロ壁が見る見るうちに崩れていき、壁の向こうで聞き耳をたてていた隣のオバサンが腰を抜かして床に座り込んでいるのがハッキリ見えた。その後ろでは、テーブルで安酒をあおっていたオッサンが目を白黒させて茫然としている。
「コラお前ら、これは見世物じゃねえ!」
エルは隣の夫婦を睨みつけるが覗いていたのは彼らだけではなく、さっきエルを襲おうとした少年たちや奴隷長屋に住む住人たちがウチの周りにゾロゾロと集まってきていて、窓や扉の隙間から中の様子を窺っていたのだ。
人の不幸を楽しむ奴隷たちの姿に男の生き様を微塵も感じられなかったエルは、今や顔面蒼白でなす術のないデニーロを高々と持ち上げると、その住人たちに向けて投げつけてやった。
バギャッ! ドガシャーンッ!
デニーロの巨体が扉を粉々に破壊し、そこにいた近所の奴隷男数人もろとも路地裏の向かいの軒先まで吹っ飛ばされ、全員が身体中をしたたか打ちつけた。
「「「ぐはーーっ!」」」
そして奴隷紋の激痛がピタリとやんだエルは、デニーロが二度と自分に歯向かわないようしっかり焼きをいれるため、破壊された扉からゆっくりと外に出た。
そこにさっきの少年たちが遠巻きに群がっているのを見たエルは、家の前に置いてあった汚物入りの樽を持ち上げると、彼らに向かって思いきり投げつけた。
「盛りのついたガキどもめ、糞でも食らってとっとと寝ろ!」
中に入っていた汚物まみれにされた少年たちは、
「うわあ、あの大人しかったエルが狂暴になった!」
「た、確かに胸はデカイが・・・こんな恐ろしい女は絶対に嫌だ」
「とにかく逃げろーっ!」
一目散に逃げていく少年たちの後を追うように噂好きの井戸端の女たちも慌てて走り去り、デニーロのとばっちりを受けて軒下で気絶している男たちも、他の男たちが引きずってこの場から連れ出された。
一人この場に取り残されたデニーロは、腰を抜かして恐怖に青ざめていた。
「あわ、あわ、あわわわ・・・」
そんなデニーロに、エルは以前からずっと考えていたことを頼むことにした。
「おいオッサン」
「ひーっ!」
「俺たち家族全員を奴隷から解放してほしい、いくら払えばいい」
「解放だと・・・」
また殴られるかもと身構えていたデニーロは、エルが取引を持ち出してきたため途端に商人の顔に戻る。
「自分たちを買い戻したい。早く値段を言え」
「ふーむ、お前たち全員の値段か・・・なら10000ライヒスギルダー(G)でどうだ」
「10000G? そんな大金払えるわけねえだろ!」
ドゴーーンッ!
「ひーっ!」
エルは向かいの家の壁をグーで殴ると、慌てたデニーロが値段を下げて来た。
「じゃあ5000Gでどうだ」
「アホか! 奴隷相手に値段交渉なんかするんじゃねえ! お前が親父とお袋を買った時の金額をそのまま言うんだ」
この期に及んで、奴隷から金をむしり取ろうとするデニーロのセコさに頭に来たエルは、脅しのため向かいの長屋の壁を思いっきり殴り付けた。
ドガッ! ドガッ! ドガッ! バギャッ!
ボロボロボロ・・・
すると向かいの家の土壁も派手に崩れ、家の中からこちらの様子を覗いていたオッサンが腰を抜かして後ずさりをする。
一方、命の危険を感じて観念したデニーロは、
「わ、ワシが悪かったからもう勘弁してくれ。実はお前の両親は先代が手に入れたものでワシは証文をみたことがないんだ。だが二人合わせて2000Gだと聞いているのでそれ以上は安くできない。何ならワシの妻、つまり先代の娘に証文を確認してくれてもいい」
エルはそんなデニーロの目をじっと見つめる。
「・・・どうやらウソはついてないようだな。まだまだ高い気がするが金はちゃんと用意する。だから俺たち家族を解放しろ」
「いやワシの一存では・・・そうだ妻が何というか」
これだけビビらせてもハッキリとしないデニーロにイラッときたエルは、胸ぐらを掴んでひねりあげると関西弁でドスをきかせて脅した。
「解放せえちゅうとんじゃ、ワレぇ!」
「ひっ! 分かった! か、金さえ払えば奴隷契約を破棄してやる」
「よし。もし約束を破ったり俺の目を盗んで家族の者に手を出したら、今度は半殺しじゃ済まないからな。覚悟しておくことだ」
「契約は商人の命。約束は守る・・・」
「そうか。俺は商人ではないが、男と男の約束は絶対に守ってもらう。用が済んだからとっとと家に帰れ」
「ひいっ!」
エルが念を押して睨みつけると、忌々し気な顔をしたデニーロが路地裏から逃げ去った。
誰もいなくなった路地裏を後にしたエルは、扉が壊れて外から丸見えになった我が家へ入って行き、床に座り込んでいたオットーに駆け寄った。
オットーには意識が戻っており、エルがデニーロを追い返した一部始終もしっかり見ていたようだ。
「2000Gか・・・エル、父ちゃんがふがいないばかりにとんだ苦労を背負わせちまったな」
悔しそうにつぶやくオットーに、だがエルは優しくほほ笑むと、
「親父、さっきは身体を張って俺を守ってくれて本当に嬉しかったよ。今度は俺が親孝行する番だ」
「親父か・・・言葉遣いが変わったし、それにその強さはまるで別人のようだ」
エルのあまりの変貌ぶりに驚くオットーの隣には、ぶたれた頬をさすりながらマーヤがゆっくりと腰を下ろした。そしてその背後では弟たちが心配そうにエルを見ている。
エルはオットーの問いかけにしばらく自問自答すると、その問いに答えた。
「実はさっき前世の記憶を思い出した。俺はこことは違う国に生きていた桜井正義という男だった」
「前世の記憶・・・するとエルはそのサクライ何とかという男になってしまったのか」
「いや、俺は「エル」だよ親父。ただ前世の「桜井正義」には強い自我があって、それが「エル」にも受け継がれていた。だから自分が女であることに違和感を感じ、男のふりをするのに全く抵抗がなかった」
「じゃあお前は本当にエルなんだな」
エルは不安そうな家族を安心させようと、
「安心してくれ父ちゃん、母ちゃん。それからジェフもヨブもエイクも、兄ちゃんは兄ちゃんのままだぞ」
エルはあえて「エル」の言葉で話しかけると、みんなホッと胸をなでおろした。そしてマーヤも、
「この子は確かに私が腹を痛めて生んだエルに間違いないよ。エル、あんただけでも奴隷から抜け出してほしくて農夫の男との縁談を進めていたんだけど、デニーロの旦那とあんな約束させちまって申し訳ないね」
「気にするな、お袋。俺は自分だけじゃなく家族全員で幸せに暮らしたいんだ」
「そうかい、ありがとうエル。でもお袋なんて呼ばれると、ちょっとむず痒いね」
「そうか。どうも「桜井正義」の個性が強いからついついそっちの言葉になってしまう。でも家族の前ではなるべくエルの言葉遣いにするよ、母ちゃん」
「ああ、そうしてくれると安心するよ」
「じゃあ改めて。さっきは俺を助けてくれてありがとうな、母ちゃん。そしてみんな一緒に奴隷の身分から這い上がろう」
「・・・苦労をかけるね、エル」
家族に向けて笑顔を見せるエルになぜか一瞬悲しそうな表情を見せたマーヤだったが、それを悟られないようにエルを抱きしめると、その頭を優しく撫でるのだった。
次回「冒険者ギルド」。お楽しみに。
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