第2話 覚醒
井戸から逃げ帰ったエルは、弟たちを寝かしつけると暗い納屋の隅っこでうずくまって身を潜めた。噂を聞き付けた奴隷商人がやって来て自分を連れ去ってしまうのではないか、不安で仕方がなかったのだ。
だがその日は何も起きないまま夕方になり、上の弟たちも仕事から帰って来た。
「ただいまっ! ・・・って窓を閉め切って家の中が真っ暗じゃないか。エル兄はいないのかな?」
ジェフの声に、ホッとして納屋から出ようとしたエルだったが、その他にも何人もの足音が家に入ってくるのが聞こえるとエルは再び物陰に身を隠した。
「おいジェフ。エルのやつが女だったって本当だろうな。ウソだったら承知しないぞ!」
「本当だってば。母ちゃんぐらい胸がデカかったし間違いないよ」
「お前の母ちゃんだと・・・そりゃかなりデカいな。エルのやつ、おいらたちにも見せてくれるかな」
「エル兄は優しいから頼めば見せてくれると思うよ」
(やっぱりジェフが、私が女だってことをみんなに言いふらしちゃったんだ。しかも胸を見せろなんてふざけないでよ!)
エルは弟に対して怒りが込み上げてきたが、家の中にはかなりの人数の少年たちが入り込んでしまったようで、それに恐怖を感じたエルは納屋に積んであった荷物の陰に身を潜めるしかなかった。
少女だから当たり前だが、エルは近所の少年たちの中でも一番非力で、ケンカに勝った記憶がなかった。だから少年たちに囲まれたら何をされるか分かったものではない。
(恐い・・・助けて父ちゃん、母ちゃん)
恐いし、悔しいし、情けないし、どうしようもない絶望感に怯えるエルだったが、無情にも納屋の扉がゆっくりと開いていく。
「エル兄はここかな?」
ジェフとヨブが納屋に入って来て、ろうそくを手にエルの姿を探す。
「どこかに隠れてるのかもな。おーいエル兄、いたら返事してくれー」
そんな能天気な弟たちとは対照的に、近所の少年たちは異常なまでに興奮していた。
「エルはここに隠れてるらしいぞ。早く探せ」
「ああ。・・・だが、最初に見つけた奴から順番だ」
「早い者勝ちか。いいだろう恨みっこなしだ」
そう言うと少年たちは先を争うように納屋を荒らし始めたが、彼らの興奮ぶりに弟たちはようやく自分が何をしてしまったのかを理解した。
真っ青になったジェフは慌てて、
「みんなやめろよ! この家から出て行ってくれ!」
「うるせえ! お前たちこそしばらく外に出てろ!」
エルを助けようと少年にすがりついたジェフは、その顔を思い切り殴られると、倒れた先の荷物棚を倒してしまい、そこに運悪くエルが隠れていた。
「きゃあっ!」
エルが叫ぶと少年たちがゆっくりと近づいてきた。
「見つけたぞエル・・・本当はお前女だったんだな。今から俺たちがそれを確かめてやるから、そこを動くんじゃねえぞ」
呼吸を荒げて興奮する少年たちに囲まれて、エルは絶望のあまり涙がこぼれた。だが、
「お前たちそこで何をやっている!」
見ると納屋の入り口で父ちゃんが少年たちを睨みつけていた。
「父ちゃんっ!」
「やべえ! もうエルのオヤジが帰ってきやがった」
「畜生、後少しだったのに・・・逃げるぞ!」
慌てて逃げ出した少年たちがいなくなると、オットーは床でガタガタと震えるエルを抱き寄せた。
「・・・恐かっただろうエル」
「・・・うん」
エルはそう返事すると、オットーの胸の中でたくさん泣いた。今日一日中感じていた不安と恐怖が一気に解放されたのだ。
「あっあっ・・・うわあああああん!」
泣き続けるエルの頭をやさしくなでるオットーは、ジェフとヨブを諭すように言った。
「エルが女だってことを今まで隠していたことは謝るが、その理由がよく分かっただろ」
「うん・・・ごめんよ父ちゃん」
「・・・ごめんなさい」
「謝るなら父ちゃんじゃなくエルにだ。それに秘密がバレてしまったから、今まで通りには暮らせないぞ」
「え? ・・・エル兄はどうなっちゃうの?」
「・・・奴隷商人に売られるかもしれない」
「そんな・・・」
自分たちのせいでエルがここにいられなくなると知った弟たちは、声を揃えて泣き始めた。
暗い納屋で泣き続けるエルたち3人を、オットーは悔しそうにしながらしっかり抱きしめるのだった。
◇
そして夜になり、マーヤが仕事から帰って来た。
エルが女だとバレたことは既に聞いているようで、マーヤの頬には涙の跡が残っていた。
「ごめんよエル。母ちゃんはお前を守ってやることができなかった・・・」
そう言ってエルに謝罪するマーヤは、彼女をその胸にしっかりと抱きしめた。
「母ちゃん、俺はどうなるの?」
エルが尋ねるとマーヤは悲痛な顔で彼女に告げた。
「そのことでデニーロの旦那がお越しなんだ。エルの実物を見てどうするかを決めたいと」
「デニーロの旦那が! そうかやっぱり俺は売られてしまうのか・・・」
デニーロの旦那は街有数の大商人・デニーロ商会の会頭で、両親の所有者つまりエルの所有者でもある。
エルは絶望のあまり自分で立つこともできなくなり、両親に支えられながらどうにか納屋から出されたが、狭い居間では、真ん中にある家族のテーブルに足を乗せてふんぞり返えるデニーロの姿が目に入った。
ブクブクと太ったしかめ面の中年の男で、エルの姿を見ると早く連れて来るよう両親を急かした。
両親は躊躇いながらもエルを旦那の前に立たせる。
「ほう・・・こいつがお前たちの娘のエルか。よくも今まで隠し通してやがったな。よく見せてみろ」
オットーより年上のその男は、まるまると太った腹を重そうに抱えてゆっくり立ち上がると、エルを頭の先からつま先まで舐めるように見つめた。そして脂ぎった手で顎をグイっと上げると、口元を歪ませてニヤリと笑った。
「身体中ひどい匂いで顔も煤だらけで真っ黒だし、とても売り物にならないと思ったが、いやいやどうして近くで見ると随分整った顔つきじゃないか。しかも妙に発育もいい。15でこの状態の奴隷女はまず手に入らない。これは相当高く売れるぞ」
そしてデニーロは、エルの豊満な胸を見ながら少し考え込むと、
「よし決めた。お前は奴隷商人に売りさばく前にワシがしばらく飼ってやる。今から屋敷について来い」
(私をしばらく飼う・・・)
まるで家畜のような言い方だが、エルはこの後自分がデニーロに何をされるのかだけは分かった。
「イヤだっ! 俺はこのままこの家で暮らしたい!」
「うるさい、とっとと支度しろ!」
有無を言わせない冷たい目で命じるデニーロは、エルをまるで人として扱っていなかった。
奴隷は所詮「物」であり自由意思など認められず、しかも女は、男に服従を強いられる弱い存在。
つまりエルのような奴隷女は社会の最底辺であり、その存在自体が収奪の対象でしかないのだ。
そのことを身をもって理解したエルがそれでも恐怖で後ずさりすると、それを見たオットーとマーヤは意を決してデニーロに懇願した。
「頼む旦那。エルは俺たちの間にできた初めての子供で、できればこの街で所帯を持たせてやりたいんだ」
「お願いだよ旦那。何でもするからこの子だけは売りに出さないでおくれ」
そう言ってすがりつくオットーとマーヤだが、デニーロは怒りをあらわにすると、オットーの顔を何度も殴りつけ、床に倒れた後も背中を何度も踏みつけた。
「お前たちの娘の所有者はこのワシだ! 自分の所有物をどうしようとワシの勝手だろが! このクズ! クズ! クズッ!」
「ぐっ! がっ! うっ・・・・」
怒りに任せてオットーを蹴り続けるデニーロに、マーヤは必死にすがりついて命乞いをする。
「もうやめとくれ・・・この人が死んじまうよ」
だがデニーロはマーヤを睨み付けると、
「この奴隷風情が、ワシに触るんじゃない!」
バキッ!
「ぎゃあーっ!」
デニーロに頬を殴られ、その勢いで壁に背中を打ちつけたマーヤは、それでも旦那に懇願した。
「お願い、この子だけは連れて行かないでおくれ」
どんなに殴られても蹴られても、必死でエルを守ろうとするオットーとマーヤ。その姿にエルは二人の愛の深さを感じるとともに、奴隷である自分に深い絶望と悲しみを感じた。
「もう嫌・・・。誰か助けて・・・お願い」
その時、異変は起こった。
絶望に黒く塗りつぶされたエルの心の中で何かが「ブチっ」と切れると、彼女の頭の中に膨大な記憶が流れ込んできた。
「うわあっ! な、な、何だこれは・・・」
それはこことは違う別の国で生きていた私の記憶。
その時の私は確かに男で、硬派な生き様を貫き通すためにわざわざ関西の高校に進学した関東の総番長。
「・・・そうだ思い出した。たしか俺は、インテリと2人で三宮の街をブラついていたはず。そして婆さんを助けようと流れ弾に当たった。なのに俺は、ここで奴隷の娘として生きている。どうなってんだこれは」
俺は混乱する記憶を必死に確認する。
奴隷の娘として暮らしたこの15年間の記憶はしっかりと残っているし、硬派な男を目指した15年間の記憶も昨日のことのようにちゃんと覚えている。
どちらも俺自身の記憶であり、それらが混ざり合って・・・なんだか訳がわからなくなってきた。
「ええい、細かいことはどうでもいい! 俺は正義の番長・桜井正義だ!」
そう叫ぶと「私」の心を支配していた恐怖と絶望がウソのように消え去り、代わり「俺」の身体の奥底から力が込み上げて来るのを感じた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・!
「お前だけは絶対に許さん。これでもくらえっ!」
そう叫ぶと、エルはデニーロの顔面に右ストレートを炸裂させた。
次回「奴隷解放の条件」。お楽しみに。
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