第103話 大公妃アナスタシア
大聖女の神殿に突如現れた、世界最大の領土を誇るランドン=アスター帝国の皇帝、ローレシア・メア・アスター。
圧倒的強者のオーラを放つ女帝を前に、臨戦態勢を解除したヒューバート騎士団が一斉に膝をつき、それを見た彼女は表情を緩めてほほ笑みを浮かべた。
「エルの護衛、ご苦労様ジャン。そしてヒューバート騎士団の皆様もお変わりないようで安心しました」
「はっ! 勿体無いお言葉を」
深々と頭を下げるヒューバート騎士団を丁重に労った彼女だったが、なぜかエルには悲しげな表情を浮かべて言葉もかけず、小さなため息をつくと手に持ったレガリスを天に掲げた。
するとシェリアが張り直したはずの結界が再び消滅して、帝国騎士団が大挙して神殿になだれ込んだ。
◇
ジャンのすぐ隣で皇帝に膝をつくエルが、小声でこっそりと尋ねる。
「ジャン、アイツらは何者だ」
「陛下直属の皇宮親衛隊だ」
「あれが皇宮親衛隊・・・」
ジャンによると彼らは帝国全土から選抜された一騎当千の魔導騎士部隊で、陛下の後ろに整列する数十人だけでも千騎の騎士団に相当する戦力があるらしい。
そんな騎士たちが左右に分かれて道が開かれると、立派な軍服に勲章を付けた紳士が2人、豪華なドレスに身を包んだご婦人方をエスコートして、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「ノイエグラーデスの皇宮舞踏会で見たことがある。彼らは確か・・・」
「ああ、アスター大公家のお歴々だよ。初老の夫妻がイワン大公とアナスタシア大公妃。もう一組の夫妻がリアーネ皇女殿下と夫のアルフレッド公爵閣下だ。そして陛下の隣に並んだのが筆頭護衛騎士のアンリエット・ブライト女伯爵だ」
「陛下といつも一緒にいる深紅の女騎士か」
皇帝以下アスター大公家の主だったメンバーが全て勢ぞろいし、その大公家を守護する選りすぐりの魔導騎士が臨戦態勢を整えたことで、彼らの膨大な魔力が空間マナを鳴動させ、神殿全体が小刻みに震えた。
そんな張り詰めた空気の中、皇帝の隣に初老の女性が歩み出てきて、エルを睨みつけながら一喝した。
「あなたは一体、何をやっているのですかっ!」
アナスタシア大公妃の耳をつんざくような金切り声に、思わずビクッとするエルとその仲間たち。
一方、疲れた表情でため息をつく皇帝と、気まずい表情のリアーネ皇女夫妻。
そして無表情の騎士たちが、エルがどう返答するかを静かに見守っていた。
だがエルは臆することなく、普段通りの口調で答えを返した。
「何をしてるかって、見ての通り夏休みの旅行だよ」
そんなエルに、アナスタシアは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「何が夏休みの旅行ですかっ! あなたが亜人の里帰りをさせたいというから、特別に南方新大陸への渡航許可を出してあげたのに、あなたはとんでもないことをしでかしてくれましたね!」
本来ならエルのぞんざいな口調を咎めるべき立場のアナスタシアだったが、そんなことすら頭から抜け落ちるほどエルのした事が許せなかった。
だがエルは何も気にせずアナスタシアに問い返す。
「とんでもないこと?」
「自覚もないのねこの娘は! なぜメルクリウス帝国に入国したのかと聞いているのです! あの国は我が帝国最大の禁忌だというのに全くっ!」
「そのことなら別に行きたくて行ったわけじゃなく、諸悪の根源である鳥人族マフィアをぶっ潰すために」
「誰があなたにそんなことをしろと言いましたか! あなたは亜人の里帰りを終わらせて、さっさと帰ってくればよろしいのです。余計なことなど一切する必要はありません」
「余計なことって、苦しんでいる人々を目の前にして素通りなんかできるかよっ!」
「そこは素通りなさい! あなたは自分がまだ16歳の娘で、王妃になるための教育を寄宿学校で受けている皇女だという自覚はないのですか!」
「うっ・・・言われてみれば確かにそのとおりかもしれんが、目の前の悪事を見て見ぬふりするなど、俺には絶対にできん」
「だからそんなことは帝国軍に任せればいいのです。何のために南方新大陸に帝国軍を駐留させていると思っているのですか!」
「いやだから俺は全軍に出撃命令を出して、南方新大陸全域で鳥人族マフィアの掃討作戦を展開中だ」
「全軍に出撃命令って・・・はあぁぁあ?!」
エルの言葉が咄嗟に理解できないほど面食らったアナスタシアは、同じく呆気にとられるアスター大公家の面々を見てさらに怒りが増した。
「どこの世界に夏休みの旅行で大陸全土を巻き込む戦争を仕掛ける女学生がいるのです! しかも帝都に何の許可もなく勝手に・・・このバカ娘っ!」
「いや、全権大使代理のエレノア様の許可もちゃんと取ったし、そもそもこれは戦争じゃなく鳥人族マフィアをぶっ潰すための作戦で・・・あれ? 俺を叱りに来たのは軍を勝手に動かしたことじゃないのか」
「初耳です! このことも後でしっかり伺いますが、わたくしが怒っているのはランドン公爵を焚き付けてフィリアの息子と結婚しようとしたことです!」
「え、またその話?」
「それ以外に何があるというのですかっ! 普段帝都に寄り尽きもしないあの男が突然やってきたかと思うと、あなたを息子の嫁に欲しいと。メルクリウス王家の王子なら喜んで差し上げたのに、こともあろうに相手はフィリアの息子だと! しかも言うに事欠いてあなたにメルクリウス帝国を継がせたいと」
ギリギリと奥歯を噛み締めて怒りに震えるアナスタシアに、だがエルは事も無げに答えた。
「その話なら俺の方でキッパリ断った。魔王も諦めてそちらに報告に行くと言ってたし、もうこの話は終わりでいいじゃないか」
「よくありません! 確かに縁談がなくなったことはあの男から報告を受けましたが、あなたに帝位を継がせることはまだ諦めていないようす。ですが絶対にそんなことを許すものですかっ!」
そう言うとアナスタシアは、エルにつかつかと歩み寄ってその腕を強引に引っ張った。
「痛ててて」
そんなアナスタシアを無理やり引き離す男がいた。
「エルを離しやがれ!」
「痛っ、この無礼者! アレクセイ・・・分家のお前がなぜここに」
「今まで気づかなかったのかよアナスタシア大公妃。俺は冒険者なんだからどこに居ても不思議はないし、そんなことより理由も告げずにエルを連れ帰ることはこの俺が許さん」
「分家のくせにこのわたくしに歯向かうのですか!」
「・・・二言目には分家、分家って、お前らのそういうところが俺は気に食わないんだよ」
「分家風情が、口を慎みなさい!」
「うるせぇクソババア!」
互いににらみ合うアレクセイとアナスタシアに、うんざりした皇帝が二人を諫める。
「仮にも大公妃に対し、口が過ぎますよアレクセイ」
「ちっ・・・申し訳ございませんでした陛下」
「それからお母様も言い方が過ぎます。アレクセイの言う通りエルを帰還させる理由をちゃんと説明なさってください」
「まっ! ・・・ふん、分かりました。ではこのバカ娘を帰還させる理由を教えてさしあげます。エルには寄宿学校をやめていただき、行儀見習いに出てもらうことにしました」
「「行儀見習いだとっ!」」
エルとアレクセイが同時に叫ぶと、アナスタシアはニヤリと笑ってその言葉を言い放った。
「あなたの嫁ぎ先はバビロニア王国に決まりました」
「よりによってそこかよっ!」
「我が国とバビロニア王国は長年の敵対関係にあり、国境を挟んで騎士団同士がにらみ合っているのはあなたも知っているでしょう」
「まあな・・・」
「ですがいつまでもいがみ合っているのもよくありませんし、バビロニア王家と婚姻関係を結ぶことで長年の敵対関係に終止符を打つことにいたしました」
「つまりこの俺をバビロニア王家に差し出すと」
「そのとおり。そうすれば両国には平和が訪れ、ついでにあなたにメルクリウス帝国の帝位を譲ろうとするあの男の野望も阻止できます。まさに一石二鳥なの、オーッホホホ!」
そう言って高笑いするアナスタシアに、エルが即座に反論する。
「お前はあの国がどういう所か分かっているのか」
「もちろんです。バビロニア王国は東方諸国の中でも一定の影響力を持つ古い国で、フィメール王国時代には我がアスター家とも付き合いがございました」
「それだけか」
「それ以上、何があるのです」
「あの国は女奴隷が最後にたどり着く墓場だ。王都バビロニアにはたくさんの娼館が建ち並び、世界中の男どもが娼婦を買うために集まってきやがる。その金で繁栄しているのがあの国の正体ってわけだ」
「あらそうなの? だったら、あなたにピッタリな国じゃないの」
「どういう意味だっ!」
「奴隷出身のあなたにはピッタリの国だと申し上げたのです。あなたのご両親のエリオットとマーガレットも奴隷の身分だし、家族全員でその国に行って骨を埋めてくればよろしいでしょう。オーッホホホ!」
「・・・俺のことは何を言っても構わんが、父ちゃんと母ちゃんを悪く言うのだけは絶対に許さん! 今の言葉を取り消せ!」
「誰が取り消すものですか。これは命令です、あなたはバビロニア王国に嫁ぎなさい」
「断る!」
「ならあなたの両親を処刑します」
「んだとコラァ!」
勝ち誇った顔のアナスタシアと、怒りではらわたが煮えくり返るエル。
もちろんその怒りはエル一人のものではなく、我慢して聞いていた仲間たち全員がアナスタシアを睨みつけている。
「もう黙ってられない! エル、そんなババアの言うことなんか無視しなさい」
「シェリア!」
赤い瞳を炎のように燃え上がらせたシェリアがエルの隣で仁王立ちで睨みつけると、それを見たアナスタシアが大声を張り上げた。
「無礼者っ! あなたはネルソン侯爵家に嫁ぐ身なのだから、メルクリウス王家の王女ではなく我が帝国の臣下。ランドン公爵といい、メルクリウス王家の人間にはどうしてこう無作法者が多いのかしらね」
「私があんたの臣下ですって? 悪い冗談はやめて。私はクリストフと結婚する気なんかないし、仮に結婚したとしてもあんたの臣下にはならないわよ」
「何を言い出すのよ、この小娘!」
「私を騙して自分の臣下にしようとしても無駄。そもそもネルソン家の侯爵位は、シリウス教を国教とする帝国側の権威付けのために総大司教家に与えられたもの。だから皇家でもないのに侯爵位なんて高位に叙されているけど、領地も徴税権もないただの名誉職」
「だから何?」
「つまり侯爵なんて大層な地位が何の役にも立ってないし、今すぐ返上してもネルソン家は神職だから何も困らないってこと。最初から帝国貴族でも何でもないのにあんたの臣下な訳ないでしょ」
「・・・ふん、意外と頭が回るようねこの王女は」
「ていうか、あんたが人をバカにしすぎなのよ。それにもしこの縁談を強行するなら、こっちだって考えがあるんだからね」
「あなたみたいな小娘に何ができるというの」
「力ずくでエルを奪い返すっ! 結果、帝都が火の海になろうともね」
「・・・あなた本気で言ってるの?」
「私が言ってることは全部本気。ここから先は、言葉の一言一言に気を付けて発言することね」
「・・・くっ」
そう言い放ったシェリアからは見たことのないような凶悪なオーラが放たれ、アナスタシアを飲み込もうとしていた。
次回もお楽しみに。
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