第二話 違う常識
(なっ、なんとか木に捕まらないとっ!!)
どうにか体の体勢を立て直そうとする。 だが空気抵抗が邪魔をしているのだろうか、体は全く言うことを聞かない。 リンは藁にもすがる思いで、必死に木を掴もうとしていた。
刹那、リンの頭にはなぜか見知らぬ景色がよぎっていた。
真っ赤な景色。思い出したくないという感情だけが共に湧き出る不思議な光景。視点の低さから分かる、子供の頃の思い出。
何か大切なものを失ったことがあるような…。
そんなことを考えている余裕はない、はずなのに。
意識が、途切れるように、その記憶にすりつぶされるように、彼女は気絶した。
ただ、その体は落ちきる前に、不自然に速度を落とした。
なぜなら雛の親が彼女と雛を空中で受け止めたから。
後ろから、親と共に来たミルが息を切らしながら二人の元へ駆けつける。雛の母親がリンをミルの胸元へと優しくおろし、そのままミルは腕をゆっくりと地面におろした。
「リン!しっかりっ!!」
すかさず、体を大きく揺らす。
「んっ…」
目を開けると、彼女の視界いっぱいにミルのとても心配そうな表情があった。
「……み、ミル?」
目線で周囲を見回す。さっきまでずっと下に見ていた地面が、すぐそばに見える。
助かった……ということを理解すると、急に自身の体中の血が戻った様に火照り出した。ちょっとだけ、むしろ暑い位に。
「良かった……」
そう言うと、リンを胸の前で抱えていたミルは音も無く地面に崩れ落ちた。
「そ、その。勝手にどっか行って、ごめんなさい……」
怒られるかと思って、リンの方から顔をそらす。しかし怒られるどころか、むしろ上からュッと抱きしめられた。
「本当に。びっくりしたんだから、もうっ」
視界の片隅には、さっきの雛とその親らしき姿が見える。親の方は、まさしくどこかのおとぎ話に出てきそうな妖鳥。けれど優しく雛を抱きしめている様子は優しい母親。赤ん坊も無事助けられたようだ。
「それにしても木に登ろうなんて、ね?リンは意外とアグレッシブというか…」
「そ、それはその」
「巣から落ちた子どもを、巣に帰そうとしてくれたのですね」
肩に赤ん坊を乗せた親が、改めてリンに話しかける。髪の長さやその顔立ちから見て、母親だろうか。
「は、はいっ!」
声を掛けられて、ぴくりとリンは反応する。
「すいません。ありがとうございます」
丁寧に彼女は礼をした。
「い、いえこちらこそ、お子さんを危ない目に合わせてしまってすいません!!」
リンはミルの側からスッと立ち上がり、その母親よりもずっと深く頭を下げた。
謝る彼女に優しく母親は言葉を返した。
「大丈夫です、私たちは頑丈ですから。ほら、娘もあなたのこと気に入ったようですし」
ピィーー!と鳴きながら小さな翼を広げて、その赤ん坊がリンの方に飛んでくる。
頭を撫でてあげると、また愛らしい鳴き声で彼女の頰に擦り寄った。
「それに人間の中にも、あの人の他に親切にしてくれる方がいるというのが分かったんですから」
「あの人?」
ミルは少し考え込む素ぶりを見せつつ、リンに言葉を掛けた。
「リン。多分、あの人っていうのがこの夢を見てる人かもしれない」
「え?」
「本来、彼らみたいな生き物や人々は、夢を見ている人間に関係のある人しか現れない。この夢を見ている人がかつて出会った誰か、なんだよ」
ミルもその場に立つと、手首の機器が方位を示す方角見た。
「お二人は彼を捜しているのですか?」
「はい!」
声を揃えて二人は答える。
「それなら、あなた方が来た方向をそのまま進んで下さい。すると森を抜け、丘が見えます」
翼を向けて、その方向を指し示す。それはミルが確認した方角と同じだった。
「その丘の上に立つ風車小屋。そこに彼は住んでいます」
「風車小屋、と。ありがとうございます」
「一緒に行ければ幸いなんですが……」
言いどもる視線の先には、小さな雛。その母親の視線に、ミルは気付いた。
「いえいえ、その情報だけで十分ですよ。リン、行こうか」
こくりとリンもお辞儀を返し、その場を立ち去るミルに付いていく。
気を付けて下さいねという優しい声と、赤ん坊の元気な鳴き声が背中に聞こえていた。
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「そういえば」
密林で歩いている途中、ふとリンは思い出したかの様に声を上げた。
「うん?」
「私、思い出しました。ほんの一部……」
「えっ!?」
目を見開いて、驚いた様子を見せるミル。
「木から、落ちた時……その、前にもこんな、恐い経験をしたかの様な」
リンは表現できない感覚を、身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「前にもあった、恐い経験…?」
ミルがリンの言った事を繰り返す。彼女は頷きながら、言葉を続けた。
「でも、ミルが私を抱えて起こしてくれた時には、もう忘れちゃいました」
「ボクが抱えたとき?あぁ、お姫様抱っこして___お姫様抱っこしたね!?」
ミルは自分がやった事を思い出し、首の後ろに手を当て、その視線を泳がせる。
リンは、そんな車掌の様子をジッと見つめる。恥ずかしさと素直さと、そんな二つが混ざったしばらくの沈黙の後、二人の視線が当たる。沈黙にしびれを切らした様に、ミルは咳払いをしながら再び口を開いた。
「えーと、それで、他に何か思い出したかい?」
「うーん……」
なんとか、その記憶を思い出そうとする。けれど浮かんでくることは、真っ赤なイメージと不思議な恐怖だけ。まるで靄がかかったように、詳しいことは思い出せない。
リンは、顔を横に振った。
ミルは「そっか」と軽く溜め息を吐いた。
「まあ、これからゆっくり思い出せるはずだから大丈夫だよ」
「うん……」
ミルにそう言われたものの、どうにも、その人が彼女の心には引っかかった。 しかし、思い出そうとすればするほどに、その記憶に想像か、あるいは靄がかかっていく。むしろ、その奥底に潜んでいそうな、何故かそう感じてしまう恐怖心が次第に気持ちを支配し始めていた。
もちろん、その表情をミルが見逃すわけがない。
「いいんだよ。無理しなくて」
いつの間にか近寄っていた車掌、リンは頭をポンッと叩かれる。
ハッとして、頭に載せられた掌を掴めば、目の前には初めて会った時と同じミルの顔。
頭を支配してたそれを吹っ飛ばすように、リンの顔に恥じらいが生まれた。
「もう、いい加減慣れてってば」
ミルは小さく笑って、前へと進み始めた。
後ろで弱弱しく「無理です」と呟くリンも、次第に足を進め始める。
「ところでミル、さっきの人と顔見知りみたいでしたね」
「あぁ。それはリンとはぐれた後、しばらく探していた時に会ったんだ」
ミルは改めて、その時の会話を回想した。
「色んな情報も貰ったさ。どうやらこの世界は、騎士様やお姫様が出てくるタイプの世界みたいらしい。で、『あの人』というのは、どうやらこの世界で狩りをして暮らしているみたいだね。分かりやすく言うなら、傭兵稼業?」
「な、なるほど……」
つらつらと出てくる、調査済みの情報。
そんなミルの用意周到さに彼女は呆気にとられていた。
「そうそう。彼らは、この世界では魔物というらしいね」
「ま、魔物?」
確かに自分達とは違い、腕は翼になっていた。足も、例えば鳥類のそれに似た形をしていれば、肌も露出部分は少なく、羽毛が生えていた。
「初めて会った時、彼女はボクに、自分がハーピーという魔物である事を告げたんだ」
初対面での様子は、少しこちらを睨んでいるかの様な、怯えた様な、そんな様子だったとミルは言う。
「この世界では、人間は彼らみたいな魔物を忌み嫌ってるらしい。見つけたら、それこそ始末するほどに」
「始末?!」
「うん。因縁なのか、差別なのかはわからないけど、そうみたいだね。彼女の旦那さんも既に……」
その話を聞いてか、少し寂しげに少女は来た方向を振り向く。
「そう、なんですね」
さっきの場所から随分歩いたので、勿論そこに彼らの姿はない。
リンは短い出会いだったけれど、敵意の無い優しそうな魔物だったことを思い出す。
「良い人達なのに…」
自分とは関係が無くとも、そんな事を聞いてなんとも思わない訳がない。
リンは歯を食いしばり、顔をちょっとだけうつ向かせた。
二人が歩く世界は夢の世界。それは、この夢を見ている人間の現実的な事情を具現した世界に過ぎない。
だからこそ、より彼らが言っていた『あの人』に会おうという気持ちが増していった。
「リン、そろそろ森を抜けるよ」
開け始めた木々を抜けると、辺りは既にオレンジ色に染まっていた。先まで広がる丘陵も、夕暮れの空を映すかのような色合いを映し出ている。そこに一つだけ、ポツンと小屋が立っている。景色とは色合いの異なる、赤レンガの小屋。小さな影が、坂に伸びている。
そんな、まるで水彩画で描かれたような景色に、二人はつい憧憬していた。
「…すごい景色、だね」
「そう、だね…あいや、そう。この先の小屋に狩人は居るはずだよ」
「あと少し、ですね!」
二人は、丘の上にそびえ立つ風車小屋に向かう。
そこに、この夢を見ている人間がいると信じて。