プロローグ
(ここは……? )
目覚める意識と共に、少女は目蓋を開く。そこは足元すら見えない、不思議にも暗く澄んだ世界。まるで星明かりを頼りにして進む夜の道ように暗く…その色味は、彼女が微かな風に靡かせるその艶やかな髪色と同じ程度。
ぼんやりと働く頭で、彼女はゆっくりと自分の状況を確認した。
(記憶は無い。意識はある、けど)
そうして初めて彼女は、自分は唯一名前だけしか暗唱できないというのを実感した。
しかもそれ自体、名付けられたモノという認識の元【名前】を暗唱するのではない。執拗に何度もこの名を使ってきたんだ、という何となくの感覚に寄り添った産物を、脳裏で表しているに過ぎなかった。
(私……私の名前、は)
何度復唱しても決して思い出なんて温かいものは浮かんでこない、虚しい程に。
だから彼女はここにいた。
真っ暗な、夜空のような世界で、彼女はボンヤリと、立ち尽くしていた。
そんな彼女の目に映った最初の光。
(あれは……? )
その光はゆっくりと速度を落としながら、彼女の側に近づいてくる。
真っ直ぐに進むけれど、正面からぶつかる様子もない。その影が動く様子はまさしく列車——寝台列車の様だった。
しばらくの後、それは彼女の隣に停車する。
目を丸くして見つめていると、中から人が降りてきた。
車窓からの明かりを背にするそのシルエットは車掌のようにも見えた。
「やぁ。ここがキミの夢かい?」
逆光でイマイチ見えなかった顔は、近づくにつれて姿を現す。
あどけなさの残る整った顔立ちに翡翠色の——まるで妖精の羽の様に透き通った髪の色。
そんな今にも風に溶けていきそうな髪色をした人影が、彼女に手を差し出した。
「っ……ぇ…あっ」
いきなり美人に話しかけられたからか、或いは話す感覚まで忘れたからなのか。
彼女は咄嗟に反応できず、言葉に詰まる。
「ははっ、ごめんごめん。急に話しかけられても困るよね」
「そ、その…ここ、どこかわかりますか?」
「ここはね、キミの夢。だけど」
車掌はゆっくりと辺りを見渡した。その視線の先に見えるのは、やはり変わらない真っ暗な世界。けれど不安を煽るわけでもなく、車掌は不思議と微笑んでいた。
「キミは帰る場所も見当たらないようだし、それにこの暗さ……それを探すすべもないようだからね」
車掌はニッコリと笑い、優しく彼女の手を取った。柔らかな手が触れ合うと、ぎゅっと車掌は彼女を引き寄せる。身長は二人とも大して変わらない。
その証拠に少女の腰は引けていたが、互いに顔がとても近かった。
彼女はすぐ車掌から目を背けた。ただ真っ直ぐに、こんな至近距離で見つめられることに慣れていなかったから。
そんなことは露知らず、車掌は温もりのある声を流した。
「とりあえず、ここは暗いから。中へおいで」
彼女の手を引いて、少年にも少女にも見える車掌は列車の中へ連れていった。
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「落ち着いた?」
車内の座席に対面で座る二人。少女は借りてきた猫のように縮こまりながら、車掌が出してくれた温かい紅茶をちびちびと飲んでいた。
一方の車掌は、水性色の髪の下に潜む柔らかな頬に手を付けて、彼女の様子を伺っている。
少しの間を空けて、少女は恥ずかしそうに下を俯いた。
「…ごめんなさい。さっきは」
「あぁ良いんだよ。むしろボクの方こそ、無理やり連れ出してごめんね」
優しく目を細めて、口角を上げる。そんな車掌の表情は、少女を落ち着かせるには十分だった。
「改めてその……ここは、どこなんですか?」
小さな手で、置き皿に紅茶のカップを戻す。心地の良い陶器の当たる音が、机の上に溢れる。
「ここはね、夢の世界。って言っても本当はこのことをボクの口からキミたちに言っちゃいけないんだけどね」
車窓の外を眺める車掌の瞳には、ついさっき二人が立っていた足元に忍ぶ、曖昧な暗闇が映っていた
「きみたち?」
「そう、キミたち。あぁ、キミは例外に当たるけど。だってキミは記憶を無くしているようだから」
「記憶…?」
話をすればするほどに、車掌の目には確かに見えている——そんな世界へと踏み込んでいく感覚を彼女は覚え始めていた。
「そう、記憶。もっと言えば『キミに関する記憶』、かな?」
紅茶からやんわりと立ち上る湯気が、列車内のモダンな雰囲気の明かりに照らされる。
車掌の言う通り、彼女には彼女自身の記憶はないのだろう。
その証拠に、物の名前や目の前の机の質感、車掌という単語。それらが出てくる一方で、改めて思い返しても自分のことは何も分からない。
「記憶がない人は珍しい、ボクも聞いたことがない。だから例外、かな」
「私は、例外……」
繰り返す対話の中で、少女の疑問が一つずつ増えていく。その度に表情は少しずつ暗くなって。
そんな彼女を横目で見て、ああそうかと車掌はゆっくり瞬きをした。
そのまま視線は変えず。
「少し長い話をするよ。キミの整理が追いつくよう端的に話す努力はするけどね」
車掌は一息吐いて、口を開いた。
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「……これがボクの知っていること、キミに知ってほしいことかな」
彼女は脳内で復唱するように、車掌の話す言葉一つ一つに耳を傾けていた。
それはまるで、絵本の中の様な話だった。現実の記憶と本人の想像が絡み合った夢。そんな夢へと迷い込んだ、様々な世界——色んな時代の人々を救う。
それが車掌の仕事だそうだ。
「ボクはね、一人の夢を覚ましたら、列車に乗ってまた次の人のところへ行くんだ。さっきキミを見つけたのも、元々はキミの夢を覚ます仕事の為、だった」
「それじゃあ……私の帰る方法は?」
彼女はその声色に、不安だという色合いを少し付け加えていた。
それを汲み取る様に車掌は言葉を返した。
「見つけてあげるよ。ボクが」
彼女の方を向いて、ニッコリと笑った。キミの帰る場所を一緒に見つけよう、と。車掌は約束するように、言葉を重ねた。
「よ、よろしく…お願いします」
彼女は車掌にお辞儀をした。車掌は反応を見て、クスリと笑いながら帽子を取ると、それを机の上に置いた。次に自分の方に下げられた彼女の頭を、左手でポンっと叩く。
「そう硬くならなくてもいいんだよ?しばらく一緒に過ごそうってことだから」
車掌は手を置いたまま、柔らかな唇をふわりとつむいだ。上目でその表情を覗きながら、少女は肩をすくめる。
「は、はい…」
頭に左手を置かれたまま返事をする彼女に、車掌はニヤリとした笑いを浮かべた。
「あ。今畏まったね?」
車掌はそのまま手を左右に揺さぶる。彼女の髪をクシャクシャにしながら、からかうように「もっとフリーにしないと!」と笑う。
「だ、ダメです!」
困った表情をしながらも頭を押さえ、少しの笑みを交えて彼女は言葉を返した。それは、拒絶ではなく心地良さを含んだ言葉だった。
これが初対面の二人の会話。
これから訪れる大きな冒険、夢世界の旅の始まりの会話だった。