【読切】「君を愛することはない」と仰った旦那さま、もしかして私にべた惚れなことに無自覚なんですか?
「私が君を愛することはない」
きっぱりと、そう言い切ったのは五分前に婚約手続きを終えたばかりの男。
二代前の当主の事業の失敗で借金を重ね、爵位没収も秒読みだと言われた、血統だけは由緒正しい伯爵家の現当主ユーリ・ドマ伯爵。黒い髪に日に焼けた肌の体格の良い青年だ。
「この婚約は家同士の利益のためのものだ。それはまず、理解頂いていると思う」
「え、えぇ。まぁ……」
容赦なく淡々と言葉を突きつけられた相手は、戸惑うように頷く。
流行のエマーリアの最新作を身に着けた美しい女性。光の祝福を受けたような豪奢な黄金の髪は丁寧に巻かれ、肌は白く、乳母日傘で大切に育てられたというのが一目でわかる。家は爵位こそ持たないが、国一番の商家、ライラック商会の一人娘であるラヴィア。
契約書の署名が終わり、両家が初めて顔を合わせる婚約者二人を「少し話でもしてはどうか」と気をきかせて個室で二人っきりにした。
これは、いかに婚約者同士と言えど、常識ではありえないことである。淑女が家族、または夫ではない男性と会うのであれば扉は開けておき、外で乳母か母親、あるいは父親が待機しているのが常識だ。
けれど扉は固く閉められ、廊下に誰もいないことはユーリもラヴィアもわかっている。
ドマ家もライラック商会も、この場で若い男女が「うっかり一線を越えてしまう」こと、あるいはそうまでいかずとも、紳士淑女として接する以上の交流を熱望しているのだ。
ユーリは貧乏を嘆く母親から。ラヴィアは爵位を切望する祖父から「相手を誘惑してこい」と言いつけられている。
だというのにユーリは母の言いつけ通りに行動することはなく、椅子に腰かける麗しい令嬢を、まるで醜い蟾蜍でも見るようなうんざりした眼差しで見下ろすばかりだ。
「私には幼い頃から、愛を誓った愛しい人がいる。彼女は私と同じ伯爵家の令嬢で、本来であれば私の妻になるはずだった」
「存じております」
ラヴィアは静かに頷いた。ユーリは満足気に目を細める。
「そうか。では私に、私が彼女に向ける感情と同等、あるいはそれに近しいものを君に向けるだろうという期待、あるいは願望を抱くのは止めてくれ。私は君を愛さないし、君の愛も必要としていない。君に私が求めることは伯爵家の女主人として屋敷を万事取り仕切ること、夜会でのパートナーであることだ」
「それと資金援助ですわね?」
ラヴィアと婚約したことにより、ライラック商会はドマ伯爵家の借金を全て肩代わりし支払うことを約束した。その上、ラヴィアを迎えるための多額の支度金、ラヴィアが嫁ぐ際に持っていく持参金は、合計すればドマ家の借金の総額を軽く上回るだけの額だった。
「……」
ユーリは黙った。顔を顰め、舌打ちをする。品の良くない振る舞いだ。他人の、それも淑女の前ですべき行いではない。けれどラヴィアはそれを咎める様子がなかった。
*
つらつらと並べられ、容赦なく投げつけられる言葉の何もかもは、ただ聞くことしかできなければ、一生を共に過ごす男性からのあまりに非情な言葉だった。
愛することはない。他に愛人がいることが前提の結婚。金だけが目当て。ラヴィアという人格を持った人間を、自分と同じ感情がある生き物だとは一切考えずに自分の都合だけを告げてくる無遠慮で嫌な男。
で、あるはずなのだが、ラヴィアはむすっと黙って部屋の隅に立っている婚約者様の、頭上をチラリ、と盗み見た。
「……」
はぁ、と、ラヴィアはため息をついた。
そうすると、ぴくり、と神経質そうにユーリの肩が揺れる。ますます不機嫌そうな顔になり、ラヴィアに何か言おうとした口は開きかけ、閉じた。が。
「……この婚約が気に入らないのは私とて同じだ。私は君の所為で恋人を妻にできなくなったんだぞ」
などと仰る。
ため息をついたラヴィアは、ただただ困惑するしかない。
辛辣で酷い言葉ばかりかけてくるこの婚約者様。
黒い頭の真上には、真っ赤な可愛らしいハートが浮かんでいる。
「……」
あれは何なのだろう、という疑問はない。
幼い頃、物心ついた頃から、ラヴィアにとってあのハートの浮遊物は当り前に見えるものだった。
成り上がりの祖父を助けた亡き祖母曰く、あれは「好感度」らしい。
祖母の一族の女にだけ見えるもので、祖母はそれを使ってライラック商会を大きくしたと話していた。
『あのハートはねぇ。お前のことが好きな人間の上に浮かんでいるのさ。大きさや形は人によって異なるけれど、あたしの目に映るおじいさんのハートの大きさは年々大きくなったよ』
そういうものなのだから、そういうものだとラヴィアは納得した。
なのでこのハートが見えることについては、そういうものなので細かいことはどうでもいい。
問題はなぜ、口では自分を疎むようなことばかり言う初対面の男の頭上に、ハートが存在しているか、だ。
(しかも……デカくない???商会勤めで仲が良いユアン(幼馴染)だって、この半分くらいしかないんだが???)
好感度の見えるラヴィア。自分に好意を持っている異性を発見したことは十六歳の人生の中で何度かあった。
当人が何も言わないので気付かないふりをすることは慣れているが、それにしたって、未来の旦那様(仮面夫婦予定)のお方のハートは、真っ赤だしデカい。
「閣下のお話はよくわかりました。望まれる通りに振る舞う用意はございますので、ご安心ください」
ラヴィアが喋ると、頭上のハートは真っ赤に震えながら大きくなっていくが、ユーリの顔はしかめっ面のままである。
「……閣下は、わたくしを疎んでいらっしゃるのですよね?」
もしかして、好感度を見る目が反対の感情を見るようになったのではないかと心配になる。確認のため、相手の気持ちを聞いてみると、ユーリは舌打ちをした。
「私の話を聞いていなかったのか、それとも頭が悪くて理解できなかったのか?」
なんという酷い言葉。
頭上のハートが一層激しく震えた!
ぽんっ、と弾ける!!
ばかデカいハートから、掌サイズの小さなハートが溢れ出てラヴィアに降り注ぐ!!
「あら……!」
思わずラヴィアは声を上げた。
それを非難ゆえだと思ったらしいユーリは眉間に皺を寄せ、腕を組んでそっぽを向く。
「我が家門が、同じ貴族ではなく、成り金の卑しい家の娘を迎えなければならない屈辱、君には想像することもできないだろうな」
ずけずけと投げつけられる侮辱!
ハートはラヴィアの足元に散らばってぴょんぴょん飛び跳ねている!!
ラヴィアは震えた!!
ユーリはそっぽを向いている!!
(どうすればいいかわからない……!)
ラヴィアは目の前が真っ暗になった!!!!
*
「……っ、ラヴィア嬢!」
くらり、と力なく椅子に凭れたラヴィアを見て、ユーリは慌てた。
自分があまりにも非情な言葉ばかり投げつけるので、心優しく穏やかな彼女は耐えられず気絶してしまったに違いない。
「……」
ユーリが頬に触れると、ぱちり、と長い睫毛が揺れて、ラヴィア嬢が意識を取り戻した。一瞬のふらつきだったのか、顔色は青くはないが、熱でもあるのか真っ赤だった。
「……演技か?わざと意識を失ったようなフリをして、私の関心を引こうとしたのなら、無駄だ」
「……はぁ……」
具合が悪いのなら、今すぐにこの悪趣味な空間から彼女を開放したかったが、こんなに顔を真っ赤にしている彼女が部屋から出たら、あの母が何を想像するのか、ユーリは考えたくなかった。
(私にできることは、彼女に嫌われ、距離を置かれることくらいか)
ユーリは庶子だ。先代ドマ伯爵が外で作った子だった。産みの母親は裕福な家の娘で、顔が良く貴族の父に必死で貢いだ。母の実家である商家も「妾でいいから貴族の方と繋がりを持ちたい」と考え、ドマ家の傾いた家計をなんとか立て直そうと、支援を惜しまなかったと言う。そして父と共同で行った事業が失敗し、父は母の商家に責任を全て押し付け、貴族を騙した罪で母の一族は処刑された。
母だけはユーリを身ごもっていたので処刑は免れたが、冬の寒い日に、牢獄でユーリを産んで亡くなった。
ユーリは処刑人の元で十五歳まで育てられたが、ドマ家に男児が生まれなかったこと、見た目だけは良い父と母の良い特徴を受け継いだ結果の秀でた容姿が、ドマ夫人の目に留まった。
父が母にしたことと同じことを、自分がラヴィア嬢にしなければならないことが、ユーリには嫌だった。
だが、母の商家とライラック商会の決定的な違いは、ライラック商会は、母の頃より膨れ上がったドマ家の借金を返済しても全く傾かないほどの、富豪であるということだ。
義母、ドマ夫人がどれ程歓喜したことか。
ユーリを「アバズレの子」と詰り罵倒し、使用人たちにも見下すように命じて扱ってきた、名前ばかりの伯爵を、平民の小娘と結婚させて、平民の財産を貪る。
夫への復讐でもあるのだろう。女の感情は複雑でユーリには想像することしかできないが、(今や)前ドマ夫人は先代伯爵を愛していて、憎んでいるのだろう。
「私には恋人がいるんだ。君に惑わされたりはしない」
そんな女性はいないが、こういえば、ラヴィアは傷付き怒るだろうと思った。
ユーリは自分から婚約を破棄できないし、ラヴィアの家も、爵位を切望しているという話は社交界で有名だった。お互い、この結婚からは逃れられない。
だからユーリはラヴィアに嫌われ「夫にだって愛人がいるのだから」と、彼女が女として誰か、他に愛する男を作れるようにしたかった。
この結婚が戦略結婚であることなど誰の目にも明らかだ。だから、自分とは違い、生まれが正しくきちんと洗練された紳士が、ラヴィアを見初めるべきなのだ。
なにしろ……。
「はい。閣下。存じております。そのようなつもりはございませんのでご安心くださいませ」
冷たいユーリの言葉に、優しく微笑むラヴィア。
美しいだけではなかった。
ユーリはこれまで、こんなに優しく、誰かに微笑まれたことなどない。
太陽の光のような黄金の髪は室内でも眩しかった。
ユーリは処刑人の元で育ち、幼い頃は地下室だけが自分の世界だった。
僅かに差し込む陽の光はか細かったけれど、眩しく、まるでラヴィア嬢の髪のようだったと、あのころの記憶が、自分の救いが思い出される。
ラヴィアの所作は美しかった。爵位こそないライラック商会が、娘に最高の教育を施し慈しんで育てたことは明らかだ。そういう完璧な淑女。
ユーリは彼女が自分以外の貴族の男、正しく貴族家の血を持つ男と子供を作ってくれたなら、喜んでその子を自分の子と認知してドマ家の跡取りにする考えだ。
だから必死になって、嫌われるような言葉を吐く。
自分が酷い言葉を吐くのに、ラヴィア嬢の表情は優しく、まるで幼い子供の癇癪を見守るように穏やかだ。胸の内を全て晒して、彼女に抱きしめられたらなどと、そんな夢想だけで、ユーリはたまらない気持ちになった。
だから、言い続ける。
「私は君を愛することはない」
ラヴィア嬢が微笑んだ、美しい形の眉をハの字にさせて、困った子供を見るように微笑んだ。
二次創作では何番煎じで、なろうでも誰かやってそうなネタではありますが、書きたかったので……。