『MとCに関するいくつかの推察』⑤
「はい。こんな時になんやけど、せっかく用意して来たから、渡しておくね」
リビングに戻ってすぐ、藤堂が可愛らしくラッピングされた袋を、差し出して来た。中身はチョコブラウニーのようだが、手作りの物らしい。なんでも、僕と伊勢原が現場検証をしている間に、自室から取って来たのだとか。
礼を言って受け取ってから、今日はバレンタイン・デーだったことを思い出す。
「そう言えば、今日バレンタインやったな。今年もなんとかゼロ個は免れたわ」
こちらも同じ物を手渡された伊勢原が、満更でもなさそうな笑みを浮かべた──かと思うと、すぐさま表情を翳らせる。
「もしかしたら、クレアもチョコ持って来とったんかな? あいつ、こう言う日本独自の習慣みたいなの、いろいろ勉強しとったやろ?」
誰にともなく、彼は問いかけた。
海外のバレンタイン・デーは、一般的に、「男性から意中の女性に贈り物をする日」であるらしい。さらに言えば、特段チョコレートである必要もなく、愛を伝える為の品であれば、何を贈っても問題はないようだ。
むしろ、日本だけなのだろう。女性から男性にチョコレートを贈るイベントとして、定着しているのは。
「……かも知れんね。クレア、『ワタシも“ギリ”チョコレートをプレゼントしてみたい』って、前に言うてたから」
クレアらしい言葉だと思った。「義理」と言う概念も、他の国にはないのかも知れない。
「対馬は? チョコくれへんのか?」
伊勢原が、図々しくそう言った。もしかしたら、事件とは関係のない話題を続ける為に、わざと戯けてみせたのかも知れない。
しかし、話を振られた対馬は、自分の両手の爪を見下ろしたまま、答えなかった。何事か思案しているようだ。
「おい、無視すんなや。別に、もらえんくてもそこまで落ち込まんし」
「え? ああ、ごめん、聞いてへんかったわ。何の話?」
「いや、だからチョコを──まあええか。それより、どないしたん? さっきから黙り込んで」
「実は……思い出したの。『斜陽』の『M・C』に、もう一つ意味があったことを」
「マイ、チェホフ」と「マイ、コメディアン」の他に、まだ何かあっただろうか?
そう尋ねると、対馬はまっすぐにこちらを見返した。どことなく、冷淡に感じられる眼差しで。
「……『マイ、チャイルド』。物語の中盤で、かず子は、『マイ、チェホフのイニシャルではないんです。私は、作家にこいしているのではございません』って断った上で、上原に対して贈った『M・C』の意味は、『マイ、チャイルド』であると認めとる。たぶん、かず子は、作家としてやなく、一人の人間として上原を愛しとるってことを、伝えたかったんやろうね」
そう言えば。今回出された課題を書くに当たり、一通り読み返していたクセに、失念していた。
「けど、もしあれが『マイ、チャイルド』だったとすると、誰のことになるんだ? クレアに子供がいたはずがないし──いたとしても、雪山の別荘て彼女を殺害するわけがない」
そんなわかりきったことを思わず口走ると、対馬は小さくかぶりを振った。
「もちろん、それくらいわかっとるよ。そうやなくて──ねえ? クレア、よく言ってなかった? 若庭くんのこと、童顔やって」
「確かに言われたことはあるけど、よくってほどじゃあ」
そこまで口にして、ようやく理解した。対馬が何を言いたいのかを。
「もしかして、今度は僕を疑っているのか?『マイ、チャイルド』は、僕だって?──まさか」
そもそも、あのダイイング・メッセージの「C」は、どうや小文字──すやわち「c」──である可能性が高い。このことに気付いた時から、『斜陽』とは無関係の単語なのではないかと、僕は疑い始めていた。
「自分でも、無理のある推察やとは思うよ。でも、実際若庭くんってちょっと童顔やし、カナダ人のクレアからしたら、『チャイルド』っぽいイメージやったんやない?」
「そんなことを言い出したら、みんなだって幼く見えていたかも知れないだろ」
「そうやけど……何にせよ、若庭くんにはアリバイがないわけやし」
確かに、クレアがリビングを出て行ってから、廊下で対馬と会うまで、僕は一人でいた。それは事実なのだから認めるが、しかし、アリバイがないのは全員同じはずだ。
このことを指摘したのは、僕ではなく藤堂だった。
「待って、早希ちゃん。私たちだって、あの時はみんな一人でおったやろ? それだけで若庭くんを疑うのは、無理があるんやない?」
「藤堂の言うとおりやな」伊勢原が加勢する。「俺はずっと部屋で爆睡しとったし、対馬は談話室におったんやろ? で、その間、藤堂は一人で夕飯の支度をしとった。つまり、全員に犯行の機会があったわけや」
「全員に? それって、まさか私も含まれとるの?」
対馬の細い眉が吊り上がる。
「当たり前やろ。誰かと電話で話しとったからって、アリバイにはならんからな。どれくらい通話してたんかもわからんし、ホンマはすぐに切り上げて、クレアをぶん殴ってから、また談話室に戻ったのかも知れん。あるいは、そもそもその電話自体が、ある種の“仕込み”やった可能性もある。つまり、別のスマホから自分にかけるか、共犯者にかけさせるかして、アリバイを偽装しようとした、とかな」
「はあ? それじゃあ、私は初めからクレアを殺すつもりで、ここに来てたって言いたいわけ?──アホくさ。別のスマホなんて用意する余裕があるんやったら、ちゃんと凶器も準備して来るわ。少なくとも、般若のお面なんて使わんと思うけど?」
もっともな言い分だ。電話が作為的なものか否かはともかくとして、今回の事件に計画性があるとは、到底思えない。
むしろ、出窓に飾ってあった般若の面を凶器に選んでいる以上、突発的な犯行であることは、間違いないだろう。
「伊勢原くんの方こそ、マジでずっと寝てたん?」
「ああ。そらもうグッスリと。夜勤明けの旅行と登山で、体力の限界やってん」
伊勢原は大学の近くのコンビニに勤めており、今日も深夜から早朝まで、シフトが入っていたそうだ。確かに、疲れきって熟睡してしまったとしても、致し方あるまい。
「どこぞのお嬢さんと違て、庶民は汗水流して働かんと、一人暮らしなんてできんからな」
「それ、どう言う意味? 私だって──今はやってへんだけで──、バイトくらいしたことあるけど」
いつの間にやら、座の空気が険悪なものに変わりつつあった。このままではいけないと感じ──藤堂が、助けを乞うような眼差しを向けて来たこともあり──、僕は軌道修正を図る。
「無闇に疑い合っていても何も始まらないし、ひとまず、全員の話が事実だと考えよう。ええと、対馬は夕食の支度をしている途中で、電話がかかって来たんだよね?」
「そ。桜にハンバーグを担当してもらって、私はポトフの下ごしらえしよ思ったら、ちょうどかかって来てん」
「ちなみに、誰から?」
「パパ。なんか、私らのこと心配して電話したんやって。『山の方吹雪いて来たみたいやけど、平気か』とか、『明日は麓の町まで迎えに行こうか?』とか、そんな感じでね。私が言うのアレやけど、うちのパパ、ちよっと過保護気味やから」
対馬は呆れたように、肩を竦めてみせる。事実、僕たちは吹雪のせいで孤立してしまっているのだし、親御さんとしては心配になって当然だろう。
とは言え、安全確認の電話だけで三十分近くも費やすと言うのは、いささか長すぎるようにも感じるのだが……。
すると、こちらの疑問を察知したのか、対馬はこう言い添える。
「他にも二人のこと──伊勢原くんと若庭くんのことで、いろいろ訊かれて長くなってん。要するに、どっちかと親密な関係なんかってことを。たぶん、パパが一番気になっとったんは、そこなんやと思う」
なるほど。娘から見ても「過保護」な父親であるのなら、余計に気懸りだったはずだ。
まあ、実際には僕も伊勢原も、彼女とは単に友人同士の間柄なので、こちらに関しては杞憂に他ならないが。
──と、ここで僕は、唐突にあることを思い出した。せっかくなので、みんなにも確認してみるか。
「そう言えば、クレアがトイレに行って少ししたあと──僕たちが事件に気付く、二十分くらい前かな──、おかしな物音を聞いた気がしたんだけど、みんなはどうかな? 何か聞かなかった? こう、ガンって感じで、硬い物が床に落ちるような音なんだけど」
三人は意外そうな顔をしつつも、それぞれ記憶の襞を探っているらしかった。
ほどなくして、藤堂が、まっさきにこう呟く。
「確かに、そんな音が聞こえたかも……。あの時は、吹雪のせいでそんな気がしただけやと思ったけど」
「私は何も聞こえんかったわ」
「俺も。お前らが起こしに来るまで、泥のように眠っとったからな」
キッチンにいた藤堂だけが聞いていた、かも知れないと言うことは……やはりあれは、凶器が床に落ちた音だったのだろう。もしかしたら、犯人はクレアの抵抗に遭い、凶器を取り零したのではないか?
あるいは──
何かを閃きかけた気がしたのだか、掴み取ろうとしたところで、手の中をすり抜けて行ってしまう。
仕方がないので今は措いておくことにして、僕はもう一つ、凶器に関して、気になっていたことを尋ねた。
「対馬に訊きたいんだけど、あの般若のお面って、昔からこの別荘に飾ってあった物なのか?」
「えっ?──ううん。昨日、パパがここの掃除をしてくれた時に、ついでに飾ったんやって。さっき、電話で言うてたわ。なんでも、骨董市だかで気に入って買って来たんやけど、ママに『気味悪いから家には飾らないで』って言われたらしくて。だから、代わりにうちやなくて、別荘に飾ることにしたみたい」
今回僕たちが滞在するに当たり、必要な準備は対馬のご両親──彼女の地元はここ福井県にある──が、行ってくれたそうだ。
しかし、まさか対馬のお父さんも、せっかく飾った般若の面が、翌日には凶器として扱われるなど、思いもしなかっただろう。クレアが気の毒なのは言うまでもないとして、対馬家も、なかなかに不憫だ。
そんなことを思いつつ、僕はさらに質問を続ける。
「じゃあ、事件の前に、あのお面を触ったって人はいる?」
対馬も含め、名乗り出る者は一人もいない。無論、僕にしてみても同じであり、珍しい物が飾ってあるなと興味を惹かれた程度で、わざわざ手に取りはしなかった。
※
地元の警察が別荘に到着したのは、それからさらに三十分ほどが経過したあとだった。
彼らを現場へ案内した際、さりげなく室内を覗いてみたが、先ほど来た時と変化はなく、また、大した発見もできなかった。
その後、すぐにまたリビングへと戻り、そこで事情聴取が開始される。
刑事からの問いに答えながらも、僕はどこか上の空で、考え続けていた。
クレアを殺害した犯人は、いったい誰なのか。
そして、あのダイイング・メッセージには、どのような意味が込められているのか、と。
ここまでが「問題編」となります。




