序文
今から語るのは、緋村奈生と言う男の推理力──あるいは、驚異的な想像力と言うべきか──の片鱗を、僕が初めて垣間見たエピソードだ。
二〇一八年二月某日。すでに長い長い春休みを迎えていたその日、僕──若庭葉は、ある人と会ったあとで、《喫茶&バー えんとつそうじ》を訪れていた。
今となっては《えんとつそうじ》に足を運ぶことはさして珍しくはないが、その当時は、まだ一度しか入店したことがなかった。まださほど緋村とは打ち解けておらず、積極的に利用する理由が、特になかったからだ。
緋村はこの店の二階の一室に間借りしており、同時に貴重な常連客の一人でもあった。彼が暇さえあれば《えんとつそうじ》の奥の四人がけを陣取り、無為に時間を消費していることは、当時からすでに知り及んでいたので、その日もてっきり指定席に腰下ろし、読書でもしているもの思っていたのだが……僕の予想は、大きく裏切られることとなる。
「いらっしゃいませ」
言葉は丁寧だが、その実酷く味気ない声音で、緋村はそんな挨拶を寄越した。確か、上はラクダ色のニットセーターに、下は黒いスラックスと言った出で立ちだったように記憶している。
それはいいとして、僕にとって意外だったのは、緋村がレジカウンターの横に突っ立っていた──のみならず、服の上から濃紺色のエプロンをかけていたことだ。
僕は面食らいつつも、ひとまず彼の言葉に応える。
「どうも。──もしかして、ここでバイトを始めたのか?」
存外エプロン姿がサマになっていたので、そう考えたのだが、この想像は外れる。
「いや。少しの間、店番を頼まれただけさ。マスターが急用で店を開けることになってな。と言っても、すぐに戻って来るだろうから、適当な席にかけて待っていてくれ」
正直に言えば、僕はこの時、店を出ようかとも考えた。わずかな時間とは言え、緋村と二人で過ごすのは、少々気まずいものがある。
先述したとおり、この時はまだ緋村と打ち解けてはおらず、彼がどのような人間なのかさえ把握できていなかった。もっと言えば、緋村のことを掛け値なしに「友人」と呼べるようになるのは、次の年の夏のことであり、それまでは、心のどこかで警戒さえしていたほどだ。
とにかく、当時の僕は緋村のことをよく知らなかった為、「全体的にルックスはいいが、やけに目付きの悪い奴」程度にしか思っていなかった──要するに、彼が他人に与えるであろう第一印象を、脱しきっていなかったのである。
そう言うわけで、大いに迷いはしたものの、結局は緋村の言葉に従い、通り沿いの席に腰を落ち着かせた。気まずさよりも、当初の目的を果たすことを優先したのだ。
僕はショルダーバッグの中から、クリアファイルに挟まれた原稿用紙の束を取り出し、テーブルの上で開いた。表紙には、『MとCに関するいくつかの推察』と言うタイトルと、筆者の名前、そして学籍番号と所属するゼミ名が、記載されていた。
「君が書いた物──ってわけじゃなさそうだな」
お冷やを持って来てくれた緋村が、表紙を覗き込みながら、呟く。勝手に見るなよ、と思わなくもなかったが、口にはしなかった。
「ああ。学科の先輩の作品だよ。なんでも、春休みのゼミの課題で、太宰治の『斜陽』をテーマに、短編を一作書くことになったらしい」
僕は阪南芸術大学の、文芸学科に籍を置いている。ちなみに、緋村の方は芸術企画学科で、具体的にどのような勉強をしているのかは、彼との親交を深めた現在に至っても、不明瞭なままだ。
「借りて来たのか?」
「まあね。──実は、さっきこれを書いた先輩と、偶然K駅の近くで会ってね。一緒に駅前のマックに寄って、そこで読ませてもらったんだ。内容は割とオーソドックスな短編ミステリで、一応僕でも犯人を当てることができたんだけど……実は一つだけ、どうしてもわからない部分があって。もう一度挑戦する為に、貸してもらうことにしたんだよ」
僕が《えんとつそうじ》を訪れたのも、腰を据えてその謎に挑む為だった。作者の先輩とは、明日また駅前で会う約束を取り付けており、それまでの宿題として、作品を貸してもらったわけだ。
「全ての謎が解けたからこそ、犯人がわかったんじゃねえのか?」
「いや、それが、犯人を特定するロジックとは別に、ダイイング・メッセージが登場するんだけど、そっちが難問で……」
「ふうん、面白そうだな」
とても心からの言葉とは思えないトーンで言う。しかし、豈図らんや、興味を抱いたのは事実だったらしく、ジッと表紙を見下ろしているではないか。
僕は、半ば社交辞令のつもりで、
「……読んでみる?」
「いいのか?」
構わないだろう。これを書いた先輩も、むしろ歓迎するはずだ。
そう告げてから、僕は一つだけ付け足した。
「ただ、予め言っておくと、この小説、僕が語り部になっているんだ。知らないうちにキャスティングされていて、最初に読んだ時は驚いたよ」
僕自身は何も聞かされていなかったので、本当にサプライズだった。読んでいて、なんだか酷くむず痒い心地がしたものだ。
「ピッタリじゃねえか。なんとなくでしかねえが、君に合ってる気がするよ」
このコメントに、僕はお追従笑いで返したように記憶している。その程度の距離感だったのだ。この頃の僕たちは。
「とにかく、俺も挑戦してみてもいいんだな?」
僕は「ああ」と頷き、原稿を彼の見やすい向きに回転させた。緋村は僕の向かいの席に座り、それを取り上げる。店番は──まあ、午後三時近いと言うのに、これだけ閑散としているのだ。多少サボっても問題はあるまい。
長い脚を悠然と組み、緋村は表紙を捲った。
以降、緋村が『MとCに関するいくつかの推察』を読み終えるまでの間、僕は店内の至るところに飾られたウィリアム・ブレイクの絵のレプリカ──この店のマスターは、詩人であり画家であり、幻視者とも呼ばれるブレイクのファンで、《えんとつそうじ》と言う店名も、彼の詩のタイトルから採ったものらしい──を眺めつつ、作品の内容を思い返して過ごした。
どうしても解けなかった、ダイイング・メッセージの謎に、挑むべく。