77 忙しい日々
一月に入り、ニコラスは相変わらず忙しく過ごしている。
温泉を使った皮膚病の治療を計画してロマーン王国の北部の温泉地帯に滞在し、家族が帰ってからも個人湯の設備について領主と話し合っていた。
公爵家とのつながりができることは、この先、なにかと恩恵にあずかる未来が開けるということだ。公爵家の次期当主であるニコラスの提案ゆえに、温泉地の領主であるエグルード伯爵は乗り気だ。
ニコラスの提案で個人湯の建設費は公爵家が七割負担することになった。
最初は公爵家が全額負担すると提案したが、エグルード伯爵が半分負担すると言い、話し合いの末に七対三の比率に落ち着いた。公爵家が全額を負担してしまったら、この先のことはすべて公爵家主導で話が進んでしまう。エグルード伯爵はそれを避けたかった。下世話な表現をすれば「うちも一枚噛みたい」のだ。
家族の帰宅から半月ほど遅れてニコラスが公爵家に到着すると、屋敷の中が慌ただしい。
ニコラスを出迎えたマリアンヌが「今日のうちに帰ってきてくれて助かったわ」と言う。
何事かと尋ねると、ハロルドの結婚式で着る服の試着があった。王族の服を仕立てるのは王城の職人たちで、今日は公爵家に出向いて試着とサイズ直しをしているらしい。
早速ニコラスが婚礼に参加する際の服を試着すると「おや!」と責任者の男性が驚いている。ニコラスのズボンがわずかに丈が足りなくなっていた。
「あれ? ズボンが短いね。また背が伸びたのかな」
「採寸してからわずか三ヶ月ですが、そのようでございますね」
会話をしている間も、男性の手が動いてマチバリを生地に刺している。マリアンヌとアレクサンドル、カタリナ、フローラと、ステラまで新しいドレスやスーツに着替えている。
じっと動かずに立っているニコラスに、何通も手紙が届いた。執事が運んできた手紙を、ニコラスが一通一通目を通している。
大半は国立医療学院関係の書類だ。結婚式を間近に控え、ハロルドが目も回る忙しさなのを知っているニコラスが、許認可関係の手続きをすべて引き受けていた。
他国の医者の滞在の申請、学舎と寮の建設、その設計図の確認、教科書の作成、教育課程の確認、医療機器の準備。やるべきことは果てしない。次々と書類に目を通し、サインをしていく。そんなニコラスの様子を見ていたアレクサンドルは、ひと足先にサイズ直しを終えてマリアンヌとお茶をしている。
「ねえマリー、ニコラスに公爵の座を譲る時期は、予定よりも早くてもいいように思うんだが」
「あの子なら若くても当主の仕事はこなせるでしょうね。でも……」
そう言ってマリアンヌは微笑んだ。
「いずれは巣立つ雛だけど、ステラはまだ一歳にもならないから、私はもう少しここで子供たちを見守りたいわ。子供たちが疲れたときに、『ちょっと息抜きしたい』と思ったら、いつでもこの家でくつろいでほしい。そういう家、そういう親でありたいの」
「それもそうだなあ」
「そうねえ、ニコラスが結婚したら私たちは隠居しましょうか。それとね……」
マリアンヌが合図をすると、侍女たちが二人がかりでゆりかごを運んできた。
「ステラを寝かせるゆりかごを改良してみたの。指一本で前後に弧を描くように赤ちゃんのベッド部分が動くの。いいと思わない?」
「どれどれ」
アレクサンドルが人差し指でゆりかごを押してみた。赤ん坊が眠るカゴの下が、台座のカーブに沿ってゆるい弧を描いて動く。
そのたびにゴロゴロという低く小さい音がする。
「台座とカゴの間に弧を描くように枠を二本作って、その中に鉄球を並べたのよ。同じ大きさの鉄球を作るのが難しくて、職人さんたちがずいぶんやり直してくれたの」
「この音が赤ん坊の眠りを邪魔するのでは?」
「そう思うでしょう? それが逆なのよ。ステラはこの音を聞くとすぐに眠ってしまうの」
「へえ。なんでだろうね」
「もしかしたらだけど……私のおなかにいるとき、ずっと心臓の音を聞いていたからじゃないかしら」
アレクサンドルが鉄球が収められている枠に耳を近づけ、ゆりかごを揺らした。ゴロゴロという低く小さな音をしばらく聞いていたが、立ち上がって「なるほどねえ」と感心した。
「最初からそれを狙っていたのかい?」
「いいえ。偶然よ」
「だとしたら、君は幸運の女神に愛されているとしか思えないな」
「だったら嬉しいわ」
ニコラスがそんな両親の様子をチラリと見て、再び手元の手紙に視線を落とした。手紙はアンダル村の領地管理人からだったが、合鴨の飼育の責任者になっているジェシーと、川魚の養殖に携わっているポーラからの手紙も同封されていた。
養殖場の魚たちが元気なこと、冬になってカモたちが飛来し、合鴨が孵化すると思われる卵がたくさん産まれていることがつづられている。
二人の手紙には「お越しになるのを首を長くしてお待ちしています」「村にいらっしゃるのを楽しみにしております」と書いてある。
「兄さんの結婚式、国立医療学院の設立、養殖事業。大忙しの春になるな。大変だ」
ニコラスは大変と言いながら笑顔だ。やるべきことが多いほど気合が入る性格らしい。
そんな中、フローラも大忙しだ。嫁ぐ前にホランド王国について毎日知識を叩きこまれ、ホランドの貴族の絵姿を見ながら名前を覚え、王太子妃としての政務についてもホランドから指導係がやってきている。その上ダンスの練習にも追われている。今日もドレスの試着をしながら、ホランド語の練習に余念がない。
「ニコ兄さま、ホランド語って巻き舌で勢いをつけて発音する言葉が多いわよね?」
「ああ、多いな。ツバを飛ばさないよう、気をつけろよ」
「うわ、飛ばしてしまいそう」
「王太子妃がしゃべるたびにツバを飛ばしていたら、ロマーン王国が笑われる。頑張れ」
今までフローラとエドワードが会話する際、いつもエドワード王子がロマーン語を話してくれていた。フローラはまだホランド語の会話がたどたどしい。日常会話には苦労しないが、王太子妃になったらこれでは許されない。グリード国王からも「嫁ぐまでに完璧に話せるようにしなさい」と尻を叩かれていて、毎日必死だ。
「エドワード様に恥をかかせるわけにはいかないもの、練習あるのみよ」
「お前にそんな根性があるなんて知らなかったよ。愛の力は偉大だな」
「もう、ニコにいさまったら。私は必死なんだからからかわないでよ」
アレクサンドルとマリアンヌは、ニコラスとフローラのやり取りを微笑ましく眺めていたが、マリアンヌはうっすらと涙を浮かべた。
「アレックス、子供たちが巣立ったら旅行をしましょう」
「そうだな。ステラも連れて旅行しよう。まだまだステラは手がかかる」
「もちろんよ。私の最後の赤ちゃんだもの、思う存分ステラの赤ちゃん時代を楽しまなきゃ」
アレクサンドルが、そっとマリアンヌの手を握った。
「そうだな。いずれは俺とマリーだけになるだろうが、そうなっても俺に優しくしておくれ」
「当然です。あなたは私の王子様だもの。でも、ステラはまだ一歳にもなっていないから、二人きりになるのはまだまだだいぶ先ね」
ステラの養育係のレイアは、(私もステラ様が成人なさるまで、なにがなんでも健康でお仕えしなくては)と心で誓っている。





