75 親の気持ち
アンネガルドは「父に報告します」と言ってひと足先に帰った。
この温泉旅行が終わったら、アレクサンドルもグリード国王に今回のことを報告しなければならない。
「うちの子供たちの結婚に関しては、形だけでも兄上の同意が必要だからね」
「形だけでもっていう言い方はどうなのかしら。ふふ」
「ま、国は大喜びさ。次期公爵家当主がホランド王国の侯爵令嬢と婚約するんだ。ホランド王国とのつながりを強くしたいと思っている重鎮たちは大喜びだろう。兄上だって喜ぶはずだよ」
マリアンヌはアンネガルド嬢の母親の心情を思いやった。
(我が子の縁談に国の思惑が覆いかぶさってくる。何か事件が起きて、国同士の関係が悪くならないとも限らない。そうなっても我が子は帰国することを許されないはず……)
「カタリナお姉さま、アンネガルド嬢のお母さまは、さぞかし心配でしょうね」
「そう?」
「心配していると思います。私も心配しています。フローラが嫁いでしまったら、もう私には何もしてあげられない。せめてアンネガルド嬢を大切にしてあげたいわ」
会話を聞いていたアレクサンドルがマリアンヌのところに来て、後ろから肩を抱いた。
「マリー、まだ起きていな不幸を自分で作り上げて、苦しんではいけないよ?」
アレクサンドルの顔には憂いが滲んでいる。以前のようにマリアンヌの心が疲弊しないか心配しているのだ。
「そうね。気に病むのはやめるわ」
「そうよ、マリー。王弟の子供が好きな人と結婚する。たまたま相手が王太子だった。それだけ。そう考えれば気が楽になるわ」
「そのとおりね。そうします、カタリナお姉さま]
少し離れたソファに座っているエミリアがほんのりと悲しそうな顔でマリアンヌたちの会話を聞いている。隣に座っているハロルドがエミリアの表情に気づいて、そっと白い手を握って小さな声で話しかけた。
「エミリア、どうかしたの?」
「私とハロルド様の婚約を、家族はとても喜んでくれました。でも、フローラさんの場合は少し違うんですね……。ハロルド様もお寂しいでしょうね」
「寂しいよ。でも他国に王の姪が嫁ぐのは、大切な役目でもあるから。とはいえ、今回は政略だけの婚約じゃない。フローラは幼いころから大好きだったエドワードと婚約できるんだ。さぞかし毎日が幸せいっぱいだと思う。フローラが母親の寂しさを理解するのは、あの子が母親になってからだろうね」
そう言われたエミリアは、微笑んでいるマリアンヌの気持ちを思いやった。
しんみりしたエミリアの様子に気づいたカタリナが、「さあ、みんなで温泉に入りましょう」と明るく呼びかけた。フローラが嬉しそうに立ち上がった。
「入りましょう! ねえ伯母さま、私、温泉に入るの、とっても楽しみにしていたんです!」
「私もよ。さ、マリーも行くわよ。エミリアさんも一緒に行きましょう」
「はい、カタリナ様」
ここの露天風呂は、岩を積んで作ってある。詰めれば百人くらいは入れそうな大きな浴槽が二つ並んでいる。一応男女別だが垣根はない。完全に青空の下で入る形である。施設が貸し出している湯着は頭から被る形の、ストンとしたワンピースのような寝間着のようなものだ。
マリアンヌ、フローラ、カタリナ、エミリア、ステラを抱いたレイアが「はあああ」と満足の吐息を吐きながら湯に漬かった。
「こんなに大量のお湯、青空の下。マリアンヌ、温泉てすっごい贅沢ね」
「贅沢ですね、お姉さま」
「姉妹で一緒に入浴するのは初めてね」
「初めてですねえ。このお湯、なんだかツルツルヌルヌルしてませんか?」
「だから美肌効果があるんじゃないの?」
母と伯母の会話を聞きながら、フローラが腕をこすっている。
「ほんと、ヌルヌルしてますね、エミリアさん」
「私、温泉に入るのは初めてなんです。最初はちょっとぬるいかなと思ったのに、ジワジワと温まってきますね」
「ここの温泉は美肌効果があるんですって」
そう言うなり、フローラがザバザバとお湯で顔を洗う。驚いた顔で見ていたエミリアが静かにお湯をすくって頬や額を濡らした。それを見たカタリナが笑う。
「マリー、フローラは間違いなくあなたの娘だわ。なんでもためらいなく突進するところがそっくりだわ」
「え。私ってあんな感じだった? もうちょっと落ち着いた子供だったような気がするけど」
「全然落ち着いてなかったわよ。王家のお茶会にアップルパイを持って行くとき、グリード様のお茶会から逃げ出した時、領地の干ばつを救うんだと家を出たとき。いつもあんな感じだったわ。もう誰にも止められないって雰囲気だったわよ」
マリアンヌの頬が、のぼせとは違う意味で赤くなった。
「そ、そうだったかしら? あの頃は『これが正解!』って気持ちで動いていたけど」
「今だってそうよ。あなたは明るく前を向いて進み続けている。そして多くの人を幸せに導いている。私もその中の一人だわ。私はそんなあなたが誇らしい。だから……」
カタリナが隣で湯に漬かっているマリアンヌの手を取った。
「どうしても悲しいとき寂しいときは、少しは私に甘えなさい」
「ありがとうございます、お姉さま。甘えさせてもらいます」
男湯と女湯の間には、人が歩けるほどの区切りがあり、表面は石畳のようになっている。その区切りの向こう側で、アレクサンドル、ハロルド、ニコラスが肩までお湯に漬かっている。ハロルドが気持ちよさそうにお湯で顔を洗いながらアレクサンドルに声をかけた。
「気持ちいいですね、お父さま」
「気持ちいいな。ニコラスはどうだ?」
「このお湯はなぜヌルヌルするんですかね。案内してくれた人の話では、古い皮膚がわずかに溶けるそうですが」
「そう言っていたな。それがどうかしたか?」
「皮膚の病に苦しんでいる人に、このお湯に漬かってもらって効果を検証したいです」
一瞬アレクサンドルが驚いた。
「それだと、病の人は気を遣うんじゃないか?」
「気を遣わなくてもいいように、個人風呂を作ればいいのではありませんか?」
「作りたいのかい?」
「はい。春になったらアンダル村に行きますし、僕はここに残って話を進めたいです」
ハロルドが「ふふふ」と笑い出した。
「いいね。こういう時のニコラスは、発明を思いついた時のお母さまにそっくりだ」
「ああ、確かにマリーに似ているな」
ハロルドとアレクサンドルの二人に笑われて、ニコラスは「僕は真剣なんですから、笑わないでくださいよ」と口を尖らせた。それからすっくと立ちあがり、凛々しい表情で「僕、ここの所有者と話をしてきます」と宣言して風呂を出た。
「ニコラスのああいうところ、僕はちょっと羨ましいです。猛烈に頭の回転が速くて行動力がある」
ハロルドの言葉を聞いて、アレクサンドルがその頭をわしゃわしゃと撫でた。
「羨むことはないさ。お前の聡明さ、思慮深さ、優しさは、自慢していいところだぞ?」
「お父さま、頭を乱暴に撫でるのはやめてください。僕はもう子供じゃないんですから。髪がぐしゃぐしゃになります」
「ごめんごめん。フローラが嫁ぐのも寂しいが、春になったらハロルドが結婚して我が家から独立するのも寂しいんだ。少しは子ども扱いさせてくれ」
ハロルドとエミリアの結婚式は三月に執り行われる。たっぷり婚約期間を置いたのは、周辺各国から訪れる王族や使者のためだ。ハロルドへのお祝いの品を用意するのに時間がかかることを見越している。
「お前が正式に離宮で暮らすようになるまで、あと三ヶ月か。あっという間なんだろうな。寂しくなるよ」
そう言ってアレクサンドルがザバザバとお湯で顔を洗う。父親の目と鼻の頭が赤いのを見て、ハロルドはアレクサンドルの気持ちを察した。
「離宮なんてすぐ近くなんですから、会いたいときはいつでも会えます。気が向いたら毎日でも遊びに来てください」
「そうだな。そうさせてもらうよ」
アレクサンドルは少しだけ寂しさを滲ませた顔で笑った。





