70 雛の時期はもう終わり
ロマーン王国へ帰る馬車の中、フローラは表情が緩まないように気を付けている。だがその努力はあまり成功しておらず、外の景色を眺めていると唇の両端が上がってしまう。そんなフローラを見ているニコラスは複雑だ。
(僕がついていながら……。いや、誰がついていてもこうなったのか? エドワードはフローラが十五歳になるまで、なんの約束もなしには待てない状況だったんだろうな。周囲を待たせられない状況と言うべきか。次の国王だもの、さっさと結婚して跡継ぎをって言われるのはわかる)
あと数年したら、この幸せそうな顔も見られなくなるんだなと思うと、ニコラスは寂しい。そして寂しいと同時に、可愛いフローラを遠くへ連れ去るエドワードにモヤモヤする。
(ああそうか、娘を嫁がせる父親って、こんな気持ちなんだな)
幸せの余韻に浸るフローラと父親のような気持ちのニコラスを乗せて、馬車はロマーン王国へ入った。
屋敷に到着して、両親への挨拶もそこそこに、フローラは「ごめんなさい! 私、約束を破りました」と頭を下げた。
すぐに事情を察したアレクサンドルが「さあ、中でゆっくり話をしよう」とフローラの言葉を遮った。マリアンヌがアレクサンドルに目をやると、アレクサンドルが苦笑している。
お茶の用意が並べられ、使用人はステラを抱いたレイアも含めて部屋から出された。
「陛下にご報告する前に、使用人から話が漏れるとまずいからね、フローラ」
「ごめんなさい」
「それで、どこまで約束したのかな。まずはフローラから説明を聞くよ。ニコラスはフローラの後で補足してくれるかい?」
「はい、お父様」
緊張した顔のフローラが事情を説明して、ニコラスが「今は特に補足することはありません」と答えた。アレクサンドルは「エドワード王子はずいぶん必死だったようだね」と言ってしばらく無言になった。
マリアンヌは「フローラ、疲れているでしょう? お部屋で着替えていらっしゃい」と笑顔を向けた。フローラは「はい」と答えて立ち上がった。そのフローラにマリアンヌが近づき、強く抱きしめた。
「フローラは憧れていたエドワード王子に婚約を求められて、幸せだったわね?」
「はい……」
突然フローラの目に涙が滲む。マリアンヌがフローラの頬を撫でた。
「最初におめでとうと言ってあげられなくて、ごめんなさい。フローラ、おめでとう」
「お母さま……。ありがとうございます」
フローラはマリアンヌに抱きつき母の胸に顔をくっつけて肩を震わせている。
「ニコ兄さまに、私がどれほど恵まれているか自覚しなさいって言われました。守られていることを当然と思うなって。お父様とお母さまが、私を守るために……国の道具にされないよう、時間を稼いでいたって。そのためにお父様は下げたくない頭を下げているはずだって。そしてそれを私の前で言わないだけだって」
「フローラ……」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
マリアンヌがフローラと手をつなぎ「泣かなくていいのよ。さ、部屋まで一緒に行くわね」と慰めた。廊下で控えていた侍女に「お湯を入れた洗面器をお願い」と声をかけた。
フローラの部屋に入り、侍女がフローラの手足を拭き清めようとするのをマリアンヌが止めた。部屋着に着替えたフローラを椅子に座らせて、マリアンヌがフローラの腕を拭く。
「私の母は、子育てや家事に参加していたわ。伯爵夫人がそんなことをするのは、歓迎されなかったはずよ。まして母は後妻だったから、亡くなった前の夫人と比較されたと思うの。それでも母は自分の意見を通したわ。だから私はこんなふうに、母に手足を拭いてもらって育ったの」
「そう、なんですか?」
「ええ。それは私のおじいさまの影響だと思う。馬男爵と呼ばれた私のおじいさまは、馬も人間も同じだというお考えでね。『子馬が独り立ちできるようになるまで、母馬は子馬に寄り添う。人間もそうした方が、子供が健康に育つ』とよくおっしゃったらしいわ」
フローラは(馬と人間を同じと言い切るなんて。ひいおじいさまは変わってる)と驚きながら聞いている。
「おそらく使用人は陰でいろいろ言っていたと思うけれど、お母さまにお世話をされるのはとても幸せだった。その間におしゃべりするのも楽しかったわね。おじいさまがおっしゃっていたのは、そういうことだと思う」
「お母さまもたくさんお話をしてくれますよね。今もそう」
「由緒正しい貴族の家では、十歳になるまでは親子で顔を合わせても会話もなく、触れ合いがないのは普通らしいわ」
「貴族の子女の集まりで、聞いたことがあります。私、とても驚きました」
それはマリアンヌも経験した。世間の貴族は、子育てを養育係にすべて任せてしまうことが常識だった。
「どんな子育て方法が正しいかを言い争うのは、あまり意味がないと思った。子供と親の性格もあるし、養育係の個性も影響するもの。だから私は親が子育てに関わらないっていうご令嬢たちの会話を、黙って聞いていたわ。結果は私を見てもらえばいいと思ったの。だからフローラ」
そう言ってマリアンヌが別のタオルでフローラの顔をそっと拭う。
「フローラには幸せな人生を歩んでほしい。私とアレックスの子育てが間違いではなかったことを、あなたの人生で証明してくれたら嬉しいわ。私とアレックスは、あなたが自分の手で幸せをつかみ取ることを願ってる。エドワード様に幸せにしてもらおうなんて思わないで。口を開けて餌を入れてもらう雛の時期は、もう卒業なの。あなたが自分で幸せになるのよ」
「はい」
そう返事をしてフローラがマリアンヌに抱きついた。
マリアンヌはしばらくフローラが抱き着くのに任せていたが、「さあ、少し横になりなさい。長旅の疲れを取らないと。食事の時間になったら知らせるわ」と言って部屋を出た。そして廊下で少し考え込み、クッと頭を上げて、アレクサンドルとニコラスが待つ部屋へ向かった。
「フローラには眠るように言ってきたわ」
「俺は今から、兄上のところへ行ってくるよ。今までさんざん『十五歳まで待ってくれ』と言ってきた以上、一刻も早く伝えないと」
「そうね。陛下も重鎮の皆さんも、きっとお喜びになるわね」
「ま、そうだろうな。では行ってくる」
アレクサンドルが部屋を出ていった。
残されたのは疲れた顔のニコラスとマリアンヌだ。
「お疲れ様、ニコラス」
「疲れました。僕が付き添っていたのに、こんなことになって申し訳ありませんでした」
「気にしなくていいわ。好き合っている若い二人が顔を合わせるんですもの、こうなることは十分想像できていたのよ。力をつけて裕福になったホランド王国に王族の一人が嫁ぐ。国はきっと大喜びだわ」
そう言いつつ、マリアンヌの顔はほんのり寂しげだ。
「お母さまは寂しいんですね?」
「王弟が四人の子に恵まれれば、一人くらい他国に嫁ぐのは当然と言えば当然だもの、仕方ないわ」
ニコラスは三番目に生まれた女児のフローラをマリアンヌがどれほど可愛がっているか、知っていた。そしてフローラが幼い時にマリアンヌが心を疲弊させて、あまりかまってやれなかったことを気にしていることも知っていた。
「いつの日か僕が家庭を持って子供を授かったら、お母さま、たくさん可愛がってくださいね」
「ええ。そうさせてね」
「僕はこの家の当主として、ずっとお母さまのそばにいますので」
「ありがとう、ニコラス」
マリアンヌが一瞬泣き笑いの顔になった。だがスッと立ち上がって、「ステラの様子を見てくるわ」と言って部屋を出た。残されたニコラスは「そろそろ僕も婚約者を見つけないとねえ」とつぶやいた。





