61 ニコラスの謝罪
ニコラスが楽しそうに話をしている。アンネガルドは興味深く聞いているが、(これ、どんな目的で私に話をなさっているのかしら)という不安が消えない。
以前にグイグイと自分を公爵家に売り込んだことは、今でも恥ずかしい思い出として記憶に残っている。たまにフイッとその記憶を思い出すことがあり、そんなときアンネガルドは両手で頭を抱えて「ああああああ」と呻きながら転がってしまう。
一度などは絨毯の上で転がっているところに侍女が入ってきて「お嬢様っ! どうなさいましたかっ!」と大騒ぎになったことがあった。
「植物の品種改良は、人間が狙って進められることもある。一方で植物たちが自然に新しい性質を獲得することもあるんだ。大きな粒を実らせる小麦。長雨に強い小麦。人間に都合のいい性質を持った種は、大切に保存され、育てられ、子孫を増やしてもらえる。人間は突然現れた性質を利用していると思っているけれど、植物の側は『しめしめ、大切に守ってもらって、子孫を増やせる』と思っているわけだ。植物の領地拡大戦略さ。面白いと思わないかい?」
ニコラスの翡翠色の目が輝いている。
面白いと思えば面白いのだが、(それで私はなんでここに呼ばれたんですか?)と、全く落ち着かない。
以前のアンネガルドならどんな話も面白そうに聞くべきだと思って黙って聞いていたが、今は違う。
今は、疑問に思ったら失礼にならないように、でも正直に言葉に出すようにしている。
「ニコラス様? お話というのは植物の戦略のことでしたか?」
夢から覚めたようにニコラスの顔が一瞬ぼんやりした。
「ああ、そうだった。ごめんね、僕が一方的に話をしてしまって。フローラに『悪い癖よ』って、よく怒られる。君に伝えたいことがあってね。以前、君が我が家に遊びに来た時のことなんだけど。んん? どうしたの? 頭が痛いの?」
「あっ! いえっ! なんでもありません。つい癖で。お話の続きをどうぞ!」
憧れの君に黒歴史を持ち出され、アンネガルドは無意識に背中を丸めて両手で頭を押さえていた。
丸めていた背中をピシリと伸ばし、両手を重ねて膝の上に置いた。
「僕はその、君に失礼だったよね。子供だったとはいえ、配慮に欠けることを言ってしまった。それを謝りたくて。あのときは君に嫌な思いをさせました。ごめんなさい」
ニコラスは並んで座っているアンネガルドに向かって、深く頭を下げた。
そう言われてもアンネガルドはピンとこない。
(待って待って。配慮に欠けたことって、何かしら。あのときニコラス様は真っ当なことしか言ってない。同じ価値観の人がいいっておっしゃったことしか覚えていないんですけど。恥ずかしかったし悲しかったけど、ごもっともと思っただけなのに)
「どのことをおっしゃっているのか私にはよくわかりませんが、ニコラス様は配慮に欠けていませんでした。私も嫌な思いはしていません。むしろ私が……私が非常識でしたっ! 申し訳ございませんっ! 厚かましくて無神経で愚かでした。愚かな子供がいたな、と笑ってお忘れください!」
一気にそこまで言った。アンネガルドの顔も耳も首も真っ赤だ。
「あのときのことは、私の中で恥ずかしくてたまらない思い出です。侯爵令嬢だからと厚かましく押しかけて、皆さんのお気持ちも考えず、自分のことばかり。忘れてくださいっ! お願いしますっ!」
もう一度深々と頭を下げ、ニコラスの許しの言葉を待った。
「頭を上げてよ。じゃあ、お互いにあのときのことは忘れるってことでいいかな」
「そうしてくださいませっ!」
「ふふふっ。君、変わったね。今の君は砂糖の衣が剥がれたお菓子みたいだ」
(えっと、それは悪口に聞こえるけど、ニコラス様の場合、別の意味があるのかしら? ええい、この際よ。わからないことはわからないって、正直に聞いちゃえ!)
「砂糖の衣が剥がれたお菓子って、悪口ではありませんよね?」
「違うさ! 焼き菓子がカビないように分厚く砂糖の衣をかけてあるお菓子があるでしょう? 僕、あの衣が苦手なんだ。甘すぎて頭が痛くなるし、喉が渇くし、そのお菓子の本当の味がわからなくなる」
「はあ、そうですか」
「今の君は砂糖の衣が剥がれて、前よりずっといいよ。あ、これも悪口じゃないからね? ここにフローラがいなくてよかったよ。いたら『ニコ兄さまって女の子の気持ちがわからない人だから』とバッサリ斬り伏せられているところだ」
(褒められてるのよね? 甘すぎないし、頭が痛くならないし、喉も乾かないお菓子になったって言いたいのよね?)
「説明が下手でごめんね。とにかくあの時は悪かった。そしてお互いあの日のことは忘れる。これでいいかな」
「はい。わざわざありがとうございます。お話しできて、嬉しゅうございました。では失礼いたします」
アンネガルドは立ち上がり、優雅なお辞儀をした。
「もう時間がないの?」
「いえ。ありますけど」
「じゃあさ、もう少し話をしてもいいかな」
「はい。では、生き物の戦略のお話を私にもわかるようにお話しいただけますか? 私、領地の子供たちに言葉や文字を教えているところなので、そこで私が話してあげたいのです」
「いいよ。じゃあ、植物と昆虫の戦略の話をしてもいいかな」
「もちろんです。お願いします」
そこからニコラスは植物たちが受粉のために花の形を工夫して、昆虫を上手に利用している話を始めた。それは他国の学者が発見したことで、ニコラスは学会に提出された論文を読んで強い興味を持っていた。
その他にも、人間が畑を耕すのを待って、ほぐされた土の中から虫を見つけて食べるサギの話、朝霧に濡れた蜘蛛の巣を蜘蛛が丁寧に弾いて水滴を落とす話、アリの群れが別の種類のアリの巣を襲って、卵を咥えて持ち帰る話をした。
その話がどれも面白くて、この話を最近まで本を読めなかったあの子たちにしてあげたいと思いながら真剣に聞き入った。
気がつけば二時間ほども聞いていた。「ニコラス様! どちらにいらっしゃいますか!」と公爵家の使用人が来たところで終わりになった。
「家族が揃う時間らしい。話を聞いてくれてありがとう。楽しかった。またね」
ニコラスはキラキラした笑顔でそう言うと、アンネガルドの「私こそ楽しかったです」というお礼を聞かずに大股で去った。
アンネガルドはしばらく放心していたが、じわじわと笑顔になった。
(よかった。嫌われてなかった。ニコラス様は楽しそうだった。よかった。よかった!)
アンネガルドは足取り軽く自分に割り当てられた客間に戻った。
「よかったああああ!」
そう言って絨毯の上で左右にゴロリゴロリと転がり、また運悪く国から連れて来た侍女に見つかった。侍女は不安半分、怪しむ気持ち半分みたいな顔でアンネガルドを見ている。
「お嬢様?」
「なんでもないの。ずっと憂鬱だったことがほとんど溶けて消えたっていうか、気楽になったのよ。おなか空いちゃった。何か甘いもの、あるかしら」
「ございますよ。王宮の方に頂いた焼き菓子がございます」
侍女が持ってきたのはニコラスが言っていた硬い砂糖衣で包まれた焼き菓子だった。
アンネガルドは指先でそっと白い砂糖の衣を剥がして、中の焼き菓子だけを食べた。
「お嬢様、お行儀が悪いですわ。それにお砂糖がもったいないです」
「わかってる。今だけ。お砂糖の衣を剥がしたらどんな味かなって確かめたかったの」
「どんなお味でした?」
「素朴で優しい味」
アンネガルドは口の中に広がる小麦粉と卵とバターの風味を、笑顔でゆっくり味わった。





