6 そんな時のトムおじさん
今日は屋台で食べ物を作って売る予行練習とランタン飛ばしの練習だ。
あちこちの屋台から揚げ物や焼き肉のいい匂いが漂ってくる。予行練習ではあるが結構な人出もあり、酒こそ供されないがかなりの賑やかさだ。
アレクサンドルとマリアンヌは領民に慕われているのであちこちから声がかかる。
「領主様、奥様、ニコラス様、串焼きのお肉ですよ」
「お肉の後は甘いデザートも召し上がって下さいね」
三人は色んな種類の食べ物を差し出され、ベンチに座って食べることにした。
「お父様、僕、楽しい!」
ニコラスが笑顔で父のアレクサンドルに言う。アレクサンドルはニコラスを抱き上げて膝に乗せるとカップを持つ小さな手を支えて落とさないように気を配る。
「王室は子育てをしないでしょう?アレックスはよく子供のことに気がつくわね」
マリアンヌが尋ねるとアレクサンドルは笑った。
「そうだね。王家の子育ては使用人の仕事だね。僕はそれが普通だと思っていたから子爵の友人の家に遊びに行った時、親子の仲がいいのを見て驚いたし羨ましかったな」
「うちはお母様がお気楽な育ち方をしていたから私は父と母にたっぷり可愛がられたわ」
「いずれ王室も変わるさ。何しろ次の国王はハロルドだからな」
こういう時、ニコラスは口を挟まない。黙って話を聞いてどんどん記憶に取り込んでいるのだ。
「ニコラス、王宮の秘密のトンネルは六歳まで待ってくれたらお父様が必ず連れて行ってくれるわよ。我慢できるかしら?」
「できます。お兄様が連れて行く約束を守れなかったお詫びだよって、僕に青い宝石のついた短剣を貸してくれたの」
青い宝石がグリップの端に埋め込まれた短剣は、マリアンヌの祖父のセブラル・ヴィンス男爵がハロルドの六歳の誕生日にプレゼントしたおもちゃの短剣だ。刃を潰してある安全なもので、もちろん宝石は青いガラスだ。
それはハロルドのお気に入りで、『ニコラスが秘密の通路に行けたら返してね』と言ったらしい。
「そう、あの短剣を借りたのね。ニコも勇者の仲間入りね」
マリアンヌが微笑んだ。
勇者。それは猛烈に頭はいいが心の一部分はまだ三歳の男の子にとって、とても魅力的な言葉だった。
屋台の予行練習は無事に終わり、満腹したニコラスは楽しみにしていたランタン飛ばしの練習を見ることなくアレクサンドルの腕の中で眠ってしまった。
目が覚めたら屋敷に戻っていて、一番の楽しみを見逃したと知ったニコラスは「そんな時のトムおじさん」の所へと走った。
「おやニコラス様。どうしましたか?」
「僕、ランタンを見ないで寝ちゃったの」
「楽しみにしてたのにそりゃ残念でしたね。でも本番で何百と言うランタンを見られるから大丈夫ですよ」
庭師のトムはマリアンヌにそっくりなニコラスをとても可愛がっていた。ニコラスの方もそれがわかるから、悲しい時つらい時はトムの所へ行って長い時間トムの作業を眺めたりおしゃべりしたりするのだ。
今日のトムは草刈り鎌で芝生の縁を手刈りしていた。草刈り機が刈れない場所は手間でも手刈りをする。
広い芝生の縁は長く、全部刈り終わるとトムは腰をトントンと叩いて伸ばし、
「さあ、鎌を研いだら終わりです」
とニコラスと一緒に庭師小屋に向かった。
トムと一緒の時はメイドが付かないことが多く、ニコラスが無茶をする子ではないのでトムも安心して相手をしている。
ニコラスは椅子に腰掛け、脚をブラブラさせながらじっとトムの刃物研ぎを見ていた。
最初に研ぎ石を水に漬けること、往復して研ぐこと、時々水を少し垂らすけれど、灰色の研ぎ途中の液は流さないこと、浅い角度を保って同じ力加減で研ぐこと。
トムの手元を凝視して、ニコラスは頭の中の引き出しのひとつにそれらの知識を収めていた。
トムはニコラスを手のかからない賢い坊ちゃんとは思っていたが、同時に「子供は思いがけないことをやらかす」ことも知っている。
だからニコラスに「古くなった砥石をくれる?」と聞かれた時に、短剣のことは知らなかったが「旦那様から刃物を使うお許しが出たら、私が一番に砥石をプレゼントいたしますよ」と笑顔で答えるのみに留めた。
「わかった」と返事をしたニコラスだったが、(短剣を研いで本物の勇者の短剣にしたい)という気持ちを抑えることが出来なかった。
翌朝、レイアが忙しい時にニコラスは厨房に走った。
「もう捨てるような砥石、ありましゅか?」
緊張のあまりに赤ちゃん喋りになってしまった。すると同じ年頃の子を持つ料理人が「ありますよ。もうほんとに天使みたいに可愛いですなぁ」と言いながらすり減って処分する予定の砥石をニコラスに手渡した。
その料理人はニコラスが刃を潰した短剣を持っていることも、刃物の研ぎ方を学習済みなことも知らなかった。
我が子と同じ年頃の幼児に、捨てる予定の砥石を渡しただけなのだ。