54 帰宅
マリアンヌの相談係をしている川漁師のサミーが、今後の見通しを説明している。
「この先はアイガモの飼育小屋を建てることと、鴨の父親とアヒルの母親を持つ卵を増やして鶏に卵を孵させるだけですのでご安心ください。費用の心配もありません。先に頂いた資金で十分すぎるほどです」
「鶏に卵を孵させるのはなぜ?」
「アヒルより鶏のほうが失敗が少ないのです」
「そうなのね。私たちは一度帰るけれど、なにか困ったことがあったら必ず相談してね? とは言っても、私よりサミーのほうが実務に詳しいわね」
サミーが朗らかに笑った。
「家禽のことなら、お任せください。俺らの仕事なんで。まずはアイガモの数を増やします」
「アイガモの肉を売るのは私に任せて。王都に販路を広げるわ」
「楽しみにしております」
その頃、ニコラスもポーラと打ち合わせをしていた。
「ニコラス様、この先は養殖池に水を引き込み、マスを池で育てるだけです。産卵は春ですので、しばらくは村の人間だけで手は足ります。餌は何がいいのか、何を食べさせたら味が良くなるのかですね。ニコラス様のご指示のとおりに池を区切って餌を変えますね」
「病気でマスが全滅しないよう、最初は養殖池を完全に区切ったままで頼むね。効率は悪いだろうけど、養殖が軌道に乗るまでは我慢だ」
「この村の者はみんな我慢強いので、お任せください」
「頼りにしているよ。僕たちはいったん王都に戻るけど、僕とお母様は春になったらまた様子を見に来る予定だ」
「はい。お待ちしておりますね」
ニコラスは着々と進んでいる養殖池を見ながら村人たちとあれこれ話をしてからポーラに話しかけた。
「こまめに進行状況を連絡してくれる?」
「もちろんです。必ず毎週お手紙で報告いたします」
ニコラスはポーラと約束してから屋敷に戻った。
フローラはミゼルの家で素朴なお菓子を食べていた。
「美味しい。これは栗でしょ? でも、栗のパイとは違う」
「甘く煮た栗をパン生地で包んで焼いたんですよ。この辺りの農家の人間のお楽しみです」
「とっても美味しい!」
「こんな素朴なお菓子で喜んでいただいて、私も嬉しいです。それとフローラ様、近所の家々で保存していた洗濯の実が集まりましたよ。これは私がお屋敷まで運びましょうね」
「いいのよ、私が自分で運ぶわよ。え? それ全部が洗濯の実なの?」
ミゼルは大きな布袋を五袋運んできた。
「そうですよ。公爵様が買い取ってくださるのならと、みんな喜んで持ってきてくれました」
「みんなが洗濯するときの分、取ってあるのかしら」
「大丈夫ですよ。これは全部、余っている分です」
「じゃあ安心ね。私、カタリナ伯母様に商売のことを習うつもり。これがたくさん売れるよう、しっかりお話を聞いてくるわね」
「フローラ様……」
「ミゼルさん? どうしたの?」
ミゼルが目頭を押さえている。
「貧しい土地に生まれた人間は貧しいままなんだと思い込んで生きてきましたけど、それは違いますね。公爵様、奥様、ニコラス様、フローラ様、皆様が村のためにお力をお貸しくださって。ありがたくて」
「泣かないで。私ね、本当はもっとこの村にいたいの。でも私はまだ十一歳だから一人で残るわけにいかないの。とっても残念だわ。私、早く大人になりたい」
ミゼルが泣き笑いをした。
「フローラ様、そのお言葉を聞けただけで十分です。それと、あまり早く大人にならないでください。花開く前のつぼみのような、今のフローラ様を拝見していたいです」
「そう?」
「はい。フローラ様が大人になって嫁がれたら、もうお会いできなくなりますから。さあ、洗濯の実を荷車に載せましょう。お屋敷まで私が運びます」
「私も一緒に荷車を引くわ」
フローラには念のために護衛がついて来ていたから、護衛が「私が引きます」と申し出た。
だがフローラは「私がミゼルさんと一緒に荷車を引く」と言い張って二人で荷車を引いた。
荷車を引きながらフローラは考え込んでいた。
(そうだった。お父様とお母様は十五歳までは婚約しなくていいって言ってくださっているけど、私もあと何年かしたら誰かのところに嫁ぐのね。それまでに私はアンダル村のために成果を出せるのかしら)
公爵家の屋敷について、フローラはミゼルを見送った。ミゼルは何度も振り返って、そのたびに頭を下げて帰った。
夏の終わりから秋の初めまでをアンダル村ですごした公爵家一家は、いったん王都に戻る。
公爵家の馬車を、村の皆がそれぞれの仕事をしている場所から手を振って見送っている。村長は村民全員で見送りするつもりだったが、アレクサンドルがそれを断った。
「見送りでみんなの仕事の手を止めさせる必要はない。気持ちだけ受け取るよ」
「公爵様ご一家にはよくしていただきましたのに」
「それが領主の仕事だよ」
村長が深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます。養殖池とアイガモに関しては春までに我々が作業を進めておきますので、ご安心くださいませ」
「うん、頼むよ。その先は我々で販売する。利益は村に還元する。販売も軌道に乗ったらアンダル村で販売専門の組織も立ち上げてもらうことになるだろう。お互いに忙しくなるな」
「皆張り切っております」
公爵家一家はアンダル村に地元産業の種を植え付けた。
今は本来の屋敷を目指して移動中だ。
馬車の中で、ニコラスは窓の外を見て黙り込んでいる。もともと口数が多い方ではないニコラスだが、今はポーラのことを考えていた。
優秀で奨学生になって勉学を終えても仕事を得られなかったポーラ。
ポーラは母親の看病のために家にとどまり、狭い畑を耕して生計を立てていた。
父親は王都に働きに出かけていてなかなか帰ってこられない。
(それでもポーラは自分の運命を恨んだりしていなかったな)
ニコラスはぼんやりとポーラの聡明そうな顔を思い出していた。
「ニコラス、どうかした? 元気がないわね」
「お母様、やるべきことがありすぎてじれったいです。養殖池も本格的に稼働するのは春まで待たねばなりませんし」
「相手は生き物だから。私たちの都合に合わせてくれないのは仕方ないわよ。私だって元気が戻るまで四年かかったじゃない? 家族や使用人のみんなは、私が回復するまで待ってくれた。みんなに迷惑をかけたけれど、あの四年間は私に必要な時間だったのよ」
そこまで言って、マリアンヌは話を聞いているフローラの手をそっと握った。
「フローラにはずいぶん寂しい思いをさせてしまったわね」
「お母様が元気になってくれたから、私はそれでいいんです」
「マリー。何もかも順調な人生はないよ」
「アレックス。いつもなぐさめてくれてありがとう」
「フローラは君が療養していた四年の間に、労わる気持ちを学んだよ」
「そうよ、お母様。ニコ兄さまがずっと私の相手をしてくれたもの、寂しくなかったわ。今思うと、ニコ兄さまは本当に辛抱強く私の相手をしてくれたわよね。あの頃は頑張っていたわよね、ニコ兄さま」
「フローラに頑張ったなんて言われると微妙な気分だけどね」
馬車の中で穏やかに公爵家一家が笑い合う。
アレクサンドルは元気になったマリアンヌを優しく見ているし、フローラはマリアンヌに甘えて寄りかかっている。ニコラスも笑顔を浮かべながら窓の外を眺めた。
王都と地続きの領地にある屋敷に帰った一家を、山のような仕事が待ち受けていた。
アレクサンドルには石炭の輸入販売をしている会社、スワローからたびたび手紙が来ていた。だからアレクサンドルは覚悟していたが、マリアンヌとニコラスにもやるべきことが大量に待ち構えていた。
入浴施設は混雑の解消を考えなければならなかった。ニコラスが発案した入浴施設も問題があった。
「そんなに混雑しているのかい?」
「はい。値段を上げるか、入場制限をするか、入浴施設を増やすか、考えどころでございます」
「うちが繁盛しているなら、他に真似をする施設が出てきそうなものだけど」
「真似をした施設はできましたが、利益最優先なせいで評判はあまりよくないですねえ」
「できたことはできたのか。でもうちの客足は減らないってこと?」
「はい」
「とりあえず、予約制にしようか。これ以上利用者を増やすのは危険だよ。みんなに喜んでほしいと思って始めたのに、喜んでもらえなくなっては本末転倒だ」
「承知しました」
マリアンヌは宿泊棟の責任者であるジークから報告を受けている。
ジークは現在、療養所と入浴施設に併設されている宿泊棟の管理責任者である。
ジークの悩みは残り少ない人生を療養所で暮らしたいという希望者が身分を問わずに多いことだ。
中には身分に物を言わせて順番を早くしてほしいと言ってくる貴族が何人もいた。平民でも豪商が寄付金の話を匂わせて順番待ちを短くしようとする。
話を聞いたマリアンヌは考え込んだ。
「なるほどね。需要が多いだろうとは思ったけれど、これほどまでとは。短期療養を中心にしようと思って始めた療養所だけれど、希望者の目的はそうじゃなかったのね。療養所で最期を迎えたい人がそんなに多いとは」
「至れり尽くせりで医者も常駐している安心感が魅力なのでしょうね」
「公園の景色や美味しい食べ物もあるしね」
「さようでございます」
「少し考えるわ」
マリアンヌは考え続けた。やりたいことはいろいろある。だが、心が疲れてまた動けなくなることは避けたいと思う。
「どうしたらいいかしらね」
窓の外を眺めながら考え続けた。





