52 お姫様
ポーラの家の前の畑に、大勢の村人が集まっている。
全員が畑の土を掘り出して池を作っている。大量の土は山となって積まれている。
ニコラスがその山を眺めながら「これ、少し使ってもいい?」とポーラに聞いた。ポーラは最初、村人と一緒になって畑の土を掘っていたのだが、字が書けると知ったニコラスが記録係として採用した。
ジェシーはニコラスに「母上の仕事の記録をしてくれる? 母上は何か思いついたら突っ走る人だから、おそらく細かい記録は残していないと思うんだよね」と言われて、今日からマリアンヌの隣で記録係をしている。
ニコラスの言葉をせっせと記録しているポーラを見て、ニコラスが質問した。
「ポーラは誰に字を教わったの?」
「ニコラス様が設立した奨学金をいただいて、学校に通っていました。五年間だけですが」
「字が書けるのに、それを利用しなかったの?」
「母が具合悪いので王都には行けなかったんです。それに、この村では……」
「そうか、この村で読み書きできても、勤め口がなかったのか」
「はい……」
突然ニコラスがしゃがみ込んでガシガシと頭を掻きむしった。
「ニコラス様?」
「やるべきことがありすぎる。慎重に優先順位を考えなくちゃ。僕の体が五つくらいあればいいのに!」
呆気に取られていたポーラがクスクスと笑い出した。
「ニコラス様でもそんなことを思うんですね。私もいつも体が二つあったらいいのにって思っています」
「そんな言葉を聞いた後で申し訳ないけど、君にやってもらいたいことはたくさんある。頑張ってね」
「はいっ! せっかく覚えた読み書きの出番がやっと来たんですから、頑張ります!」
畑を養殖池にする作業は順調に進んでいる。
別の集団は川から水を引く水路を掘っていて、たびたびニコラスが水路の傾斜を測った。
「ニコラス様、その作業はなぜ必要なんですか?」
「一定の水量が淀みなく流れるようにするためには、水路の傾斜を計算しないとならないんだ。でも、どうやっても日照りのときは水が少なくなるから、水車は必要かな」
「そうなんですね……」
ポーラにはニコラスの頭の中はわからないが、この村のためにこんなに必死に働いてくれるニコラスが眩しい。
いずれ領主になるニコラスがちっとも偉ぶらないのもすごいことだと思っている。
(ニコラス様は、どんな領主様になるんだろう)
今でも公爵家はこの村のために尽力してくれているが、いつの日かニコラスが領主になったら、この村はどんな様子になるのか。今から楽しみだ。
ポーラは家に帰ってから母親に「今日はこんな仕事をした」と話すのが日課で、母親も話を聞くのを楽しみにしている。
「いつも私たちの暮らしぶりを気にかけて下さって、ありがたいことよねえ」と喜んでくれる。
「ニコラス様のお仕事を記録したり予定表を書き込んだりするだけなのに、ちゃんと賃金もくださるの」
「ポーラ、しっかりお役に立つのよ」
「ええ、母さん。そのつもりよ」
◇
夜、ニコラスは疲れて家に帰った。このところ毎日、日中は歩いているか立っているかで、座るのは昼食の時くらいだ。
やれやれとソファに座っていると、マリアンヌに「どう? 養殖の準備は進んでる?」と聞かれた。
「はい。下準備に時間がかかりましたが、今は順調に進んでいます」
「そう。魚を養殖できるようになったら、次は販路の確保ね」
「瓶詰めなどにも手を広げられるといいのですが。まずは足元からひとつずつです」
夕食時に父のアレクサンドルから同じ質問をされてニコラスが答えていると、フローラが会話に参加した。
「今日、村を歩いていて、お兄様を見かけたわ。女の人と一緒だったわね」
「うん? ああ、ポーラだね。記録係を頼んでる」
「きれいな人ね」
「きれい……ごめん、そういう視点で見てなかった。フローラは何をしていたんだ? 散歩か?」
モグモグしていたフローラは口の動きを止めて「やれやれ」という仕草をした。
「ニコ兄さま、いつまでも私を子供と侮らないでほしいわね。私は村を歩き回って、いいものを発見したわ」
「へえ。なにを発見したの?」
「じゃーん。これです」
フローラがポケットから引っ張り出したのは、真っ黒な珠を連ねたブレスレットだ。
「それはなんだろう」
「木の実なの。ツヤツヤできれいでしょう?」
「僕に見せてくれる?」
「どうぞ」
ニコラスが受け取ってじっくり眺めた。真っ黒でツヤツヤした硬い木の実に穴を開けて、麻紐で連ねた素朴なブレスレットだ。
「何の実なの?」
「これをくれた人は『洗濯の実』って言ってた。この種の周りの実と皮を小さな袋に入れて水の中で揉むと、石鹸みたいに泡が立って汚れが落ちるんですって」
「その木はどこにあるの? いっぱい生えているの?」
マリアンヌが身を乗り出すようにして会話に参加してきた。
「どこの家も庭に植えているって言ってたし、その木がいっぱい生えている林もあるって言ってた。これで洗濯をすると、お洋服がふわふわになるんだって」
「フローラ、僕ならそこに食いつくよ」
一瞬、「なんのこと?」という顔をしたフローラだったが、「あっ!」と言って目を輝かせた。
「私もこの領地のために役に立てる?」
「そうだね。役に立てると思うよ」
「明日もう一度その家に行って、もっと詳しく話を聞いてくるわ!」
「フローラ、私にもその実を分けてもらってきてくれる?」
「えええ……。お母様、私の仕事を取っちゃだめです」
「そんなぁ。ニコラスに続いてフローラも?」
がっかりするマリアンヌを見て、アレクサンドルが笑い出した。
「マリー、フローラがやる気になっているんだ。君は見守ってあげたらいいよ」
「そうねえ。せっかく子供たちがやる気になったのなら、任せた方が……ああ、でも私も興味があるのに! フローラ、成果を楽しみにしているわ」
本心では(私も洗濯の実であれこれ実験したい!)と叫んでいる。
「マリーは川エビとザリガニを諦めたんだろう? 今度は何に挑戦するつもりなんだい?」
「川エビは無理だろうと教えてくれたサミーがね、耳寄りなことを教えてくれたの」
「ほう?」
「サミーが何気なく話してくれた話が、とても興味深かったの」
サミーの家ではアヒルを飼っていて、卵や肉を食べている。ある時、白いアヒルが産んだ卵からカモそっくりの雛が育ったと言う。
アヒルは飛べないから日中に庭で放し飼いにしているのだが、どうやらカモのオスがやってきて交雑したらしいと。
アヒルの母とカモの父から生まれた子は、見た目は鴨だが飛ぶことはできず、餌はアヒル同様に雑草や虫を食べるという。
「ただ、餌代はかかるらしいの。雑草と虫だけじゃ足りないみたい」
「エサ代がかかっても、肉は売れるよね。それこそザリガニや川エビもたべるんじゃないか?」
「タニシとかも食べるかしら。まずは近くの大きな街まで肉を運んでも採算がとれるか、計算してみないと」
「肉の日持ちがするような工夫が必要だね」
「サミーの家では燻製にして保存しているそうよ」
「いいね、燻製の鴨肉。俺は大好きだな」
マリアンヌとアレクサンドルの会話を、ニコラスとフローラが食事しながら聞いている。
こうしてマリアンヌはアイガモの飼育と活用、ニコラスは魚の養殖、フローラは洗濯の実を調べることになった。
夜、夫婦の寝室でアレクサンドルがしみじみした調子で笑う。
「フローラまでやる気になったね」
「私もあのくらいの年齢のころ、とにかく毎日何かを実験していたわ」
「そうだね。君が六歳のときに出会えてよかったよ。他の人に君を取られないで済んだ」
アレクサンドルがよく言うセリフだ。それを聞いたマリアンヌは苦笑するが、アレクサンドルは真顔だ。
「私があなたに出会えたのは、きっと神様のご配慮ね。私のことをそんなふうに思ってくれる人は、この広い世界であなただけよ、アレックス」
「いやいや、君は自分の魅力にいまだ気づいていないからそんなのんびりしたことを言うけどね、実際に油断ならないんだ」
「油断ならないって、ふふふっ」
アレキサンドルはいつでもマリアンヌをお姫様のように扱ってくれる。
「あなたの前でだけ、私は物語の中の素敵なお姫様になれるわ」
出会ってから三十年以上。マリアンヌはアレクサンドルに出会えた幸運をいつも神に感謝している。
洗濯の実は「ソープナッツ」「ランドリーナッツ」と言われるムクロジの実をイメージしています。





