51 夜道の明かり
マリアンヌがサミーという相談役を相手に新たな収益の方法をあれこれ考えている間、ニコラスは土地の高低を入念に調べていた。案内しているのは領地管理人の息子ジェシーだ。ジェシーは二十代半ばの、温厚な青年だ。
「ニコラス様、一番低い場所に魚の養殖場を作るのではないのですか?」
「それだと養殖池に水を引くのは簡単だけど、洪水のたびに魚が流されてしまうだろう? また最初からになってしまう」
「あっ、そうですね。でも、新鮮な水を川から引き入れないと、魚が病気になったり死んだりするのではありませんか?」
「うん。だから洪水になっても魚が簡単に流されず、水を引き入れるのにさほど苦労しない高さを見つけ出すことが大切なんだ」
ニコラスが視点が定まらないぼんやりした目つきで周囲の家々を見回した。
「過去にどこまで浸水したか、記録はある?」
「記録っちゅうか、家の壁を見れば、洪水で水がどこまで来たのかわかります。外壁に水で洗われた跡が残ってますんで」
「なるほどね」
案内係のジェシーが、貧しげな家々が並ぶ一帯を指さした。
「あの辺りの家はどこも、酷いときは一階の天井近くまで水が入るんです」
「人間は流されていないと聞いたけど」
「もう慣れていますんで。みんな早めに高台に避難するか、舟を用意してある二階に避難します。家が押し流されるような場所には、家は建てられていません。建てても無駄なんで」
公爵家がこの地区の領主になってからは、治水工事にだいぶ資金を投入している。だが、領地の堤防よりも上流で堤防が切れることもある。川上の領主に治水工事を求めてはいるが、膨大な人手と資金を必要とすることだからなかなか話が進まない。
ニコラスは「我が家で川上の治水工事も行ってしまえばいいのに」と思うが、ちょっと考えただけでそれは現実的ではない。
川の管理はそこの領主の責任なのに、公爵家が手を出せば「それならうちの崖崩れ防止も支援してほしい」とか「だったらうちの家畜が狼に襲われるのも公爵家の資金でなんとか」という要望が殺到するのは想像がつく。
「川の管理は国がすれば問題は解決するのに。ん? いや、それもだめだな」
「どうしてですか、ニコラス様」
「国の施策は各領主からの税金で賄われる。国が全ての河川を管理することになったら膨大な資金が必要になり、領主の治める税が増える。増えた分の税は、最終的に民に課されるから」
「今以上に税を納めるなんて、無理ですよ」
「だよねえ。ってことで、養殖する場所はなるべく被害に遭わず、水に苦労しない場所を見つけ出すことが大切なわけさ」
そう言いながらも家々の外壁に残っている水害の跡の高さを調べて回っている。水の跡の高さを調べてはジェシーに記録させつつ、考え事もする。
(ハロルド兄さんが国王になれば、処理すべき事案は星の数ほどあるはず。宰相が兄さんに渡す前に、重要度でふるいにかけるだろう。
だが、宰相や事務官に私利私欲が絡めば重要度に色が付けられる。かと言って兄さん一人が全てに目を光らそうとすれば絶対に破綻する。
つまり、善き国王が善き政治をするためには、優秀な頭脳が複数必要。または優秀な事務官を見抜く目を持つことが必要だ。王太子は本当に大変そうだよ)
兄の苦労を思いやるニコラスは、何日もかけて土地の洪水の跡を調べ終えた。
ニコラスは「この辺がいいんだが」と足を止めた。
そこにはあまり生育の良くない野菜畑と一軒のみすぼらしい家がある。ジェシーが「この家の家長はドルーです」とニコラスに伝えた。
ニコラスはその家のドアを叩いた。すると家の裏側から声がした。
「はあい。あっ。領主様の坊ちゃま。こんにちは」
家の裏側から走ってきて頭を下げたのは、ニコラスと同年代の少女だ。
少女の名はポーラだとジェシーが小声で教えてくれた。
ポーラは日焼けしていて、黒く長い髪を三つ編みにしている。ポーラはニコラスの外見とジェシーが付き従っている様子を見てすぐに、領主の息子と気づいたらしい。
「僕の名はニコラス。よろしくね。土地のことで話があるんだけど、お父さんはいるかな」
「父さんは短期の出稼ぎに出ています。王都の工事です。たぶん、あと三月くらいは戻りません」
「じゃあ、この畑は君が?」
「はい。母さんは体を壊していて、畑仕事はあまりできないので。土地のことでしたら、私が話を伺います。あの、母に心配させたくないし、家の中は坊ちゃまに入っていただくような家ではないので、そこで話をしていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいよ。僕のことはニコラスって呼んでほしい。僕は君と同い年だ。坊ちゃまって呼ばれる年齢でもないからね」
「わかりました」
そこからニコラスがポーラに養殖の話を説明した。ポーラは黙って聞き、「質問は?」と聞かれると迷わず口を開いた。
「うちの畑を養殖池にしたい、ということですか? 畑と家を手放すのは困ります。食べていけなくなります」
「もちろん賃料を毎年払うよ。額については他の家に妬まれない程度になるけど、君の家に損をさせない額にしたいと考えている」
「何年間ですか」
「上手く行けばずっと借りたいんだけど」
首を傾げていたポーラが、「生意気を言うようで気が引けますが」と話を始めた。
「水は重いのです。畑を掘って水を溜めたら、水の深さに合わせて土は硬くなります。木槌で入念に叩いたように硬くなるでしょう。養殖が上手くいかないからと、二、三年で養殖を中止されたら、その後に土を掘り返して柔らかくして、掘り出した分の土も戻さねばなりません。それは我が家の仕事になるのでしょうか」
ニコラスがびっくりした顔でポーラを見つめた。その顔に気づいて、ポーラがたちまち赤くなった。
「も、申し訳ございません! 図々しいことを申しあげました!」
「いや。僕は今驚いただけだよ。確かに水は重い。その後の畑のことは、元に戻すところまでが僕の仕事だと思っていたけど、今話を聞いてすぐにそこまで気づく君は鋭いなと感心していたんだ」
「あ、いえ」
整った顔のニコラスに褒められて、ポーラはじんわりと赤くなった。
「でもね、二、三年で撤退するつもりはない。あれこれ試して、魚の種類や餌、水質の管理。生き物相手の仕事で最善の方法にたどり着くのに焦りは禁物だ。僕は十年先の成功を見据えて動くつもりだよ」
「あの、それなら図々しいついでにお願いがあります」
「おい、ポーラ、あんまり失礼なことはやめてくれよ」
「いや、いい。我が家が応じられるかどうかは別だけど、なんでも言ってほしい」
少しうつむいて迷っていたポーラが、意を決して顔を上げた。
「他の家なら、私が出稼ぎに行くこともできるでしょうが、うちは母さんが寝込みがちなのでそれができません。畑を池にしたら、私の時間が余ります。養殖の事業を私に手伝わせていただけないでしょうか。とても興味深いです。力仕事もできます。お任せください」
「わかった。ぜひ頼みたい。でも、病人の世話ははたで見るより大変な重労働だ。僕の家は療養所を経営していてね。コツをつかんでいる人でも腰を傷めたりするんだ」
「療養所……」
「うん。だから、ポーラが体を壊さない程度に働いてくれるのは大歓迎する」
ポーラの顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます。私、もう十四歳で、子供でも大人でもない苦しさに滅入っていたんです」
「滅入って?」
「私のこの先に希望が見えなくて、胸のここらへんが重苦しくて。でも、ニコラス様の新しい事業に最初から関われるのなら、なんかこう、暗い夜道の先に明かりが見えたような気持ちがするんです」
「あ、うん。そうか。それならよかったよ」
村長の了解も取り付け、翌日からポーラの家の畑を掘り返す作業が始まった。
村人たちは滅多にありつけない現金払いの仕事に活気づいた。
「何かあるたびに公爵様はうちの村の面倒をみてくれる。ありがたい領主様だよ」
「そうだなあ。ニコラス様の魚の養殖も、上手くいくといいなあ」
「奥様の方は大失敗だったらしいが」
「ああ、ザリガニと川エビが全部食われたそうだな」
「でも、うちの子供らは駄賃を貰って大喜びしていたよ」
「そうだな。うちの女房もいい稼ぎになったと言っていた」
そこでみんなが一瞬口を閉じた。皆の思いは同じだ。
「いい領主様に恵まれたよ」
皆が一斉に「ほんとほんと」とうなずく。
農民は税を搾り取るための道具と思っている領主がほとんどだ。
おおらかで優しいマリアンヌやニコラスの態度に、むしろ農民の側が(大丈夫ですか? ずる賢い人間に騙されたりしていませんか?)と心配になる。
「俺たちでお支えしなくては」
そう思わせる人柄の良さが公爵家一家にはある。
一方、食事を終えて部屋に入ったニコラスは、ポーラの言葉を思い出していた。
『暗い夜道の先に明かりが見えたような気持ちです』
まさかそんな言葉を同じ歳の少女から聞くとは思わなかった。
ニコラスはぼんやりしていた顔で天井を眺めていたが、立ち上がって窓の外を見た。少し低い位置に村の家々の明かりが見える。
「僕の養殖事業には、たくさんの人の希望が込められている。蓄えた知識と遊学で手に入れた知識を生かさなくちゃ」
ニコラスの翡翠色の瞳に力がこもった。