47 ニコラス、覚悟を決める
ニコラスがそろそろ帰ってくると父アレクサンドルに教わってから、フローラは毎日屋敷の最上階の窓から街道を見張っている。
母に貸してもらった最新の望遠鏡はかなり大きく、三脚の上に太い筒状の望遠鏡が載せられている。
「まだかしら。ニコ兄さまったら、遅いなあ」
フローラは十一歳。この一年間で身長が七センチも伸びた。大きくなった自分を早く見てほしい。旅の話をしてほしい。
そんな日が何日も過ぎたある日、大型望遠鏡の中に五人の姿が見えた。
「あっ! ニコ兄さまだ! 帰ってきた! やっと帰ってきた! お母様ぁ! ニコ兄さまが帰ってきましたぁ!」
階段を駆け下り、マリアンヌのいる仕事部屋へと走る。以前は片時も離れずに付き添っていた養育係のレイアはいない。レイアは適性を見込まれて、今は末っ子のステラの養育係だ。
フローラは仕事部屋のドアを開けて、書類を読んでいたマリアンヌに駆け寄った。
「お母様! ニコ兄さまが帰って来ました! 五人で帰ってきたの!」
「よかった。帰ってきたのね。教えてくれてありがとう。ニコラスに会う前に泣き止みましょうか。みんなを驚かせてしまうわ」
「え?」
マリアンヌはフローラの顔を見て一瞬驚いた顔をした後で微笑んだ。指先でそっとフローラの頬に流れる涙を拭ってくれる。頬に触れられて初めて、フローラは自分が泣いていたことに気づいた。
「あれ? 私、なんで泣いているのかしら」
「ニコラスが帰ってきて、すごく嬉しかったからでしょう? それと……ニコラスがいなくて、今まで寂しかったのね」
「えへっ。変なの。私、泣くほど寂しかったなんて思っていなかった。自分の気持ちなのに」
「フローラはニコラスと一緒にいる時間が長かったものね」
「うん……」
遊学の旅に出たニコラスは、フローラにとって兄であり先生であり友達だった。
子供時代の思い出は、どれもニコラスの姿と共に思い出すものばかり。
フローラは(私、寂しかったのね)と改めて気づいた。
五ヶ月前に妹のステラが生まれ、自分はお姉さんになった。それ自体は嬉しいことだったが、誰かしらが自分の隣にいた頃に比べると、一人で過ごす時間が増えた。
ハロルドはお城、ニコラスは遊学、アレクサンドルは公爵の仕事に追われ、マリアンヌは工房の仕事をしている。
フローラ自身も家庭教師の授業の他に淑女教育もある。もう、末っ子の赤ちゃんではなくなったから、フローラ付きだったレイアはステラ付きになった。
「フローラ、出迎えに行きましょう」
「はいっ!」
「楽しみね。ニコラスは一年間の遊学で、どう変わったかしら。でも変わったのはあなたも同じよ。ニコラスはフローラが成長していることに驚くと思うわ」
「私、成長しましたか?」
「ええ。体だけじゃなく、心がとても成長している。もう、私の小さな赤ちゃんじゃなくなったわ」
「お母様、私はとっくに赤ちゃんじゃなくなってますけど! 十一歳ですよ?」
マリアンヌは笑って答えない。マリアンヌに手を引かれ、フローラは玄関に向かう。
そんなフローラを横目で見ながらマリアンヌはしみじみしていた。
ハロルドはもうすぐ婚約式で、ニコラスは一年間も親元を離れた。とにかく活発だったフローラは、最近大人の女性に一歩近づいた。少年とも少女とも言えなかった体つきが、柔らかさを漂わせるようになった。
(子供たちはどんどん成長していく。私の可愛い赤ちゃんは、ステラだけになった。全員が無事に育ってくれていることは嬉しいことで感謝すべきことだけど、ちょっと寂しい)
そんな気持ちを胸に秘めて玄関の外まで出て、ニコラスを待った。
やがて門番が門を大きく開けてニコラス達一行が入ってきた。フローラがマリアンヌと繋いでいた手を離して駆け出していく。
「ニコ兄さまぁ!」
走っていくフローラの後ろ姿が嬉しそうだ。マリアンヌはさっきまでフローラと繋いでいた右手を眺める。
「うん。少し寂しいけど、これでいいのよ」
「マリー、なにが寂しいんだい?」
「あら、アレックス」
「ニコラスがやっと帰ってきたね。ああ、ニコラスは大きくなったなあ」
「本当ですねえ。ずいぶん体つきががっしりしましたね」
アレクサンドルがマリアンヌの右に立ち、手をつないできた。フローラの手を失って所在なかった右手は、アレクサンドルの大きな手に包まれる。
ニコラスが笑顔で近づいてきた。ニコラスの左腕にはフローラがしがみついて笑っている。
「父上、母上、ただいま帰りました」
「おかえり、ニコラス。無事でなによりだ」
「おかえりなさい、ニコラス。すっかり日焼けして。逞しくなったわね」
「ニコ兄さま、早く旅のお話を聞かせて!」
その日、マリアンヌの家ではニコラスの帰宅を祝って、いつもより豪華な夕食になった。ハロルドも城から帰ってきた。家族も使用人たちも、全員が笑顔だ。
「おや、ニコラスじゃないか! お帰り。ずいぶん大きくなったなあ」
「そういう兄さんこそ背が高くなったね」
「お帰りなさい、ハロルド。ニコラスもハロルドも、この一年でずいぶん背が高くなったわ」
「我が家の食事は相変わらず美味しいなぁ」
「そうでしょう? ニコ兄さま」
「ニコラス、ずいぶん背が伸びたな。あとで僕と背比べをしよう」
「いいですよ、ハロルド兄さん。僕、旅の途中で靴のサイズが変わったとき、すごい勢いで成長していると実感しました」
子供たちの会話を聞いていたアレクサンドルは口数が少ないものの、穏やかに微笑んでいる。
マリアンヌは夫と子供たちを眺めながら幸せを噛みしめている。
生後五ヶ月のステラが目を覚ました。今夜は家族勢揃いにしたいとマリアンヌが言って、養育係のレイアがマリアンヌの近くの席でステラを抱っこしている。目を覚ましたばかりのステラが、さっそく食べ物を目で追っている。
「ステラ、目が覚めたのね。よく寝てよく飲むいい子だこと。ステラ、ニコラス兄さまが帰ってきたのよ。初めまして、だわね」
「やあ、ステラ。僕がニコラスだよ。君は母上にそっくりだな」
「そうね。髪の色も瞳の色も私に似たわね」
アレクサンドルは黒目黒髪。マリアンヌは青い瞳に金色の髪。
ハロルドは茶色の瞳にダークブロンドの髪。ニコラスは緑の瞳に金色の髪。
フローラは黒目黒髪。ステラは青い瞳に金色の髪。
「あなたたちは見事に全員の瞳の色と髪色の組み合わせが違うわね」
「でも、みんなどこかしらお母様とお父様に似ています」
「そうね、フローラ。みんなどこかしら私やアレックスに似ていて、みんな愛おしいわ」
ステラにはチキンスープが与えられた。ステラは最初のひと匙こそ驚いた顔をしたけれど、唇を尖らせて「もっとほしい」と無言で訴える。家族全員が笑顔でステラを見ている。
「それでニコラス、遊学した感想を聞かせてくれるかい?」
「感想ですか。そうですねえ、領地を経営する側の責任は重い、と知ったことでしょうか。もっと広い視点で語れば、国を導く側の責任はより重いと思いました」
ニコラスの言葉を聞いて、長男のハロルドが興味深そうな顔になる。
「まずは民を飢えさせない。これだけは何が何でも死守しなくてはと思い知りました。遊学に出かける前、僕は知識や教育が人々を幸せに導く最良の手段と信じていました。でも……」
そこで言葉を切って、ニコラスはテーブルの上のご馳走を眺めながら言葉を続ける。
「明日食べるものがない状態の人に学問を勧めるのはむなしいことです。腹を満たし、温かい家に住み、体を守る服と靴があって、それから必要になるのが学問だと思いました」
「それで? ニコラスはどうしたいんだい?」
「僕はこの公爵家の次期当主になると決めました。フローラにその座を譲ってもいいと思っていましたが、ごめん、フローラ。僕はこの家の当主になる。そして一生をかけて、この領地、ひいてはこの国の民のために働くことを決めたよ」
「ニコ兄さま、私はその方が助かるけど」
聴き入っていた家族や使用人たちが皆一斉に「よかったよかった」と言うようにうなずいた。
「そうか。ニコラスがそう言ってくれて安心したよ。お前は学者の道に進むのかと思っていた」
「いえ。遊学させていただいたおかげで、僕の力は領地運営に注ごうと決めました」





