36 想定外の使われ方
「燃料費を気にせず機能回復のためのお湯を沸かしたまえ」と夫に言われたマリアンヌは「贅沢するのは緊張するわ」と言いながら作業部屋の皆と話し合った。
話を聞いた作業部屋の従業員たちは、アレクサンドルと同様に(いやいやいや、公開庭園や療養所建築に使った費用に比べたら微々たる金額では?)と思う。
マリアンヌは慎ましい母に育てられたために、お湯を沸かす、暖をとる、灯りをつけるという日常の光熱費を節約する生き方が身につき過ぎて、今もそれが拭えない。お湯を沸かすとなるといきなり母の教えが頭の中に復活してしまう。
そんな自分に苦笑しながら大型ボイラーを作り上げ、運動用の大型水槽のお湯を循環させて一定の温度を保つように工夫した。
ボイラーの仕組みはなるべく単純にした。熱効率を求めすぎて複雑にしたり繊細にしたりすると故障が多くなる。水漏れや火事はあってはならない。
金属のパイプを蛇行させてその下でガス火を焚いて、熱せられた水が下から上に移動するようパイプを配置した。水槽の水はゆっくり循環して温められる仕組みだ。
「まずは療養所に滞在してる方に試してもらいましょう」
マリアンヌの指示で、最初に協力してくれたのは六十代の男性客だ。
彼は片足が病気で動かしにくく、ほとんど寝てばかりの生活に嫌気がさしてこの療養所に来た。新しいもの好きで「いくらでも実験に参加させてもらう」と快諾してくれた。そして今。
「これはいいな。体が浮くから弱った脚でも歩ける!」
「しかし掴まる場所が無いと不安だな。手すりが欲しい。あと、温度が高すぎてのぼせそうだ」
「水から上がると思いの外疲れている。これはいい運動になってるようだよ」
忌憚のない意見をメモしながら一同が(なるほど)と感心する。意見が取り入れられ、どんどん水槽の改良がされていく。
療養所の利用者による実験がひと通り済んで、「よし、これでいこう」と案がまとまった頃、運動水槽の担当者が、利用者の従者やメイドたちに「あのお湯はどうするのか」と聞かれた。
「え?水槽の掃除をしなくてはならないからお湯は捨てますよ」と答えると「もったいない、捨てる前に私たちにも入らせてもらえないか」と頼まれた。
どういうことかと詳しく尋ねると、療養所にはそれぞれ小ぶりな浴室が設けられていて、利用者はお湯を好きなだけ使える贅沢仕様なのだが、従者やメイドは自分のためにお湯を張って入浴することはほとんどない。
貴族であれ平民であれ、どんな富裕層であっても使用人に毎日自由に入浴させる家などないのだ。お湯をたらいにいれて体を拭く、たらいに湯を入れ、そこに入って体を洗う、その程度。冬はとても寒い。
それがここでは歩行訓練のために沸かした膨大なお湯を使用後に捨てるという。使用人たちからすればとんでもない贅沢だし無駄に見えた。
マリアンヌの許可を得て「どうぞ使ってください」と言えば、彼らは皆喜び、各部屋の使用人たちが男性と女性に分かれて時間別にお湯の張られた水槽に浸かり、「これは気持ちがいい」「こんな贅沢な湯浴みは初めてです」と大喜びした。
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「お湯には商売の種が浮かんでいる」
つぶやいたのはニコラスである。マリアンヌは小さいカタリナがいるのかと思ってギョッとした。
「ニコ、それは療養所の利用者から更にお湯の利用料を取るってこと?」
「ううん。運動用の水槽とは別にして、普段お湯に浸かることがない人たちに大きな湯船に入ってもらうんだよ。平民の家には浴室がないでしょう?大きな湯船は喜ばれると思う」
「なるほど。庭園の散策には興味がない人でもお湯に浸かることには興味があるかもしれないわね。いえ、むしろ農民や建築業のように普段から体を使って働いてる人々は、散策よりも湯船かもしれないわ」
ニコラスの目がキラリと輝いた。
「お母様、それに関しては僕に任せてもらえませんか。やってみたいことがいろいろあるんです」
「ニコがやりたいこと……。ええ、いいわよ。くれぐれも安全第一で頼むわね。それと、宿泊棟担当のジークと話し合ってもらえる?」
「ジークさんですか? 接客で忙しいのではないですか?」
「ジークはお客様への対応を考える専門家だから、彼の視点は必要よ」
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「ああ、いいですね。それは絶対喜ばれます。使用人はもちろんですが、われわれ平民は浴室を作るほどの必要性は感じませんが、月に一度、半月に一度くらいの贅沢としてここに来てお湯に浸かるのは歓迎されると思いますよ」
ジークはニコラスから話を聞いてすぐに賛成した。そしてお湯を清潔に保つ必要性を説いた。
「わざわざここまで出かけてきて、家で出来ない贅沢に対してお金を払うわけですから、少しでも不潔な感じを与えたらお客様は損をした、と思います」
メモを取りながらニコラスは感心する。自分にはない、経験から来る鋭い意見だ。
「それと、女性が安心して入れる仕組みが必要です。男性客の中には浮かれて羽目を外す人がいないとも限りません。お湯に入る時用の簡易な服を着るとか、裸で入っても安心な建物にするか」
「なるほど」
「お湯に浸かっている時、アクセサリーや財布、高価な衣類が盗まれないような工夫も必要です。盗難騒ぎは宿泊業の人間が一番気を遣うところです」
普段は感心される側のニコラスが感心している。
「ジークさん、すごいね」
「この仕事をして二十年以上ですからね。それと、宿泊棟は貴族と平民で施設を分けてますが、そこはどうします?」
「あー。一緒には入らないだろうから、別に建てるか、日にちで身分を分けるか、かな?」
「ニコラス様、そこは、カタリナ様にお尋ねなさいませ。きっと良いアドバイスをくださいますよ」





