20 ニコラスのお願い
朝。
ハロルドが王宮に出かけた後のこと。
「お母様、お父様はいつお帰りになるの?」
「んー、まだまだかしらねぇ。ゴルデスのことが大変そうなのよ」
アレクサンドルは連合国側の団長として無血開城直後から出かけている。少なくともまだ二ヶ月は帰れないだろう。
「僕も行ってみたいなぁゴルデス国」
「まだ落ち着いてないから子供は無理よ。お邪魔になるわ」
「だったら、別のお願いがあります」
「何かしら?」
「ホランド王国に行ってみたいんです!」
「え。そんな」
そんなことは、やっぱりダメだよねぇとニコラスがしょんぼりした。
「そんな楽しそうなこと、お母様だってしたいわよ。そうね。いいわねホランド。行きましょう!前から行ってみたいと思ってたのよ」
「えええええっ?」
その場の全員が育児メイドのレイアを振り向いた。
「も、申し訳ございませんっ!」
驚きのあまり素っ頓狂な声を出したレイアがぺこぺこと頭を下げた。
旦那様の留守中だからニコラス様を止めると思ってたのに。奥様が乗り気で国外に行くと言う。公爵夫人て、そんな身軽なお立場だっけ?とレイアは首を傾げる。
夜、夕食の席。
「どうして僕だけダメなのですかっ!フローラまで行くのに!」
「お兄様はそのうち公務でいくらでも外国に行けるじゃないですか」
バターを塗ったパンをモグモグ食べながらしれっとニコラスが言う。
「ニコ!僕を裏切るのか。ずるいぞ!」
「ハロルドは次期国王だからねえ。あなたが行くとなると警備がとんでもないことになるじゃない?今、王宮はてんてこまいなのに悪いわよ。何より貴族の一家全員が同時に国外に出るのは法で禁止されてるし」
「あ。そうだった……。くうぅ、そんな古臭い法律、僕が王になったら絶対に廃止してやる」
ニコラスがパンを噛むのをやめ、珍しく怒っている兄を見つめる。マリアンヌは長男の表情が腹を立てた時の夫によく似てるわ、さすが親子ね、と思いながらスープを飲んでいた。お気楽である。
マリアンヌがフローラとニコラスを連れてホランド王国に行く話は、まず王宮の義父母に届けられた。
「あなた、フローラが行くなら私も……」
「やめんかエカテリーナ。グリードがゴルデスの件で寝る間も惜しんで働いているのだぞ」
「それならマリアンヌにもそう仰いませよ」
「マリアンヌは現地工場の視察ではないか」
「そんなの建前に決まってます。きっとフローラやニコラスと楽しんでくるんですよ。ああ羨ましい」
「マリアンヌが建前を使えるようになったのは大きな進歩だな。まあ、我々も退位したのだ、いずれ二人でのんびりと旅に出ようではないか」
「まことにございますか?約束ですよ?」
「嘘は言わぬ」
部屋の隅に控えているメイドは気配を消しつつ仲睦まじい二人の会話に笑顔になるのを我慢していた。
□ □ □
そして二週間後の今、マリアンヌとニコラス、フローラ、レイアは警護騎士たちとホランド王国の宮殿にいる。
「ピーター、私は王都見物に行きたいのに。なんで王宮なのかしら?」
マリアンヌは出迎えてくれたピーターにこぼした。ピーターはひと足先にホランドに行っており、案内役とホランド側との橋渡し役だ。
「そりゃ次期国王の母にして自動走行機の開発者、その他諸々の肩書きを忘れたのかい?どうしたって挨拶は必要さ。ねえ、フローラ?」
「アイッ!」
フローラは最近一歳になり、たいした病気もせず、よく眠り、明るい子だった。今もレイアに抱かれて愛想良く笑っていた。
フローラは上二人の兄たちより寝返りもハイハイも早く始め、活発だ。最近では歩くのもかなり上手くなった。
フローラは貴賓室が珍しく、高価な壺やクリスタルの置き物に触りたくて仕方がない。
モジモジグネグネと動いていてレイアに下ろしてくれと訴えていた。
「さあフローラ様、私と一緒に廊下を歩きましょうか」
ホランド国側の重鎮が貴賓室に入って来たのをきっかけにレイアはフローラを連れて廊下へと出た。
長い廊下をフローラがご機嫌で歩いている。レイアと護衛騎士もあとに続く。
そこに男の子が従者を連れて向こうから歩いて来た。ホランド王の長男、エドワード・ルーデンス・ホランド、七歳だ。
「おや?その子は誰?」
神経質そうな王子がヨチヨチ歩きのフローラを見て眉をひそめる。レイアは素早くフローラを抱き上げて端により頭を下げる。
「殿下、こちらはロマーン王国のフローラ・ド・ロマーン様にございます」
従者がすかさず答える。
「ふぅん。ロマーンの子か」
突然フローラが腕の中で暴れ、落とすまいとしたレイアが姿勢を低くした。スルリ、と猫のようにレイアの腕から逃げ出したフローラが一直線にエドワードに向かった。
「フローラ様っ!」
「なっ!なんだ!なんで近寄る!」
両手を前に伸ばして前のめりでトットットと走り寄るフローラは、エドワードが後ろに下がれば顔から転びそうだ。
なので王子は動かずにフローラを受け止めた。
「アイッ!」
フローラはエドワードにギュッと抱きつき、満面の笑顔でエドワードを見上げた。
(か、可愛い……)
エドワードは弟との二人兄弟なのでこんなに小さな女の子は珍しかった。しかも黒髪黒目のこの子はとても整った可愛い顔をしている。
エドワードは従者に促されてその場を立ち去った後も、ほんわかした優しい気持ちで歩いていた。
「あれ?冷たい?」
恐る恐る確認すると、服がフローラのヨダレで盛大に濡れていた。
「うわぁ!あいつ僕の服でヨダレを拭いたぞ!爺!なんとかしてくれ!」
繊細な王子はヨダレの洗礼を受けて大慌てしたのであった。