2 公爵家の一家団欒
公爵家の子育て専門メイド、レイア・ダウナーから見たご一家の様子です。
「大丈夫よレイア。たまには私がお風呂に入れるわ」
奥様がそう仰っても安心はできない。時々奥様はお仕事のことで目の前のことが見えなくなってしまうから。
「奥様!奥様!」
バスタオルを構えた奥様を素通りして、ニコラス様は裸のまま石鹸を床に滑らせて遊んでいた。奥様はニコラス様が湯船から出る所までは頑張られたけれど、出た瞬間に安心してお仕事の世界に入られた模様。
「ニコラス様、湯冷めしてしまいます」
子育て専門で雇われた私が急いでぼっちゃまをバスタオルで包むが、ニコラス様はニコラス様で
「レイア、石鹸はなぜツルツル滑ると思う?」
と拭かれながら私に質問なさる。小さい卵型のお顔もゆるやかウェーブの金髪も、秋の日の晴れた空のような青い瞳の色も奥様にそっくりだ。
「小さな妖精が石鹸の下で遊んでいるのでしょうか?」
と私が笑顔で答えると、がっかりしたようなお顔をしたものの、すぐに
「石鹸が乾いてると滑らないのと同じ理屈だと僕は思う」
と真面目なお顔でお返事してくれるけど、まさか摩擦の話?え、そう言う話?
私、レイア・ダウナーは二十歳で、貧乏男爵の長女だ。奥様のおじい様も貧乏男爵を自称していらっしゃると聞いたけれど、私の家は文句なしの本物の貧乏男爵で、弟と妹の学費どころか被服費にも事欠く筋金入りの貧乏だった。
弟たちのために結婚を諦めてこの公爵家に働きに来たのだが、王弟の旦那様はともかく、奥様は伯爵家の御令嬢だったとは思えない自由な方で、いつも忙しく領地を飛び歩いているか、作業をしてらっしゃるか、考え事をなさっている。
行儀見習いに来たはずの私の方が行儀が良いのではないかと思うことも一度ではない。
それでも私はこのお屋敷に勤められて本当に良かったと思っている。
本来ならとても採用されるはずもない家柄なのに、自分を奥様が気に入ってくれたのだ。
廊下を走ってた勢いを利用して壁を登れないかと挑戦していたニコラス様と床をハイハイしてどこへでも行こうとするフローラ様を両腕に抱えて子供部屋に運んでいたら、奥様がそれを見て「大らかで良い!はい、採用!」と即決してくださったのだ。
ちなみにニコラス様は三歳なので、自分では勢いをつけて壁を走り上がるつもりでも、トコトコ歩きと変わらない速さで到底壁を走れそうもなかったが。
その時、他の面接希望者の女性たちは貴族の中でもちゃんとした家のお嬢様育ちらしく「あらまあ」「どうしましょう」「汚れますわ」とオロオロしていたが、採用されてないのに手を出していいかどうか迷っていたようだ。まあ、あれが普通のような気もする。
奥様は可愛らしく優しくて朗らかで、何よりも旦那様にとても愛されている。そして少しだけ変わってらっしゃる。
旦那様は、すらりとした体躯の黒目黒髪の、それはまあたいそうな美丈夫だ。
この美丈夫の公爵様は商売もやり手なのだから天は三物も四物も一人に与える不公平な方なんだと今では確信している。
ニコラス様とフローラ様に湯あみをさせて着替えも終えて、今はご家族の夕食のお時間だ。
目を離すと手掴みで食べて大変なことになるフローラ様のお世話をしていたら、突然旦那様が少し声を大きくされた。こんなことは初めてだ。
「それだけはダメだよマリー。そんなことをしてマリーに何かあったらどうするつもりだ」
「あら、アレックス、計算上は何の問題もないのよ。実は何度か実験も済ませているの。五分の一サイズだったけど、レンガを乗せて、ちゃんと無事だったわ」
旦那様は「はぁぁぁぁぁ」と深くため息をついて片手で顔を覆っていらっしゃる。
「君はレンガではないんだよ。そんな高いところから落ちたら死んでしまうんだよ?」
「それが大丈夫なのよ。万が一墜落するハメになった時のための道具も一緒に考えてあるんだから。うふふ」
「うふふ、じゃないよ。とにかく絶対にダメだからね。わかったね!」
たいていの女性ならここでしょんぼりするか涙ぐむかするものだろうけれど、奥様は首を傾けヒョイと肩をすくめて(怒られちゃったわ)みたいに気にしてないご様子だ。
ご長男のハロルド様はこのご両親の会話がまるで聞こえなかったかのように「レイア、肉をもっと食べたいけど頼めるかい?」などとモグモグしながらお代わりの催促をなさる。
後ろに立っている他のメイドが素早く肉を取りに行った。坊ちゃんたちは皆そんな風に性格が良くて、私を頼りにしてくださるのが可愛いったらない。
それにしても、旦那様はどうしたのだろう。
「おとうさま、ボク、おはなししてもいいですか?」
今まで大人しくジャガイモを潰して肉のソースをかけた料理を食べていたニコラス様が口を開いた。
「ん?なんだいニコラス。お父様にお話かい?」
旦那様がとろけるような笑顔になってニコラス様の方にお顔を向けると、ニコラス様は小さなお口の中のジャガイモをごくんと飲み込んでから、まじめくさったお顔で話し出した。
「その実験、お母様が危なくてダメなら、ぼくがやってみたいです。ぼくならお母様より軽いから、墜落しても怪我は少ないと思うんです」
ああああ、ニコラス様、それは今一番言ってはいけない事のような気がしますよ?
私はニコラス様の発言を聞いて恐る恐る旦那様のお顔を盗み見した。