11 鳥の目
アレックスは教わった通り、球皮に取り付けられている排出弁の紐を引いて熱気を逃した。昇る時と同様に気球は優雅に下降して着地した。
「いやぁ、実に楽しかったよ!危険な感じはしないね」
「でしょう?でしょう?良かった!」
マリアンヌも笑顔になる。
「マリアンヌ、乗りたまえよ、早く早く!」
ピーターが催促する。
「ピーター、私の次は作業を手伝ってくれた彼らの番よ?」
「あぁ、そうか、そうだよね、ああもう、わかったから早くしてくれよマリアンヌ!」
ピーターはジタバタと足踏みせんばかりに焦っている。早く乗りたくて堪らないのだ。
カタリナはいつも穏やかで冷静沈着な夫の、子供のような有り様に目を見張っている。
(そんな面もあったのね。九年も一緒に暮らしていて初めて見たわ)
胸の中だけでつぶやいて微笑んでいる。
ゴーッ!と再びガスバーナーの音がして、減った熱気が補われていた。作業班は八本のロープを杭に巻きつけてフックにかけ、籠を地面に固定している。
マリアンヌが一人の作業員に何かを耳打ちして、作業員は(いいんですか?)と言うようにマリアンヌを見たが、マリアンヌが頷くとその男性も笑って頷く。
気球が上昇しすぎないように籠と大きな庭木を繋いであるロープは、素早く、そしてさりげなく長さを変えて結び直された。
「三、二、一、ゴー!」
熱気球が二度目の離陸をした。アレクサンドルが気がついた時には気球の籠は三階の高さを通り過ぎてあっという間に六階相当の高さに上昇していた。この国で一番高い建物である王宮の塔より高い位置だ。
「マリー!」
慌てて声をかけたが、マリアンヌは楽しげに夫に手を振ると、視線を遠くへと向けた。
公爵邸の庭木の向こうに農地が広がり、その向こうには森と川が見える。そのさらに向こう、遥か遠くには王都の街並み、その向こうにゆったりした貴族街と白い王宮が見える。
全てが小さなおもちゃの街みたいだ。
(静かだわ。音がしない)
馬車や自動走行機と違って気球は無音だった。無音の中に身を置いて、鳥のように高い場所から景色を眺める。
気持ち良さと解放感でマリアンヌは叫び出したいような、内側から込み上げる多幸感に軽く身震いした。
自分の計算では、この熱気球は雲の高さまで上昇出来る。しかしそこまで上がらなくても十分に満足できると思った。
(病みつきになりそう!)
ただひたすら気持ち良く楽しかった。
「おーい!そろそろ交代してくれよー!」
下から義兄のピーターが叫んでいる。
マリアンヌは手を振って了解の合図をした。
まだまだ乗っていたかったが、交代しなくちゃね。
熱気球は用意されていたガスをどんどん使って繰り返し何度も上昇と下降を繰り返した。目を輝かせた大人たちが交代で空の景色を楽しんだ。
ピーターはカタリナを誘い、二人で手を繋いで乗った。怖がるカタリナの肩を抱いて、「ヒャーッ!」とか「ヒョーッ!」とか騒々しく叫んで上品な妻を引かせていた。
降りて来たカタリナは
「マリアンヌ、一回浮かぶごとの経費を教えてくれる?」と何やら仕事に結びつけたいようだった。
マリアンヌは苦笑して
「お姉さま、経費は膨大なのよ。とても商売で利益を出せるとは思えないくらいにね」
と正直に言ったが、それでもカタリナは
「念のためにあとから教えて!」
と諦めなかった。
ピーターはそんな妻に
「君はこんな素晴らしいロマンも金貨に変えるつもりか!」
と咎めているが、結局はカタリナの言いなりになるに違いない。
マリアンヌは、今まで大人しく見学していたニコラスに声をかけた。
「ニコ、気球作りの人たちは全員乗ったわ。あなたはどうする?」
「いいの?僕もいいの?」
「怖くなければ私と一緒にどうかしら?」
「怖くない!乗りたいです!」
ニコラスが父を見ると、アレクサンドルも次男に向かって(乗っておいで)と頷いて見せた。
上昇する気球の籠の中で、ニコラスは跳ね飛びたいのを我慢していた。嬉しくて楽しくてジッとしているのが大変だった。
朝日が大地を照らし出している。はるか遠くの山が見える。自分は今、空を飛ぶ鳥の視線で景色を見ているんだ、と思った。
ニコラスはこの景色を死ぬまで忘れたくないと思った。
「ニコー!ニコラスー!どこにいるのー?」
「奥様、ニコラス様ならこちらです」
図書室から顔を出してレイアが返事をした。
そう言われて図書室に入ると、ニコラスは沢山の紙が撒き散らされた床にうずくまって、一心不乱に何かを描いていた。
「ニコ!なんで返事をしな……え?」
何冊もの開かれた本と一緒に床に散らばる紙には、精密な風景画のような絵地図が描かれていた。近くの物は大きく、遠くは小さく。
それは気球に乗って見た景色を再現したもので、平面的な普通の絵地図に比べて立体的で、鳥の視点なのが新鮮で目を奪われる。
「あらぁ、これはまた、すごいわねぇ」
隣で驚いているマリアンヌにやっと気づき、ニコラスは
「あれ?僕のこと呼んでましたか?」
と少し目の焦点がぼやけた様な顔で母を見上げた。
「あ、忙しいならいいのよ。私と一緒にお散歩でもどうかなって思っただけなの」
「ごめんなさいお母様。僕、これに絵の具で色を塗りたいからまた今度にします」
ニコラスはまた絵地図に目を向けると、次の瞬間にはもう、母の存在を忘れていた。
ブックマーク、評価、感想、誤字報告、どれもありがたいです。いつもありがとうございます。