10 離陸
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マリアンヌは大量の絹の布地を縫い合わせ、底の抜けた球の形にした。技術職の仲間と球体の内側にムラなく液体のゴムを塗り、熱気球の球体部分の『球皮』が出来上がった。
その後はマリアンヌと馴染みの技術者たちが「より軽くより強く」を目標に気球の改良を繰り返した。
そして今。
気球と籠を太い針金を編み込んだロープで繋ぎ、ガスボンベとバーナーと送風機を設置し終えた。
「できたわ」
「できましたね」
「あとは離陸するのみです」
「それなのだけど、やはりアレックスが最初に乗ると言って聞かないの」
「公爵様、ねぇ」
「公爵様に何かあったら気球の開発は終わりますね」
「あーもー!アレックスの心配屋め!」
「呼んだかい?」
「ひえっ、公爵様!」
「やだ、アレックス!」
アレックスが作業場の入り口に現れて作業員たちが姿勢を正した。
「そんな意地悪言わずにマリーの実験に私も参加させておくれよ」
「もう、アレックスったら。可愛い言い方が許されるのは十才までよ?」
マリアンヌは笑いながら夫に駆け寄る。
作業場の男たちは(この夫婦はいつまでたっても新婚気分だなぁ)と苦笑していた。
風が無く穏やかな日。
夜明け前の、外気が一番冷えてる時間を選んで気球が離陸することになっている。
マリアンヌと技術者たちは深夜過ぎから忙しく動いている。
「お姉さま達にも見てほしい」と言うマリアンヌの希望で、カタリナが夫のピーターを伴って前日から公爵家に泊まっていた。
二人は詳しいことは何も聞かされず、「楽しみにしていてね」とだけ聞かされている。
「マリーは一体何を見せるつもりかしらね」
「マリアンヌがわざわざ僕たちを呼ぶんだ、すごいものが見られる気がするよ」
カタリナの夫のピーターは以前は隣国ホランドで自動走行機の販売責任者をしていた人で、発明や乗り物と言う言葉に目がない。
「僕は知ってるけど内緒って言われてるの」
ニコラスが笑顔だ。
「ニコはちゃんと起きたのね。ハロルドはどうしたの?」
「なかなか起きない。寝てる」
三人のところへ乗馬服姿のアレクサンドルが歩いて来た。
「アレクサンドル様、勿体ぶらないで何がお披露目されるのか、いい加減教えてくださいませ」
「それは見てのお楽しみさ」
「もうっ!」
公爵家の広い馬場。
マリアンヌの合図でガスバーナーが点火された。ボッ!ゴゴーッ!と響く音、赤く眩しい炎。
ガスバーナーの炎は、絹の球皮に着火しないよう調節され、金属の回転羽が熱風を球体部分に送り込んでいる。
地面に広げられていたクタクタした白い絹布が少しずつ少しずつ膨らんでいった。
「ええっ!もしかして?」
ピーターが驚いて叫ぶ。
「ちょっとあなた、どうしたの?」
カタリナが驚いて夫の腕に手をかけて尋ねると、ピーターは興奮して喋る。
「カタリナ、これは夢の乗り物さ!くそぉ!やられた!マリアンヌはこんなことを考えていたのか!」
「よくわからないけど、そんなに興奮する物なら来てよかったわね」
カタリナは夫がなぜ興奮しているのか、まだわかっていない。
モコモコに着膨れさせられているニコラスはどんな場面も見逃すものかと馬場の柵にしがみついていた。
やがて熱気を飲み込んだ絹の球皮がゆらり、と動いて頭を持ち上げた。
球皮は少しずつ少しずつ布の中の体積を増やし、だんだん丸みを帯びてくる。
「こんな遠くじゃダメだ!」
ついにピーターは我慢できなくなって柵を乗り越え、気球の方へと走っていった。
ニコラスは気球にも母にも見とれていた。
真っ赤な炎に照らされて、ひとつに縛られた母の金髪は赤くキラキラと光り、引き締められた顔で周りの男たちに指示を出したり記録係に報告したりしている。
ニコラスはそんな母の姿が誇らしい。
東の空が紺色からグレーに色を変える頃、パンパンに膨らんだ巨大な球体が馬場に立ち上がり、アレクサンドルがヒラリと籠に乗り込んだ。
「え?アレクサンドル様?」
驚くカタリナを見てニコラスが笑う。
「うん!お父様が一番に乗るの!」
「いつでもいいぞ!」
アレックスがやや緊張した顔で告げる。
「三、二、一、行けー!」
作業メンバーの声で籠を地面に留めていた八本のロープが一斉にフックから解放された。
ふわり。
熱気球は静かに離陸した。
マリアンヌは心配と喜びの混じり合った顔で見上げていた。作業に関わっていた男たちが晴れやかな顔で笑う。歓声をあげる者もいる。
「なんて優雅で美しい乗り物なのかしら」
「うん。すごくきれいだ」
カタリナは興奮してニコラスの手を握ったままブンブンと腕を振った。ニコラスは腕を振られながらも、片時も目を離さずに美しい気球を見上げていた。
気球は地面に縫いとめられていたのとは違うひときわ太いロープによって馬場の脇に生えている木と結ばれている。
やがてその太いロープがピンと張り、建物の三階ほどの高さで気球は静止した。
「マリアンヌ、ねえマリー、次は誰が乗るんです?」
ピーターがワクワクした顔で尋ねた。次は自分が、と言いたいのだ。
「あらピーター、もちろん次は私よ!」
少女のように顔を輝かせたマリアンヌがツンと顎を上げて義兄に宣言した。