↑これ、面白いですよ
私は、馬鹿が嫌いだ。
能無しででくのぼうで、そのくせそれに気付けない。
そんな馬鹿が、本当に大嫌いだ。
『↑これ、面白いですよ』
それ故、私は激怒した。
なんの気なしに立ち寄った小さな書店の片隅の、その馬鹿丸出しのポップに私は殺意すら抱いたのである。
――誰が書いた。
煮え滾る怒りを必死に抑え、私は作者を探すべくただ静かに辺りを睨めつける。
だがそんなことをした所で、せっせと働く従業員達の中の誰が犯人かなど、名探偵でも名警部でも無い私に見抜ける筈も無かった。
とは言え、だ。一方で流石に彼らひとりひとりを問い詰め犯人を探すというのもまた、もうすぐ喜寿を迎えんとする私の老体にはなかなか酷な話である。
ならば、残る手段は一つしかない。
直接、このポップを引き裂けばいいのだ。
そう脳が結論を出した時には既に、私の足は硬い音を立てながら一歩大きく踏み出していた。
過激であるのは認めよう。だがその手抜きとしか思えない売り文句の存在は、それ程までに無礼であった。書籍とそれに関わった人間への、そして何よりそれを読む立場である私達客に対する、最大級の侮辱であったのだ。
……しかし、決意の一歩からきっかり三十秒。それだけ経った今もポップは、私の目の前で例の文句を掲げていた。
裂けなかった。いや、裂かなかった。裂く気など、微塵も残らず消え失せてしまった。
それは店員に阻まれた訳でも、直前になって日和った訳でもない。ましてや良心の呵責など、そんなご大層な理由の筈もない。もっと単純至極、ほんの些細な理由だ。
ポップの字が、恐ろしく達筆だったのである。
遠目にはコピーに見えていた。それ程までに完璧な文字であった。
勿論、字の巧拙と書き手の教養が比例するとは限らない。だが私は、この見事な字が愚鈍な人間によるものとは認めたくなかった。
自然、気付いた頃には私はその棚の前で腕を組み、数秒前まで親の仇のように嫌悪していた存在を正当化する為に別の可能性を模索し始めていた。
――たとえばこれ以外に書きようが無かったケース、なんていうのはどうだ。もしもそうであるならば、ポップが無礼であるのには変わりはなくともかなり情状酌量の余地があるだろう。
愚かなのがポップの主ではなく、書き手であった場合だ。凡庸な人間が仮に全力を尽くしたとしても、それが人の心を響かすものになるとは限らない。まぁそんな作品でも運次第で世に出ていけるのだから、世間様というのは兎角不思議なものなのだが。
……話が逸れた。
要はポップの主はこれを読んだもののどうにも褒め言葉が見つからず、それでも四苦八苦しながら売り文句を考えた結果『↑これ、面白いですよ』という当たり障りのない言葉に着地した、とそんな流れだ。
こんなに皮肉な話があるだろうか。
「面白い」というポップの表現それ自体が、この作品がいかに「つまらない」作品であるかを体現しているのだ。なんとも逆説的で、撞着語法のお手本ともいえよう。
尤もそんな形でお手本にされても、著者はたまったものではないだろうが。
――或いは、こうやって私のような人間に興味を向かせること自体がポップの狙いなのかもしれない。
だとすれば今度はそれそのものが「面白い」話になってくる。それに感情を突き動かされた時点で私は既に罠にかかった愚か者であり、ポップの本懐はとっくに遂げられていたということなのだから。
不思議なものだ。考えひとつ変わっただけで、今度はあのポップが輝いてすら見えてきた。
知りたい。
答え合わせを、したい。
ポップの主は結局、一体どういうつもりでこれを書いたのだろう。本当に、ただつまらなかっただけなのか。それとも……。
平積みにも関わらず帯すら付いていない、大変簡素な印象を受けるその本を手に取った私はそこでようやく題を確認した。
『贈り物』
成程、簡素に感じたのも当然だ。真っ白な表紙に黒い字でただ、それだけである。
デザインだけではない。タイトルそのものもまた、捻りも何もない安直なもので。このポップが無ければ手に取ることなど絶対になかっただろうが、しかし今ではその飾り気の無さに親近感すら覚えている自分が居る。
――この本に、どんな感想を抱くのだろうか。
ふと、私はポップだけではなく本そのものにも期待を抱いていることに気付いた。希望は絶望の種と決めつけ、何十年も感じることの無かったその高揚感からは、懐かしさすら感じられた。
この本ならば、奇妙としか言い様のないこんな出会いをしたこの本ならば。きっと私の枯れかけた心にも一滴の水を落としてくれるに違いない。
いつの間にか、すっかり私はそう信じこんでしまっていた。
その思いが後に圧し折られることなど、露知らず。
どうして、私は予測できなかった。違和感に気付けなかった。
……違う、逆だ。私だからこそ、気付ける筈など無かったのだ。タイトル、書き出し。それら全てがただの偶然の一致だと、私は無意識に切り捨てていたのだから。
しかし、同時に私しか気付くことが出来なかったのも事実である。そして、私にしか予測することは出来なかった。
何故なら、これは。
この作品は、私が書いたものなのだから。
……嘘だ。気の所為だ。頼む。そうであってくれ。
心の中で確信しながらも、しかし同時に心の底から次の文字が、次に紡がれる台詞が違っていることを願いつつ文章を追う。だが、その祈りはいとも簡単に潰されていった。
気が付けば、私の指は既に最後のページを捲り終えてしまっていた。瞬間全身の水分が汗となり、勢い良く吹き出したような感覚に襲われる。
そんな動揺に釣られて、心の奥底に鍵をかけて閉じ込めていた忌々しい記憶が、浅学非才の身の上で愚かにも物書きを目指したあの頃の記憶が、鍵穴からじんわりと染み出すように流れ出し始めた。
**
私は、かつて誰よりも大馬鹿者だった。
自分の実力を過信していくつもの作品を書き、選考に応募しては何度も落選した。それでも次は報われると、根拠も無くそう信じて書き続けた。しまいには作品に時間を費やす為に仕事を辞め、口を糊するために借金を抱え込んだ。
「これで、最後だ」
そんな馬鹿な生活を、五年程続けただろうか。
落選に落選を重ねようやく自分の凡才さに気付き始めた頃、ある日私は突拍子もなく鏡の自分に向けてそう言い放った。多分、大馬鹿なりのけじめのつもりだったのだろうと今では思う。
尤も、その最終宣告を前にしても不摂生な生活を重ねてやつれ果てた鏡の私はまだ、自信に満ち溢れた表情を浮かべていたのだが。
まぁ、結果は言うまでもない。
その日の私は、大いに荒れた。荒れに荒れて、酒に喉を焼きながらひとしきり泣いた後、その駄作を二度と目に入らぬようこの世から消し去った。
**
……そう。あの時、間違いなく消し去ったのだ。
細切れにして、便所に叩き込んで、そうして私はもう二度とこの駄作を読むことは無い筈だった。なのに、何故。何故これが、こんな所にある。
――気持ち悪い。
焦点が合わなくなると同時に体の力が抜け、私はその場に膝から崩れ落ちる。まだ嘔吐しなかっただけマシだと、本気でそう思えるくらいに悪寒が全身を駆け巡っていた。
自分の作品が、ご丁寧にポップまで付けられて本屋の棚に並んでいる。皮肉な事に過去の私が願って止まなかったその光景は今、最高に受け入れたくない現実となって目の前に存在しているのだ。
混乱による思考の濁流に意識を飲まれそうになる中、私は半ば本能的にその棚から目を逸らした。自然私の目は逃げた先で、別の物体を捕捉する。
――最初に視界へ飛び込んで来たのは、年季の入った茶褐色のエプロンであった。
次いで深緑のシャツ。そこからロングの黒髪、白磁の肌、紅い唇、銀縁眼鏡と長い色彩の旅を経て、最後に辿り着くのは紺青色の瞳。正しく絵に書いたような美女が、そこに立っていたのである。
彼女がここの書店員だと気付くには、さほど時間はかからなかった。大方、具合でも悪くなったのかと心配して近寄って来たのであろう。
その光景に私は安堵していた。彼女の存在そのものが、混乱により壊れかけていた私の自我を支えてくれているようにすら感じていた。
心の底から安堵して、そして。
そして同時に、油断していた。
「どうです? 面白かったでしょう、貴方の最高の駄作は」
驚愕。絶句。戦慄。いや、どれも足りない。一体どんな言葉ならば、この感情を形容し尽くせるのだろうか。
ふわりとした微笑みから放たれた、一筋の衝撃。それは私の緩み切った心を貫くには充分な威力であった。
焦燥に乾き切った口は、もはやまともに声を出すことすらままならない。ただパクパクと酸欠の金魚よろしく間抜けに口を動かす私を前に、女店員はただゆっくりと真っ白な人差し指を伸ばした。
「さて、ここで問題です。ででん」
笑顔を一切崩すことなく、彼女はまるで年端も行かぬ子供のような口調で私に語り掛ける。
しかしその微笑がもたらしてくれるのは、先程のような安堵ではない。
「私は一体、何者でしょうか?」
純然たる、底なし沼の如き恐怖であった。