130人の子供達
えー、人生、山あり谷ありなんて言いますが、実のところ、人生と言うものは先の見えない洞窟のようでございまして、例えばコッペンの岩山に飲み込まれた子供たちは二度と帰ってこなかったわけで御座います。
「では、弊社への志望動機を教えて下さい」
「はい、私は……」
長い冬が終わりを迎える2月の末、黒いスーツの集団は未だ取り残された焦りと共に、自らに課した拘束を解き放ったのでございます。
つい先日まであれこれと、ボールペンで色々を塗り潰していた同胞たちは首尾よく「幾つかあった」第一志望に入社したわけで御座いますが、彼はこの体たらく。新調したスーツも随分くたびれておりました。
15分ほどの面接では、良く暗記した志望動機と共に、自らの良いところ、悪いところなど聞かれまして、幾度となく繰り返した事をこれまた繰り返したわけで御座います。
そして、社長面談において、「幾つかあった」第一志望を一つ増やして、彼も何とかくたびれたスーツを休ませることが出来たのでございます。
4月1日には、彼は同じスーツを少しばかり整えて、良く磨かれた革靴を鳴らして、入社式会場に赴きます。
彼は大層驚いた、会場には自分と同じような境遇の人が130人おりまして、まぁ、それはそれは凄まじい賑わいだったのですね。
「あぁ、良かった。俺一人じゃあなかった」そんな事を柄にもなく思い胸をなでおろし、彼は髪を短くした同じ年頃の新入社員の隣に座ったのでございます。
会場は旅立ちの日に相応しい、煌々とした電気と、荘厳な社是、社訓とを映したモニタがございまして。日頃ハンカチを持ち歩かない彼は、少しばかり眩しいなと目をタオルで覆ったのです。
入社式が始まるとすぐに社是・社訓の唱和がありまして、まぁ、彼は一つ大きな声だけは出せたので、威勢よくこれを唱えたわけで御座います。彼の採用担当がさり気なく彼にあ親指を立てたので、彼ははにかみつつも少々頬を赤らめたのです。
一連の長ったらしいご挨拶のあと、彼らは配属先の辞令を受け取りました。彼は、やはり営業部と言う事でして、まぁ、予想通りと再び辞令を仕舞ったのでございます。
さて、彼は自宅に戻ると、直ぐにパソコンを開きます。するとどうでしょう、転職サイトが開かれているではありませんか?彼は画面を見ながら、少しでも良い会社をお気に入りに入れていきます。彼は2月の末まで続く活動に疲弊していたにもかかわらず、未だこれから始まる生活が不安でたまらないのです。
新緑の季節まで、「新天地」への旅を続ける、彼の物語ですが、その結末を皆様はお聞きになる覚悟が出来ていますでしょうか?
……よろしい。では、続けましょう。まず、日本の新入社員と言うものは非常にナイーブになりやすい体質を持っておりまして……と言うのも、彼らは第一に好む好まざるに関わらず仕事を始め、第二に主たる業務以外の雑務に追われながら精神をすり減らし、第三に、多くの仕事に振り回されつつ、お客様や上長に怒られる、というのが大体の流れで御座いまして、新天地への旅もそうした城壁に阻まれる事が多いのです。身分のはっきりした社会と言うのは対立する事が容易いのでしょうが、こと平等な社会と言うのはそううまくも行きません。そこで彼らは仕事をしながら新天地を探し、新天地の接ぎの新天地を探し……と、次々に仕事を取り替えるのです。彼も何とか仕事をしながら次の職を探していたようですが、いよいよもって仕事が見つからぬと分かると、今度は掲示板などを漁りながら仕事の愚痴を纏めて吐きつけるのです。吐いた後に返事が来る、と言うのは心地いいものですね。匿名で自分の顔も見えないので、仕事の鬱憤を晴らすにはちょうどいい。
しかし、彼がある朝出社すると、何やら職場が騒がしい。コンピュータの前に集まっている人に声をかけると、その方は親切にも「掲示板で自社の機密事項がかかれているらしい」と教えてくれたのです。彼はそんな事もあるのか、と画面をのぞき込みます。すると仰天、自分の見ていた掲示板ではありませんか。彼は慌てて問題の投稿の内容を確認します。
どうやら自分のものではないらしい、と安堵したのですが、次の瞬間に背筋が凍り付いたのです。
なぜこの掲示板を、この会社の人が知っているのか?
はじめに気付いていればよかったのですが、この掲示板には、この会社に入社した人、転職した人がたまたま集まっていたのです。勿論、知るよしのない彼は不安になります。「俺の投稿はばれていないよな……?」と。
勿論匿名ですし、彼は個人の特定をされないために「名無しさん」のデフォルト名を利用していますから、個人名などを出さなければ余程問題はありません。彼自身、そこには絶対の自信がありました。
「いいから仕事始めるぞ」
彼らは課長の声で解散しました。酷く不安になったので、彼はどうしようもないほど汗をかき、そのたびに、ハンカチを濡らしました。一日の仕事が終わると、彼は急いで家に戻り、転職サイトを開きます。
時間は十一時頃だったでしょうか?それから一時間ほどサイトを閲覧して回り、さて、様子を見に行くか、と掲示板を開くと、掲示板は彼の会社の悪口で一杯になっており、罵声が罵声を呼び、酷く荒廃しておりました。殺伐とした雰囲気の中、恐る恐る最新のコメントを見ると、「129人で会社を潰そう」と言うものが現れたのです。あまりの驚愕に、彼は思わず、「巻き込むな」と答えてしまいました。後になって、彼はさっと血の気が引く思いがしたのです。新入社員全員がこの場所で会社を罵声しているとしたら、巻き込むなと言った人物が分かるのではないか?と彼は掲示板サイトの運営にこのスレッドをまるまる一つ、「報告」をしたのです。それは夜分までかかり、やがて掲示板の稼働は中止されました。
その日から半年後、新入社員は彼が気づくと半分 になっていました。やがて一年たてば全員いなくなるのかもしれませんね。
え?彼が転職できたのかって?……それはもう、130人も同時に中途採用できる会社は御座いませんので。




