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東へ、東へ!

 キリスト生誕後の1284年、ハーメルンの町から連れ去られた

 それは当市生まれの130人の子供たち

 笛吹き男に導かれ、コッペンで消え失せた


 市参事会堂に刻まれた文章の、その大本を辿るには、険しい茨の道を探らなければならないだろう。何故なら、1284年、当時のハーメルンの庶民の多くはラテン語を書く事は出来ず、口頭によってこれらの出来事を伝えたからである。


 さて、そんな1284年当時に生きる、カールなる青年も例に漏れず文字を書く事が叶わなかった一人である。カールは手工業を営む組合(ツンフト)の子弟で、最早この町では立身出世は望めない事を悟っていた。

 彼がいつもの通り、親方と肩を並べて仕事に精を出していると、祝日の近い事をいいことに、浮足立った人々が派手な見た目の楽師の笛の音に従って、細い通りを歩いていく姿を目にした。

 カールは皮なめしの手を止められずに、暫し身を乗り出す事で彼らの姿を追いかけていたが、視界に彼らが映るのはほんの一瞬であって、カールは直ぐに手元の作業に集中する事が出来た。


「お前もそろそろいい年じゃあないか、結婚は考えていないのかい?」


 突如親方はカールに訊ねる。革から毛を削ぎ落としていた彼は不意を突かれて作業の手を止めてしまい、親方に手を打たれる。彼は急ぎ作業を再開したが、赤くなった手先を眺める間中、先程の言葉が頭から離れなくなってしまった。


「いい人はいるんです……。しかし僕には荷が重くて……」


 カールの心境は宛ら鼠に満たされた穀物庫である。現在も彼の暮らしは裕福ではなく、そして多くの職人を擁するツンフトではとても出世は望めない、そんな中でもし結婚などしようものなら、やれ結婚税を払え、やれ洗礼を施せ、やれ子供を養えと、続けざまに出費がかさむ。森と農地に囲まれた、ハーメルンの町では、とてもではないが良い縁を結ぶ事は出来なかった。


 カールが意気消沈した様子で毛を削ぎ落としている間、親方は静かに町の中心にある石造りの立派な家々の方に視線を向ける。そちらには市場同様に活気にあふれた声が響くうえ、エールやビールのにおいも溢れていた。

 陰気に皮を鞣すカールの丸まった背中を、親方は無言でどしん、と叩く。またしてもやらかしてしまったのかと、カールは身をびくつかせた。前方の大通りには、結婚式を挙げる集団が仲睦まじげに進んでいる。多くの男女が手を絡ませ、荘厳な修道士の後を追いかけて、足並みを揃えて向かう。そこに続くのは結婚の後見人たちで、やはり感涙に咽んで道を歩くのであった。


「お前にも、近いうちにいい事あるだろうさ」


 親方がそう言うと、削ぎ落とした肉の欠片を通りの端に放った。そこに丁度豚が群れ成して歩み寄り、においを嗅いでいる。集団結婚の行列は遥か彼方に消え、カールは羨望に満ちた、しかし澱んだ瞳で豚共の愉しみを眺めながら唾液を飲み込むのだった。



 6月25日の夜、消灯の時間ぎりぎりまで、カールは藁を敷いた上でぼんやりと空を眺めていた。6月24日のヨハネの祝日より執り行われた集団結婚式は終わり、若い人々は自分と運命を共にする人と約束の一夜を過ごしている。そんな中、カールは一人祝祭に乗り遅れたような焦燥感に駆られていた。足並みを揃えて進む社会は今しがた消された獣脂の蝋燭の様に足が速く、生まれ、育ちといった荷車に詰め込まれた自分はこうして惨めにすし詰めの部屋で藁束を掴んでいる。このままでは手を革のにおいに汚し続ける惨めな暮らしが続くに違いないのだ。


 蝋燭の残り香が歪な軌道を描きながら彼の鼻を襲う。惨めな回想を繰り返す事をやめようと、深呼吸をして瞳を閉じる。その時、視界の端に、奇妙な笛吹き男の姿があった。


 カールは奇妙に感じて再び開眼する。その笛吹き男の服装は、確かに奇妙であった。その察するに、この遍歴楽師は上等の服を着る事の出来る出身者で長髪の美しい男であった。自分と変わりない服装で、短髪の通常の遍歴楽師とは確かに違うらしい。楽し気に笛吹く様々な染色の服の襞には何か重要な事が隠されているに違いなかった。何故なら、集団結婚に赴く人々の中には金持ちでないものの方が多いからだ。


 カールは眠れずに身を起こす。彼方此方から、自分よりいくらか年上の男達の寝息が聞こえる。巨大ないびきを鼻に詰まらされるもの、寝息は静かなのにごろごろと寝返りをうつ者、様々だった。しかし一貫して服はほつれだらけで、上等の革を鞣す者ほど、煙たく、焦げたような跡が広がっているのだ。

 改めて自分の服を見る。確かにほつれ塗れだがその男ほど惨めは風ではない。また、敷いた藁もまだかさかさと音を立てているし、馬小屋のそれのようにしっとりと濡れているわけでもない。

 そのまま脳裏で様々な思いに逡巡した。このままこの場所に留まる事と、この場所と別れて……つまりは自分の自由な身分を捨てて、そして恩義に報いる事を諦めて……解き放たれることと、いずれかを選択しなければならなかった。そのまま夜半課が鳴り響く。自然と藁の上に汗が落ちる。


 夜が明ける。間もなく一時課の鐘が響くだろうか。

 カールは居ても立ってもいられなくなり、身を起こして部屋を飛び出した。一枚の薄い壁で仕切られたなめし皮の工房を抜け、親方の商売道具を動かさないように慎重に、大股に歩き、扉の閂を抜いた。そして、戸を開く。寸でのところで野盗の恐れを思い出した彼は、ここまで食わせてくれた親方に忍びないと思い、せめて扉を開かぬように閂が閉じるように細工を施す。一旦扉を開き、閂を布で巻く。ばれようとばれまいと構う事は無いので、出来るだけきつく縛り、一旦扉を閉ざす。そのまま布を引き、閂が完全に扉を塞ぐまで動かした。


 布を手から離す。ひらひらと街路の下に落ち、扉の向こうへと続いている。カールは屈みこんで強引に布を引き裂き、扉の方を向いたままで一歩ずつ離れていく。6月の風が生温く纏わりつく。その小さな工房は、いつも自分を風雨から守ってくれていた、平和領域だった。カールは静かに頭を下げ、先がほつれた布を丸めて懐に仕舞う。人気のない街路を駆け抜け、細い街路を目指した。


 やはりそこには、結ばれた男女が屯していた。件の笛吹き男もいる。男女はカールを見つめて驚愕したが、笛吹き男の一声で場は静まり返った。

 壁と壁が迫り来るような道を、笛吹き男がゆっくりと下る。やはり上等な服を着て、何処にいても見つけられそうな奇妙な帽子までかぶっていた。


「君も新天地を目指すのか?」


「そこに行けば、結婚できますか?」


「貧しさに飢えることは無いか?結婚税や出産税に、頭を悩ますことは無いですか?」


 笛吹き男はカールに肩を回す。男の割には線の細い腕が彼の首に体重をかける。


「君からはなめし皮のにおいがする。丁度職人が足りなかったのさ。さぁ、乳と蜜の流れる地を目指そう」


 幸福の絶頂にある男女たちが頷く。彼らはカールと同じように惨めな服を着て、埃や土に手を汚していた。


 朝課の鐘が鳴り響く。「乳と蜜の流れる地」から、太陽が昇り切る。笛吹き男はカールから手を離すと、愉快に踊るように男女の間を抜けて、笛を取り出した。


「さぁ、向かおう!新しい運命が、君達を待っている!」


「「東へ!東へ!」」


 幾つもの声が歌となって重なる。笛吹き男は笛を鳴らしながら、彼らを城門の前へ導く。多くの人々が騒動に気付き、窓を開いたり、男女の衣服を掴もうとした。しかし、朝課の祈りは騒ぎ立つ人々を宥める術を持たなかった。東へ向かう一団は、市の門を抜け、道を独占し、丘と水車の旧市街を抜け、ハーメルン市の境界へと至った。


 集団を追いかけて来た人々が声を上げる。戻れ、行くな、悲痛な叫びの数々だ。

 その中には、カールのよく知る声もあった。カールは笛の音を前に一旦立ち止まり、集団の中にいる親方を見据えた。そして、天にも届く景気の良い、笛にも勝る大きな声で、彼らに向けて叫んだ。


「どうか悲しまないでください!私達は未来へ向かう!この大小の棟がひしめき合う、ハーメルンの都市を抜け!東は主の眠る場所に近づく、故に太陽が昇るのだから!」


 カールは両手を振るって別れを告げる。狭く苦しい都市を越え、司教のおわす約束の地へ、その新たなる地へ向かう為に。


 語り継がれる伝承は、時に形を変えていく。もしハーメルンのこの土地に、幸福のない人々がいたのならば、彼らが東の地(カナン)を目指すのも無理はない。1284年6月26日、ヨハネとパウロの祝日に、ハーメルン生まれの人々、130人が列をなし、後にはカルワリオの小聖堂が建つ市の境界の向こうへと、消えていった。


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