入院万歳
ちょっとした悪運で脚を折って入院している、和田さんの話。
ふと夜中に目が覚めた。
別に何が気になるというわけでもない。傷が痛むわけでもない。どうしてだか、目が冴えてしまったのだ。しばらくモゾモゾしていたが、どうにも寝付けない。
トイレにでも行けば、眠れるだろうか。
同室の患者を起こさないよう、そっとベッドを抜け出す。照明を落とした院内は薄暗く、ぼんやりと緑の非常灯だけが、別世界のように廊下を照らしていた。
当然だが、しんと静まり返って物音一つしない。時刻は深夜三時。みんな眠っているのだ。なんだか疎外感を憶える。どうしてこんな時間に目が覚めてしまったんだろう。帰りにナースステーションに寄って、睡眠薬でも貰おうかな。
考えながら、廊下を歩いていたときだった。
奇妙な集団が目に入って、和田さんは歩みを止めた。
ある病室の前に、大勢の人間が集まっている。
自分と同じ寝間着だから、この病院の患者達だろう。老人が多かったが、中には中年も主婦らしき女性も、若い男もいる。僅かに子供も交じっている。性別は半々くらいだったが若干、男性の方が多い気がした。
会話はない。誰も彼も無表情で、ただ病室を見つめて立っている。
病室番号は311号室。ごく一般的な四人部屋だ。集中治療室でもなんでもない。無論、特別な処置を施す部屋でもない。
……なんだ?
よく観察すれば、病室の前に集まっているのではなかった。
溢れているのだ。
室内から、満員電車の気配がする。あの、人間が身動きも取れないほど密集し、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた息苦しさ。同じ閉塞感が、病室内に満ちていた。廊下の患者達は、つまり室内に収まりきらなかった分なのだ。
こんな夜中に、こんな大勢が、何をしている?
この病室に用があるのか? それとも、中の誰かに?
だとしても、この状況はどういうことだ。
見舞いでもあるまいし。
困惑した和田さんは、戻ることも進むこともできず、じっと物陰から彼等の様子を窺っていた。
ふと誰かが両手を挙げた。
それが合図だったかのように、他の患者達が、我も我もと両手を振り仰ぐ。
何をする気だ、と身構えたのは一瞬だった。
バンザーイ。バンザーイ。バンザーイ。
感情のない、文字を読むような声だった。
それでいて明瞭な、誰一人として乱れぬ挙動だった。
――万歳だ。
彼等は、万歳を始めたのだ。
驚くというより、呆気に取られた。意味がわからない。何が万歳なんだ。何故、今この時間に。この場所なんだ。
しばらく呆然と眺めていた和田さんは、あることに気付いて背筋が寒くなった。
あれだけ密集しているのに、全員が万歳をしている。
できるわけがないのだ。前後左右みっちり人が詰まっている。そんな状態で両手を挙げれば、必ず誰かにぶつかってしまうではないか。「前へ倣え」すら無茶だ。できないはずだった。にも拘わらず、彼等は……。
バンザーイ。バンザーイ。バンザーイ。
バンザアァアーィ。
バァアアンザーーーイ。
仄暗い院内に、万歳の声が響き渡る。
おかしい。
こんなに騒いでいて、どうして誰も来ないんだ?
看護師のみならず、当の病室の患者達でさえ。起きてこないなんて。
怖ろしくなった和田さんは、不慣れな松葉杖を必死に操って、その場を去った。
病室に戻ってからも、あの不気味な光景が忘れられない。
あれはなんだったんだ。生気のない面持ちで、一心不乱に万歳を唱える患者達。あまりにも異様だった。なんてものを見てしまったんだろう。何かのイベント? そんなバカな。
悶々と寝返りを打っていると、不意に病室の外が騒がしくなった。
「……はい、そうです。先生呼んでください。311号室。容態が急変して……」
続いて、パタパタと廊下を駆けてゆく足音。無論、和田さんに語りかけたわけではない。廊下側にベッドがあるため、普段でもこういうことはあるのだ。ましてや深夜である。気を付けてはいるのだろうが、看護師の緊迫した声は、寝静まった闇によく通った。
何かあったらしい。
しかも311号室といえば、さっきの万歳の病室じゃないか。
ただならぬ予感がして、和田さんは、じっと耳を澄ませていた。
騒ぎで起き出した人達が、野次馬に行ったのだろう。何人かが病室を抜け出し、歩き回る気配もした。
しばらくして、再び数人の看護師が廊下を駆けていった。
後に、幾つかの足音が続く。
「森本さん、駄目だったみたいよ」
「可哀想ね……昨日談話室で会ったのよ」
「そんなに悪かったのかしら?」
「いいえ。もうすぐ退院だって笑ってたわ」
「寝てたら急に苦しみだしたんですって」
「あっという間だったんでしょう? 怖いわねぇ」
和田さんは察して、驚愕した。
死んだのか。
あの病室の患者。
ベッドに横になって考える。先程の出来事が、頭の中をグルグル回った。緑色の薄明かり。大勢の患者。陰鬱な表情。繰り返される万歳。
……あれはきっと、生きている人間ではなかったのだ。
よくある怪談ではないか。怨恨か通り魔か知らないが、311号室の患者を連れて行ってしまった。おそらく彼等は此の世に未練のある霊か何かで、あの患者は運悪く目を付けられたのだ。そういうこと、なんだろう。
和田さんはゾッとした。
けれど同時に、どこか自分が高揚していることにも気付いた。
霊だ。初めて幽霊を見たぞ。友人達に話してやろう。SNSにもアップしよう。バズるかもしれないな。飲み会のネタもできた。この時期だ。ウケるぞ。なかなか面白い経験をした。
どうせ死んだのは赤の他人だし、自分は病院関係者でもない。さほど哀悼の心はなかった。誰だったっけ。森本? 運が悪かったんだな。
一時の恐怖が去れば、珍しい現象を目撃してラッキーという、満足にも似た感覚さえ憶えた。
そうしてすっかり得をした気分になると、眠くなった和田さんは、いつしか浅い眠りに落ちていった。
ふと、目が覚めた。
少しばかりウトウトした気がする。
またか、とウンザリした。今夜はバカに寝苦しいな。
寝返りついでに、水でも飲もうと思って、冷蔵庫に手を伸ばした。
伸ばそうとした。
誰かが、ベッドの傍に立っていた。
一人や二人ではなかった。五人……いや十人? 二十人?
違う! もっとたくさん!
跳ね起きた和田さんは、あまりのことに絶句した。
おびただしい数の患者達がベッドを取り囲み、じっと此方を見つめていた。
いったい何人いるのか。男も女も、若いのも年寄りもいる。僅かだが、子供も。病室は彼等で満ちていた。まるで満員電車だ。入りきらなかった分だろう。扉の外まで人間が溢れていた。
居並ぶ眼はどれも虚ろで、なんの感情も読み取れない。
けれどわかる。
その全員と、目が合っていた。
これにしようか。
誰かが、ぽつりと言った。
落ちているものを拾うみたいに、感情のない声だった。
和田さんの身体は動かない。全身血の気が引いて、頭の芯から思考が抜けてゆくようだった。あぁ病室の常夜灯は、こんなにも緑色だったろうか。薄れてゆく意識の片隅で、和田さんは、何故だかそんなことを考えていた。
そうして彼等は、おもむろに両手を振り仰いで……。
バアアアアァンザアアアァァァァアァアアアーーーーーーーーーーーイ。
了