5話 『兄妹』
翔は無駄に長い廊下を歩いている。
特に変哲も無い木造りの廊下を歩いていると何も感情がこもっていない瞳に、無駄に広い庭園が自然と映る。そこに植えられている立派なソメンヨシノの木が枝先を膨らませ、開花時期を今か今かと待っているように見える。
それを見て今日一日、いや半日で色々な事があって精神的に疲れている翔の瞳に光が戻る。
「そういえば、ここに来た時もこの時期だっけな」
そう思うと、感慨深い。
「でも、あの時は桜が舞ってたから――もう少し先だったか」
今翔が向かっている先――柚季の部屋は、翔の部屋の隣にある。翔の物置部屋と比べると、奴隷とVIPクラスに格が違う部屋に思わず涙が出そうになる。ある事で怒らせてしまった玲奈に物置部屋に押し込まれて以来、自分の生活拠点はあそこと化してしまった。
「まぁ、今となっては居心地いいんだけどな……」
酷く狭い、雀が巣を作るぐらいのボロ屋と等しいあの部屋に訳の分からない情が移ってしまっている自分に呆れや、悲しみが込み上げてくる。今現在でも、木の扉は外れたまま部屋の壁に立て掛けられている。
久しぶりに数日後には出ていくであろう屋敷をじっくりと見て、一人で色々と気持ちの整理をしている内に、柚季の部屋の前まで辿り着く。
「お兄ちゃんとして、妹の世話はしないとな」
翔は自分の普段の行いを棚に上げて、呟く。今は自分が妹に世話をされている側だけど、今回は自分の出番だ。
「お前もそろそろ気持ちの整理が必要だな」
そして翔は、両手で障子の左右に付いている引手に手を掛ける。何を思ったか、障子が外れそうな勢いで開き、威勢よく気持ち悪いと思う程満面の笑みで部屋に突入する。
「柚季ッ!!いるかーッ!!」
「お、お兄…ちゃん?」
まるで、遊びに来た小学生のような場を弁えない声量で部屋に入ると、多分びっくりしているだろう部屋の真ん中でぽつんと体育座りをして小さくなっている柚季がいた。いつも兄さん呼びをしている柚季が自分をお兄ちゃんと昔のように呼び、その目頭を見る限り、酷く泣き荒らしていたみたいだ。
翔が呆れたようなだけど優しい笑みを零す。
翔は何も言わずに柚季の目の前まで歩いて、俯く柚季に目線を合わせるようにしゃがむ。そして、柚季の頭にゆっくりと手を乗せる。だが、柚季はなんの反応も示さない。
「どうしたんだ?そんなに泣いて」
翔は優しく問いかけたが、柚季は俯いて黙り込んでいた。大体は予想していた事だが――昔から柚季は拗ねると、とことん拗ねると翔は知っている。怒ると口を聞いてくれない事もしばしば。
ムスッとして蹲っている柚季を何も言わずに見ていると、膝に顔を埋めて返事が返ってきた。
「お兄ちゃんは……それではいいんですか?」
柚季の口から全くと行っていいほど内容を伴っていない質問が返ってくる。しかし、内容が伴っていなくともこれまでの出来事からその言葉の真意は言うまでもなく、分かっている。
翔は限りなく優しい声音で、限りなく優しく柚季の頭を撫でる。
「あぁ、俺は別にいいんだよ」
そういった時、柚季は突然顔を上げてしっかりと翔の目を見つめて、、
「良いわけないですッ!」
柚季が否定し、叫ぶ。
「良いわけないんです!またお兄ちゃんがあの時のような、辛い思いをするのはもう嫌なんです!見ていられないんです!胸が痛くて痛くてたまらないんです!だから……だから……」
柚季の感情が昂り、枯れていたはずの大粒の涙が目尻から頬を伝う。そして、再び顔を埋めて掠れた声で呟いた。
「良いわけないんです……」
そう言うと、顔を埋めたまま自分の殻に閉じこもった。
彼女の翔……お兄ちゃんに対する思いは翔が一番理解していると――そうだと信じたい。だからこそ、今の柚季をほっとく訳には行かない。
翔は柚季にとって、唯一無二の血の繋がった家族。そして、両親を、故郷を、これから出逢うはずだった人達を一度に失ってからの心の支えであり、黒羽家の主人を除く親代わりの存在。今まで使用人の仕事を柚季に全て任せ、さぼってきた翔も家事をしている柚季を一部では、記憶にある母親に重ねた事もある。そんな大切な人が、かつて自分から大切なものを奪った剣という恐ろしい凶器を……再び握るのが許せないんだ。自分でも、柚季と同じ立場だったら必ず反対しているからよく分かる……。
だけど、別に剣を嫌っている訳じゃない。生まれ持った才能……血にそれは刻まれている。
だからこそ、理解しているはずだ。
このままじゃあ、駄目なんだと。
ただ殻に閉じこもって、うじうじとこの生活を続けているだけじゃ駄目なんだと――それを理解している翔は、翔より理解しているはずなのに理解しようとしない矛盾している妹に諭すように語りかける。
「俺達――ここに来て色々と変わったよな。ここの使用人になったり、復讐に燃えて剣を握ったり……両親を失ってからこの家に来て、随分と無駄な日々を過ごしたよなぁ〜!」
この言葉を柚季はどんな風に聞いているのか。
「でもさ、すごく楽しかったよな?お前だってそう思うだろ?」
それは、本人じゃなきゃわからない。
「俺な思うんだよ。そろそろ向き合わなきゃなって………折角両親から貰った剣を握れる才能があるんだから使わなきゃ損だろ?きっと死んだ両親もそう思ってるはずさ」
ただ、俺はお前より少し年上のお兄ちゃんだから。
「俺達もずっと過去に囚われてちゃいけないんだよ」
ずっと迷惑かけて、なんでも知っている完璧なお前より知ってることがだってある。
「だからさ、一緒に頑張ってみないか?俺だけじゃなくてさ……柚季も一緒に!」
それは、二人はいつも一緒だってこと。
―――無性に腹が立つ笑顔で、ノロマで、一度決めたら絶対曲げない頑固な人で、家事を全部私に任せて、時に優しくて、人の気持ちも知らないで勝手に押し付けて、私のことを知ったふうな口を聞く……。
でも………。
それでも………。
私が嫌いな私のことをちゃんと知っている、分かってくれている兄の事が………。
私は―――――大嫌いです。
どうやら強情な柚季も、分かってくれたらしい。瞳から溢れていた涙は止まり、目尻に溜まっている残りの涙を自身の着物で袖で拭う。そして、体育座りのまま可愛いくも大人げのあるふくれ顔で睨んでくる。
「兄さんの口車には乗ってあげませんからね!やりたいならどうぞご自由に、自分だけでやってください!私は協力しません!」
「分かってなかった!?」
相変わらず素直になれない、そういう面倒臭い性格の私は涙で頬を濡らしている。それなのに、こんなにも優しく微笑んでくれる兄を見て、憎いはずの昔を思い出す。子供の時も、こうやってよく泣いてる私をよく慰めて貰った。最近では私も大人になって、私が泣く事なんてめっきり無くなったけど……。
でも、落ち着いた後は私を抱きしめて決まってこう言うのだ。
「あぁ、大丈夫……大丈夫だから」
――大丈夫。
あぁ、とても懐かしい。
こんな気持ちになるのは、久しぶりだ。
柚季が翔の胸の中に抱かれ幸福感で満たされて自然と緩んだ顔になってる。頭を撫でられ、昔の光景が目に浮かんでいる至福の時間。
だけど、すぐ現実に引き戻される。何故なら翔に、頭を軽く小突かれたからだ。
「え……?」
突然小突かれたので、柚季は驚きに顔を上げて翔の顔を見る。翔は無表情に柚季を見つめている。何か言いたそう表情をしているが、柚季にはなんの事か分からず困惑気味に首を傾げて、疑問符を浮かべている。
「え……っじゃないだろ?お前、忘れたとは言わせないぞ!源治様に向かって失礼しまくっただろ。後でちゃんと許して貰えるまで土下座して謝っとけよ!」
翔の怒りの原因が分かると気持ちが切り替わった柚季は「えぇー」と露骨に嫌な顔をする。柚季の中では、源治の発言の事を完全には許していないらしい。確かに源治にも大方の非はあったが、それでもあの時の態度は使用人の立場としては目に余るものがあった。
「ゆ〜う〜き〜!」
翔は涙が乾いたばかりの柚季の両頬を引っ張る。柔らかく餅のような柚季の頬が翔によって伸ばされ、面白い顔になる。
「わ、分らってましゅ〜!謝りまひゅ〜!」
「分かればよろしい……それじゃあ俺は行くな?」
そう言って引っ張るのを止め、立ち上がる。柚季は少し赤くなり痛む頬を撫でながら問いかける。
「えっ?行くって何処にですか?」
「ちょっと腕が訛ってないか見るだけだ」
「また剣を握るんですね……」
柚季の哀愁に満ちた笑顔を浮かべる。
心では分かっていても、染み付いた傷が気持ちを暗くさせる。彼女のそんな笑顔を見て、翔は再び頭を撫でる。
「心配すんなって、お前だってもう分かってるだろ?だったら、そんな暗い顔すんな。折角の白髪美少女が台無しだぞ?」
「人がしんみりした気持ちになってるのに、茶化さないでください!」
柚季がぽかぽかと殴ってくるのは可愛らしいのだが、脛を的確に殴ってくる。何故か力が篭っていてすごく痛いが、柚季のすっきりした笑顔を見ていると、痛みなんてどうでも良くなる。
「すっきりしました!ありがとございます」
「いえいえ、こちらこそ。兄弟なんだし助け合わなきゃな」
「なら、使用人の仕事をしっかりと全うしてくださいね?兄妹なんだし、助け合わなきゃ……でしょ?」
「それは、また今度という訳で………それじゃあ!!」
「あっ!逃げた!」
そんなにやりたくないのか、チーターもびっくりな速度で部屋を後にする翔。これから雑務に一人で追われることになる柚季はそんな兄の姿を見て、一人つぶやくのだった。
「全く……困ったお兄ちゃんです」