第7話
「目、覚めた?水元さん」
気が付くと、もう皆帰ってしまっていた。
ここ数日、教室に坂崎先生と私の2人きりになる事が増えた。
…といっても、今日は例外。
「先生…。あの、私」
「気にしなくていいよ。あの後すぐに放課後になって、水元さん一人残すのってなんだか悪い気がして」
時間を見ると、私がきっと寝てしまった時間から、そう経ってない気がした。
「先生、ずっとココに居たんですか?」
「うん、起きた時に誰もいないときっとビックリするだろうと思って。…魘されてたよ?」
魘されてた…?何の夢見てたっけ、と思いだそうとするけれど、授業中と同じ、思い出せずにいた。
「ずっと、お父さんって言ってたけど、大丈夫?汗とか凄かったよ」
「汗…?…ぁ…これ、ごめんなさい」
机の上には先生のだと思われる黒の小さなハンカチが置いてあった。
きっと私が魘されている間汗を拭いてくれたり、手、握ってくれてた…?
「顔色、悪かったから。嫌だった?」
きっと私は、不安そうな顔をしていたんだろう。
手とハンカチを交互に見ていると、先生も珍しく不安そうな顔で私を見ていた。
「ああ、いや、ハンカチ、洗って返しますね」
「ううん、大丈夫、先生が勝手にした事だから」
そういうと先生は私がハンカチを手に取るより先にポケットにしまってしまった。
申し訳ない、と思っていると、首にひやりと冷たいものを当てられる。
「ひっ…つめた…っ」
驚いて立ちあがる、するとその冷たいものを当てたであろう先生も驚いた表情をしている。
その手には、濡れたペットボトル、私がコンビニで買ったものと同じやつ。
「あ、これ、今朝買ったんだ。水元さんが寝てる間に冷やそうと思って濡らして…」
手に持ったペットボトルを再度、私の首に当てようとするので、避ける。
「あ、避けた。意外と避けるんだ」
「意外と、ってなんですか、意外とって」
ひょい、と先生の持っていたペットボトルを奪って、勢いよく立つ。
そして、濡れたボトルを先生の首に当てる。
「つめ…たっぁ!」
先生は意外にも、子供っぽい声を出した。
それがおかしくって、私は笑ってしまう。
「あのな~、水元?…先生、仮にも成人男性だからなぁ?」
もう一度、とやろうとすると容易に手首を摑まれて、引き寄せられ、抵抗する間もなく、先生の胸の中にいれられる。
「こういうことも、簡単なんだよ、悠那」
白衣の中に、まるで隠されるように包みこまれる。
香水でもつけているのか、今までに嗅いだ事のない、けれど嫌じゃない香り。
煙草の匂いもその中に混じってる。ああ、車の中で嗅いだ匂いだ。
あと、理科室の匂い、薬品とか、そういうやつ。
頭の中は離れたいと思ってるのに、身体はなかなか動いてくれない。
「手、水元さんの力でも今なら簡単にほどけるよ」
そう言われても身体が動かない、きっとそれはお父さんを思い出しているから。
小さい頃、たくさん抱っこしてもらった記憶と重なるから、寂しい時に抱きしめてくれた記憶があるから。
「ほどかないの。嫌じゃないの?先生の事、怖がってたんじゃないの」
ドキドキと、また心臓が壊れたようになり始める。
違う、怖いんじゃなくって、怖いのは私のお父さんで、先生とお父さんの匂いが同じだからで。
ふるふる、と数回手首を振ると、容易に先生の手が離れる。
離れた私の手は、無意識に先生の背中に回っていて、先生に抱きついているような状態になっていた。
「水元……?」
なんだか恥ずかしくなって、顔をぐりぐりと先生の腹部に埋める。
先生も困った様子で、でも私を無理にひきはがせなくて小さく唸っていた。
「お父さん…」
ぽろり、と零れたその言葉。
先生は、ひきはがそうとしていた手をとめて、恐る恐るだけれど、私の背中に手をまわして
「悠那…」
と呟いた。きっとそれは、『坂崎悠』じゃなくって『私のお父さん』として、私を呼んだんだ。
「……ごめんなさい、先生」
帰り際、先生はいつもみたいに私に話しかけることはなかった。
それは一体、どういう意味なのか考えたくはなかった。きっと明日怒られちゃうんだって。
「いいよ、水元さん。先生もごめん」
ぽんぽん、と頭を数回撫でられる。
私は否定するように首を横に数回振る。先生は悪くないよ。
「じゃあ、また明日ね、水元さん」
こくり、と頷く。
また、私は逃げるように走って校門を出た。