第3話
始業式も終わり、それぞれクラスに戻って鞄を持って新しい学年の教室へと移動する。
私もその一人だった。
「今年もよろしくね」
「こちらこそ、なんてね」
前年度も同じクラスだったそれほど仲良くない子と一緒に話しながら教室に向かう。
もうほとんど皆移動していたのか、教室には半分くらいの人が席に着いていて、残りの半分は先生が来るまで自由に話しているようだった。
席、席は…っと、また窓際か。
うちの学校は名前順とか、そういうんじゃなくて、よくわからなかった。
自分の席なんて割とどうでもよかったし。
「席に着け~~、もうホームルーム始めるぞ」
ガラガラ、とドアを開けて担任が入ってくる。
そういえば始業式の時に挨拶してたけど、なんだか眠くって聞いてなかったな。
前を向くと、そこにはさっき私が教室から見ていた、渡り廊下の保健の先生だと思っていた人だった。
「坂崎悠です、担当は生物です。この学年は初めてなので、まずは顔を覚えられるように―――」
男の先生なのに綺麗で丁寧な字で黒板に名前と、横に振り仮名を書く。
悠、って書いて「ハルカ」って読むんだ。
「まず、出席の確認をします。朝本―――」
一人ずつ、先生が読み方を確認するためか名前を呼ばれる。
「水元…ハルナ?」
「…ユウナです」
きっと、「悠」の字が同じだったから間違えたんだ。
「ああ、ユウナさん、ごめん」
胸ポケットからボールペンを取り出して紙に書き込んでいた。
大丈夫だよ先生、きっと私が先生の名前を読むときだって『ユウ』って読んじゃうから。
坂崎先生は、男の先生、今年で29歳になるらしい。
恋人は居なくて、結婚もしていなくて、好きな芸能人はやっぱり今流行りの女優さんだった。
身長が高くて、高校時代はバスケ部だったって、だから身長こんなに伸びたんだって言ってたっけ。
186cm、先生の弟もバスケをしてて、私は詳しくないけどそれなりに有名な選手らしい。
好きな物は魚だって、嫌いな物は野菜。案外子供っぽい。
新学期の一番初めのホームルームってこんな感じだっけ。
「先生に質問がある人は居ないかな?」
笑いながら先生がいうと、皆こぞって手をあげる。
「はいはいはーい!先生はなんで白衣着てるんですか?他の科学の先生は着てないのに!」
「あはは、なんとなくだよ。だって先生が白衣脱ぐと、体育の先生だって言われちゃうからね」
その後も質問は続いた。
他のクラスのホームルームが終わり始めると、先生も腕時計を見て、「今日はこれでお終い」といった。
優等生の子が号令を済ませ、放課後になる。
先生は顔が整っているから目立つ女子グループに囲まれていた。
「水元さん、待って」
私が鞄を持って教室から出ようとすると、先生に声を掛けられる。
立ち止まって振り返ると、ちょっと困ったような顔をして私を見ていた。
「……?どうしました?忘れもの?」
「いや、そういうわけじゃなくて、あの…始業式前の事なんだけど」
始業式前の事?ああ、煙草の事かな。
「煙草ですか」
胸ポケットを指差すと、先生はやっぱり困った顔をした。
「わざわざ置いてきたんですね…。だってさっきペン入れてたし」
「あはは…、水元さん、よく見てるんだ」
「そんなこと、ないですよ。始業式の前だって暇だったから…」
本当につかみどころが無いな、と言わんばかりに先生は自分の髪をくしゃくしゃ、と乱暴に掻いた。
「黙ってれば良いんですか?…この学校禁煙だから、もしかして、先生って」
次を言おうとしたところで、少し向こうから学年主任の先生が来るのが見えた。
坂崎先生側からじゃ見えないから、次の話をどうしようか戸惑う。
「…?水元さ…」
そこまでいいかけた所で、足音が近付いてきたことに気付いたのか、先生が振り返る。
反射的なのか、先生の手が私をまるで守るような――――
「坂崎先生と…、水元さんじゃないか、なにしてるんだい?もう皆帰ったよ?」
学年主任の先生はちょっと絡みが面倒なことで生徒の中ではちょっとだけ有名。
だから私も最低限でいいように思っていたけど…
「えぇ、ちょっと今から理科準備室で手伝いを頼もうと思って。ね?水元さん」
「…っあ…はい」
なんだか上手く返せなくて目が泳ぐ。すぐに先生の手に目線を落とす。
「あ~そう!じゃ、また明日」
「はい…また、明日」
「お疲れ様です」
私と坂崎先生は軽く会釈をして、先生が遠くなるのを黙って待った。
「…先生」
「……去年の2学期の煙草事件、覚えてる?あれ、俺なんだ」
聞こうとしていた事を先に言われて戸惑う。でも、やっぱり先生だったんだ。
「去年、隠れて俺が体育館裏で煙草吸ってたら、掃除の子に吸い殻見つけられちゃって。そのまま学年集会、吸ったのは俺だし、犯人出て来い!なんて、生徒から出るわけないのにね」
体育館の方を見ながら、ふっ、と鼻で笑った。
「さっき見られたから、もしかしたら優秀な水元さんなら気付いたかなって」
確かに気付いたけれど、気付いたのはその時じゃなくて、先生が私に声を掛けたから。
ああ、口止めかな?って。
「別に、私がさっきの学年主任の先生に言ったとしても、私にメリットなんてありませんし」
「あはは、確かにそうだね。僕の事は自由にできるかもしれないけど、君はそんなことしなさそう」
「先生の事だって、今日、初めて知りましたしね」
そうなの?と先生が私にきいた。
目を合わせるのがなんだか怖くて、窓の外の部活動生に目をやりながら小さく頷いた。
「…用件は、それだけです?」
別に早く帰りたいわけじゃないけど、さっきから階段を下りてきてトイレに行く女子生徒達からの視線が気になって仕方が無い。
私は特別目立ちたいわけでも、埋もれたいわけでもないのに…。
「あと…名前、読み間違えたの、気にしてる?」
「いや…、もし私が先生の立場だったら、先生の名前、「ユウ」って読んじゃうと思うし・・・・」
そっか、と、そっけない返事をされるが、確かに先生の声には安堵の感情が含まれていたように聞こえた。
「先生の名前も、珍しいですね。悠って一文字って」
「そう?…心が落ちついた子になってほしい、って両親が名付けたんだ」
「じゃあ、きっと同じ漢字の私も、そういう意味だったんでしょうか」
「うーん、それはお母さんやお父さんにきかないと分からないなぁ」
「あはは、…お母さんとお父さんかぁ」
ふと、私の両親の顔を思い出そうとする。けれど、なんだかやっぱり寂しくなってしまうのでやめた。
「じゃあ、先生、私帰りますね。誰にも始業式の前の事、言わないって約束するので…」
「…うん、じゃあ、また明日、明日はテストだからお弁当いらないから…」
少し首を傾けて、先生は手を振った。気付かれない位の速さの急ぎ足の私に向けて。
高校二年の春が始まった。