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3 寒椿

 今年の初雪は、いつもより格段に遅かった。

 暖かい巡り年なのだろうか。そんな年も稀にあるのだと聞いていたから、もしかしたら今年は降らないのかもしれない。そうとさえ思っていた。



 だから、ほっとした。





 微かな月明かりしかない深夜に、ふわりと、目の前に舞い落ちた雪花。

 わたしの凍えきった白地の着物の裾へ止まったそれは、ちゃんと華の形をしていて、大層美しい。

 そう目を細めたとき、背後で河原の石を踏む音がした。

 凍っていない川水の流れが絶えず響く。耳に痛いくらいに、清冽に。


「…… 今日は、」


 珍しくも声をかけて来ない彼に、思わず苦笑した。

「渡らないのかって、訊かないのね」

 解いたままの長く腰まで伸びた髪を雪風に遊ばせながら、ゆっくりと振り返る。

 視界を白く曇らせた吐息で、己の口元が久方ぶりに緩んだことを知る。こんな日でも笑えるものなのだと少し愉快に思った。


 紫茨は、わたしから少し離れた場所に立っていた。

 彼と出会って今年で何年目になるだろう。同じだけ歳を重ねたはずなのに、彼とわたしの背丈には大きく差ができてしまった。数年前まで輪郭に残っていた幼さも今は消えており、浮世離れした美貌がより際立つようだ。叢雲に隠された淡い月明かりの下で目にすると、怖いくらいに。

 わたしとは違う。ずっと綺麗なひと。



 わたしは、認めるのは癪だけれど、今日ここで彼を待っていた。

 多分、最期の機会になるだろうから。


 でも今、それを後悔している。



 紫茨の視線が、わたしの全身を彷徨う。

 こんな雪のちらつく中、白い襦袢一枚の身なり。まるで大輪の華が描かれているかのように赤黒く染まった胸元、両手、そして足元に転がる雪に埋もれ始めた懐剣に。

 ちらついていた雪が勢いを増し、吹雪となって舞い散る。けれど寒いとは感じなかった。

「…… 村の人間が大勢うろついてる。こんな夜更けなのに」

「わたしを探してるの」

 ここに来る前にもう里の方を見てきたのだろうか。

 きっと今頃、数多の提灯があちこち駆け廻っていることだろう。

「…… 母様が死んだの」

 一際、大きな風が吹く。僅かに晴れた曇天の雲間から、鮮烈なまでの月光が差した。

「わたしが殺したの」

 頬に散った血の紅を月明かりによって露わにされながら、わたしは凍えた頬で満面に笑んだ。




 ―――― 母は、長く病を患っていた。

 病魔は母の身体を侵し、心までをも蝕んだ。


 枯れた声。

 朽ち細った青白い手。

 死んだ父の名しか唱えぬ、ひび割れた唇。

 緩やかな死の気配に満ちた部屋の匂い。


「父様はね、都で役人をしていたの。だけど、罪を犯したと言って捕えられ、そのまま打ち首にされてしまったわ」


 その後冤罪だと知れ、母とわたしには沢山の詫び金が差し入れられた。

 だけど、それが何だというのだろう。


 父の無罪が知れても、都での他人の目は冷たいままだった。

 母は、心労から病を得た。


 父の亡き後、わたしたちを引き取った祖父は母の奇病を恐れ、わたしたちに与えた離れに近付きもしなかった。

 日々、迎えに来れるはずのない父への恨み事と恋情、病の苦痛から逃れるために死を乞う言葉のみを吐き続ける母。

 放っておくことへの罪悪感からだろうか。祖母から届けられる沢山の華やかな着物や舶来の装飾品。冬に彼に、紫茨に見せる以外、誰が目にするわけでもない品々。


 そんな折、有無を言わさず決められた、わたしの嫁入り。


 相手は大きな郷の嫡男だそうだ。とても遠く離れた場所で、この里にはもう帰って来ることすら出来ないだろうと。

 めずらしく母屋の主座敷に呼ばれ、既に決まった話だと伝えられたわたしは、ただ呆然と訊くしかなかった。


 わたしが嫁した後、帰って来れないのだとすれば――― 母様はどうなるの?

 あなた達は、祖父や祖母は、わたしの母をどうするつもり?

 毎日繰り言を吐くだけの、壊れたあのひと。それでも大切なわたしの母をあなた達は、祖父や祖母はどうするつもりなの?


 離れに帰ると、母は泣いていた。

 ――― 苦しいのはもう嫌だ。

 ――― あのひとに会いたい。

 その時次第の感情に振り回される母。

 父が生きていた頃の母はとても綺麗で優しくて、わたしの自慢だった。


 そんな母が狂っている様を、もう見たくなかった。

 ……… だから……、

「だから、」

 この手で。



 もう乾き始めている血濡れた手。

 赤黒くて、汚い。

 わたしの身の内に降り積もっている澱を色にすれば、きっとこんな色。


 見下ろしていたそれを、正面から伸びてきた手が掴んだ。誰の手かなどと、考えるまでもない。

 はっとして、慌てて抗う。

「やめて。離して、あなたの手が」

 綺麗な手が、汚れてしまうわ。

 そう言っていつかのように振り払おうとするのに、叶わない。それどころか腕を掴み引き寄せられて、胸元に掻き抱かれた。

 感じたことがないほど間近に彼の吐息を感じ、全身が震える。

「――― っ! 放して」

 痛いほど強く抱かれ、初めは回された腕から逃れようともがいた。だけど、許して貰えなくて、疲れ果てて、次第に胸元を叩いていた手も止まっていく。

 わたしの乱れた呼吸を宥めるように、大きな手の平が背を撫で続けてくれた。

「…… どうして?」

 面を上げ、問う。

 ああ。思えばわたしたちはお互いに問うてばかり。

「わたしは、人を殺したのよ?」

 だって、わたしは彼をほとんど知らない。彼もわたしをほとんど知らない。肝心なことを何一つ語ったことはない。

 なのになぜ…… ああ、こんなにも。


 見下ろしてくる紫色の目は、まっすぐに視線を合わせてきた。ふ、と双眸の輪郭が笑みを象る。

 彼は言った。

 何を、今さらと。

「君は、初めて会った頃から殺し続けていたじゃない」

 曇りのない、でもわたしから移った血に汚れた指先が、わたしの長い横髪を掻き分ける。


「君自身を」


 そっと、大切なものを扱うかのように、頬に添えられた手の平。病床の母より冷たい手をしているのに。

 どうしてだろう。何より暖かく感じるのだ。


 ――― ああ、本当にわたしはどうしようもない。


 ねえ、と。

 その問い声は、場違いなほどに期待と歓びに溢れていて。

「もう、渡れるだろう?」

 こんなにも醜悪なわたしを恥ずかしくなるくらい愛おしそうに見つめてくるから、いつしか視界をぼやけさせていた幕が、涙となって零れ始めてしまった。

 可笑しいわね。

 わたしもわたしだけど、このひとも同じくらいに救いようがない。



 子供の頃から素直じゃないわたしは返事を言葉にする代わりに、そっと彼の胸に身を寄せた。






 ――― あなたは知っているかしら?

 


 誰もわたしを瞳に映さない日々の中で。

 花の季節も、水の季節も、

 ずっとずっと、いつもいつも、


 ただただ、雪の季節に恋焦がれたわ。






* * * * *



 いつの間にか、河の水が凍っていた。

 一歩踏み出す毎に、氷の欠片が軽やかな音を立てる。 


 ――― 氷の道を渡ろう 雪の橋に足をかけよう

 ――― 永ではないその路が 陽の光に消えて仕舞わぬ間に


 いつだったか聴いた唄を口ずさむ。

 酷過ぎて、今までは歌えなかった唄を。

 そんなわたしの前に、紫茨は一輪の花を差し出した。

「はい、これ」

「…… この花」


 寒椿。わたしと同じ名を持つ赤い花。


 紫茨はわたしの髪にそれを挿し、満足気に笑み零した。

「これで、初めて会ったときと同じだろう?」

 そう言って差し出される手。

 そんなことよく覚えていたなと呆れながら彼の手を取り、そして歩き始める。

「あなたって、やっぱり変わってるわ」

「君だって」

「あなたには絶対に言われたくない」

 そう言って、わたしはいつものように可愛げのない口を利き、彼はにこやかに笑う。

 そして、こう続けるのだ。

「でも、まあ」

 それでも、と。


「僕は、君のことが――――、」





 指を絡めて歩みを共にすることを選んだあなた。

 氷の路をともに渡ってくれる、たったひとりのひと。


 永ではない路が陽の光に消えて仕舞わぬ間に、わたしはこの胸にある感情を、あなたと同じように素直に伝えることが出来るだろうか。



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