2 冬薔薇
ひとつ。
ふたつ。
ほたり、ほたりと雪が舞い下り、着物を濡らしていく。
仰向き、瞼を閉じて、自ら頬に白い冬を迎える。
――― ああ、今年もこの季節がきた。
「久しぶり」
背に掛けられた、いつもの言葉。
わたしが振り向く前に、その声はさらにいつもの言葉を続けた。
「そろそろ渡る気に……」
「ならない」
間髪入れずに答えながら、肩越しに困った顔で微笑う彼――― 紫茨を睨む。
わたしの優しくはない視線を受けた紫茨は、目を細めて肩を竦めた。
あの日から毎年、雪が降り始める頃になると、紫茨はどこからともなく現れるようになった。
いつもいつも飽きもせず、可愛げのないわたしの元へやってきては、あの河の向こうへ渡らないかと、誘いをかけて来る。
「…… どうしたら、君は渡りたいって言ってくれるのかな」
河原岸の、初めて出会った岩に並んで背を預けていた時、ふいに彼が呟いた。
図々しくも手を重ねようとしてきたので、素早く避けて口元をむっと曲げる。
今日は水色の冬薔薇小紋の着物と、同じく冬薔薇の刺繍帯を選んだからと、舶来物の白いレース手袋をしてきて良かった。馬鹿馬鹿しいとは思うのだけど、ほんの少しだけ彼の指先が掠めただけだというのに、手の甲が火傷したかのように熱を感じているのだから。
ここ数年でわたしより少しだけ高い位置にきた顔。
いつの頃からか、黙ったまま見下ろされると何だか落ち着かない気分になるようになった。
前はじっと見られる度に「見ないでよっ」と腹を立てていたのだけれど、今は、いつか感じた胸とお腹のあたりがぎゅっとする感覚がして口ごもってしまう方が多くなっている。
理由は分からないけれど。
いまも注がれる視線が痛くて、それを誤魔化すように、栗色のふわりとした毛皮のショールを首元に寄せた。
「…… そんなに、わたしに」
「え?」
そんなにわたしに〈渡って〉欲しいのなら、もっと一緒にいてくれればいいのに。
一年の、ほんのひとときだけじゃなくて。
そう文句をつけようとしたはずなのに、結局口に出来なかった。
だから、代わりにどうしてと問う。
「どうして、あなたは冬にしか来ないの?」
そう詰る。
ちらりと横目で様子を窺うと、驚いた顔をしていた紫茨が、次の瞬間にはふんわりと雪が解けるように満面の笑みを浮かべた。
慌てて視線を逸らしたけれど、頬が熱を持つのを止めることは出来ない。
なんて馬鹿なことを口にしたんだろうと後悔で一杯になった頭を、冷たく白い手が撫でた。
初めて会った頃より格段に伸びた父譲りの葡萄酒色の髪。長く細い指が、でもいつも髪を梳いてくれる女中とは全然違う指が、髪と髪の間をつと滑る。
この少年は、紫茨はいつもこんな風に他の婦女子に触れるのだろうか。手付きがあまりに自然すぎて、ふとそんなことを考える。
「僕は、冬そのものだから」
優しい声で、よくわからないことを言う。
気安く触らないで、と湧いた靄のような気持ちと一緒にぶつけたい衝動に駆られたが、飽きもせず髪を撫で続けるその感触に胸とお腹のあたりがぎゅっとして、やっぱり何も言えなかった。
「僕が渡れば立花が舞い降り、僕が去れば深く根ざした雪も消える」
「…… 何よ、それ」
いつもこう。紫茨は意味の分からない話をする。本当に変なひと。
「でも、嬉しいな」
「何がよ」
言葉通り、なぜかこの上なく嬉しそうな表情をしている彼。
「あー、もう。ほんと嬉しい」
「だからっ、何がよっ!」
そのうち、調子に乗って笑いだしたので、わたしは怒った振りをして、頬に上ったままの熱を誤魔化した。
河が氷れば、彼は渡り、会いに来る。
雪が解ければ、彼は渡り、去っていく。
陽にとける雪のように、彼は消えてしまう。
―――― 消えてしまう……。
* * * * *
暗くなり始めた雪道。紫茨と別れた後、足早に家路を辿る。
帰り着いた時分には、この里で最も立派だと知られる自宅の屋敷は、夕暮に沈む大きな影のようになっていた。
茅葺屋根が並ぶこの集落の中では珍しい、黒々とした瓦をふんだんに使った立派な屋敷だ。
「…… 急がなきゃ」
――― 遅くなり過ぎると、叱られる。
弾んだ息のままようやく屋敷の門を越えたところで、珍しくも、外出から帰って来たばかりらしい祖父と祖母に行き会った。
同じ敷地内に住んではいるが、彼らと顔を合わせるのは久方ぶり。
わたしに気付いた二人は、目に明らかに驚き、苦いものを噛み潰したかのような表情をした。
それでも、何かしら孫娘に声を掛けねばとでも思ったのだろうか。戸惑いつつも口を開きかけた祖母に気付き、祖父が叱咤の声を上げる。
「お前、早く入りなさい」
「でも貴方……」
「いいから! 早く入りなさいっ」
大きな屋敷の中へと押しやられる祖母の小さな背中と、その後を追う長身の祖父。あっという間に、高級なビイドロを嵌め込んだ扉がぴしゃりと閉じられた。
祖父がわたしと視線を合わせもしなかったことに気付いたが、もう傷つくことはない。今さらだ。
いつだったか、とても帰りが遅くなった日に叱られたことがある。
その時は怖くて悲しかったけれど、少し嬉しくもあったのだ。でも、わたしはもう頑是ない童ではない。今では、それが甘い考えだと知っている。
遅くなって叱るのは、わたしの身を案じてのことではない。
…… それはもう、十分わかっているのに。
庭の凍った石畳を渡る。
敷地内の片隅、そこにある小さな離れ。母屋のような重厚さも華美もないそれは質素で、雪に埋もれる様子が物悲しい。
木の戸に手を掛けると、凍えるような冷気が指先に伝った。
そのまま一呼吸。目を閉じて、心を整える。
「ただ今戻りました、母様」
薄暗い室内で、咳込む声に出迎えられた。雪が入り込まないように、素早く戸を閉める。
「おかえり、椿」
母は、部屋の一番奥にある床へ横たわったまま、細い首を傾げるようにしてわたしを出迎えた。
骨の浮いた青白い手が、傍に座ったわたしへと伸ばされる。
小さな窓から差し込む月明かりを受けた母の鳶色の目が、黄色く光ってわたしを映していた。
「ねえ、椿」
頬に触れた手の平は、布団に入っていた人間のものにしてはやけに冷たい。
「あの方は? 今日こそ迎えにいらっしゃったのでしょう?」
「いいえ…… まだ」
「…… そう。あぁ、早く来てくださらないかしら」
恋焦がれる少女のような声で、謳うように言う母に、わたしは微笑んだ。
母もわたしに微笑を返してくれたけれど、たぶん、わたしに笑んだわけじゃないのだろう。
* * * * *
わたしの傍には常に誰かがいて、誰もいない。
冬の間しかいない紫茨も、夢の中に住む母も、手の届かない場所へいる父も。
誰もが、わたしを残していく。
残されたわたしは、いつだって独り――――――― ……。