5 下弦
毎年、人の娘から冬の后に贈られる花。
もうじき咲くその花の蕾を、それはそれは楽しそうに彼女が見守っているから。
「何で、お前はそうも奥方様を慕っているんだ?」
一度だけ、そう訊いてみたことがある。
その問いに、彼女は照れたように微笑み教えてくれた。
一度だけ。
たった一度だけ、言葉を交わしたその時。髪に飾っていたこの花を、彼女が褒めてくれたからだ、と。
* * * * *
澄んだ泉の水面。
木漏れ日の光を受け、白く霞むように輝いている。
その淵際、水鏡に自らの姿を映そうとする貴婦人のごとき一本の樹は、真珠のような蕾をその身一杯に飾っていた。
春に咲く花。
毎年、小鳥から冬の后――― 椿へと贈られる純白の花。
髪に挿した、昨日貰ったばかりの花飾りに触れた。この細工は、この木のそれに良く似ている。それがとても嬉しい。
「もうじき咲くね」
樹の根元に腰掛け、頬に擦り寄って来た小精霊に応えながら、ほころびかけた花びらを見上げた。
木々の間をさやかに通り抜ける風が小さな蕾たちを揺らしている。
きっともうすぐ、この泉の辺を得も知れぬ甘い香りが満たすのだろう。来年も、再来年も、この先ずっと……。
「小鳥?」
草を踏む音とともに、名を呼ぶ声がした。
目を閉じてじっとしていたから、眠っているのかと思ったのだろうか。
瞼を上げて微笑めば、傍でこちらを見下ろしていた青風も頬を緩めた。
「もうすぐだな」
「うん」
隣に並んで座る彼の気配。
ほっと出来る、小鳥の居場所。
あの日出会って以来、いろいろ口では言いながらも心優しいこの精霊はずっとそこに居てくれた。
青風はきっと知らない。
それだけで、小鳥がどれだけ救われてきたのかを。
「その……」
「ん?」
「こ、この樹、初めて見たときに比べても、あまり大きさは変わらないな」
「そうだね」
「………… 」
そわそわしながら話を切り出したのに、言いたいことを言えずすぐに話題を逸らせてしまう。昔から変わらない彼の癖。言ったら怒るだろうけど、可愛いなと思っている。怒るから言わないけど。
ちらりと横を盗み見れば、案の定、そんな自分にガックリしてしまっているらしき彼の姿。
――― 頑固で強気なのに、恥ずかしがり屋で不器用で。
いつもなら笑って、何が言いたかったのか、小鳥の方から彼に訊いてみる。
だけど、今はしない。
「樹齢は幾つなんだろうな? 結構、歳は重ねていそうだが」
「どうなんだろうねー」
「…… おい、そんな暢気に返事してていいのか?」
「何で?」
「この樹、この辺りではこれ一本だぞ? 万が一枯れでもしたら、その先、奥方様に贈る花を何処から調達するつもりなんだ」
…… “その先”。
彼が口にする「その先」とは、いつのことだろう。
このお人好しな精霊は、一体いつまで小鳥に付き合ってくれるつもりなのだろう。
訊いてみたいと思っていた頃もあった。
今はそんな気はない。―――きっと、この先もずっとない。
「大丈夫だよ」
言わなければならない、彼に。
今日こそは。
「何が大丈夫なんだ?」
「……必要、ないから」
青風は、訝しがる表情でこちらを覗き込んで来る。その視線から眼を逸らすことなく、小鳥は見つめ返した。
彼からは見えない場所で着物の裾をきつく握り締め、まっすぐに告げる。
「来年はね、ここに来ることが出来ないの。花を届けて貰うことはもう出来ないから……だから、もう必要ないの」
抑揚の無い、しかし、はっきりとした小鳥の言葉に、青風は何も返さない。呆然としたまま、その藍の双眸を小鳥に据えている。
ただ、彼の瞳の奥に浮かんだものに気付き、小鳥はそっと微笑った。
「違うよ。お嫁に行くとか、そういうのじゃないから」
「………」
「わたしをお嫁に望む人なんていないこと、青風は良く知ってるでしょ?」
―――気味が悪い子だ。
里の人間たちの囁き。幾度も幼く柔い小鳥の心を傷つけてきた、闇い言葉。
精霊と意思を交わす娘の姿は、常人の目には虚空に向かって語りかけている様にしか映らない。
さらに、聖眼だけでなく、高い霊力をその身に持って生まれた小鳥は、その言霊の力を危惧した身内から、他の人間と会話することを禁じられていた。
何も話さないその姿は、人々にますます気味の悪い印象を与えたのだろう。
宮がある杜とその周りにのみ限られた、小鳥の小さな世界。
人ならざる者とのみ戯れる女童のことを、いつしか村里の者たちは『杜の鬼子』と呼んで忌み、避けるようになった。
そんな娘を望む人間など、あろうはずもない。
「―― だったら、どうして。もう、来れないって…… 何で!」
「…… わたし、継ぐことにしたの。杜の巫女を」
小鳥の言葉に、青年は息を呑んだ。
神護の杜と呼ばれる、この暗く深い森。
小鳥の一族は代々、杜を祀る巫覡として杜の中に建てられた小さな宮を守り、その役目を果たして来た。
「ばば様がこれまで務めてたんだけど。もう、そろそろお役目から解放してあげたくて」
薄暗い杜の中の紅い鳥居。宮へと続く唯一の階段の前に佇むそれは、拒絶の境。
呪で織り成された結界の壁が人と精霊のそれら一切を阻み、立ち入ることを決して許さない。
招きを得ることが出来るのは、一族の血に連なる者か、もしくは――― 神位のみ。
「巫女を継ぐって、お前……」
青風はは、小鳥が祖母と呼ぶその人を目にしたことがない。
何故ならば、巫女は宮という神域に常に座していなければならないから。
―――つまり、
「そんなことしたら!」
もう、逢えないじゃないか。
胸を塞ぐ息苦しさに、青風は言葉を最後まで言い切ることが出来なかった。
まっすぐに見据えられていた小鳥の視線が俯けられる。それを引き止めたくて、彼は彼女の腕を掴んだ。
「一緒に来てくれ」
面を上げない小鳥の肩に手をかけ、哀切に揺らぎそうになる声で請う。
「向こうに渡ろう。――― 私と」
小さく震えた娘の肩を引き寄せ、折れてしまいそうに細いその小柄な身体を抱き締めた。彼女は抗う様子を見せず、ただ彼に身をまかせている。
初めて触れたその身体は、思っていた通りに温かく、思っていた以上に頼りない。
癖のない長く柔らかな琥珀の髪が頬に当たる。目を閉じ、青風は更に腕に力を込めようとした。
しかし、胸に当てられた小さな手の平が彼を柔らかく押し返し、阻む。
「――― 行けない」
俯いたままだから、その表情は見えない。
感情を見せないまま、彼女の口唇はその言葉を形作った。
「行けないの」
彼女の名を口にするが、音にならなかった。
何かを言わなくては。
心音ばかりが煩く響く中で必死に言葉を探そうとする。しかし、逸るのは思いばかりで、感情に満ちた単語しか頭に思い浮かばない。
ただ、懇願するように見つめるしかない青風に、
「大切な人がいるの」
どうしても置いては行けない、大切で、大好きな人がいるのだと。
緩やかに顔を上げ、そう言い連ねる彼女の頬に一筋、堪え切れずあふれ出た涙が滑る。
短くない、共にした時間。
これまでに、たった一度だけしか見たことがなかった、涙。
それを目にした時、青風はその身体から手を放した。
渇き張り付く喉から声を絞り出す。
「私より、大切な人間なんだな」
「…… そんなの、比べられないよ」
静かに頭を振り、小鳥は力なく微笑んだ。その細められた翡翠の目から、また一筋、新たに滑る涙の痕。
そっと立ち上がる彼女の髪が青風の頬を掠めていく。俯いたままそれに縋るように、彼の指は琥珀の髪を梳いた。
「…… 一緒に居たいんだ」
「……うん」
指先を、最後の髪が一筋すり抜ける。
――― 小鳥は、最後まで自分の気持ちを口にしなかった。




