1 鶴と花紋
雪わたり
―――― わたしが彼に出会ったのは、
この土地にやって来て初めて、雪が降った日のこと。
* * * * *
ずっと昔。
でも、物語で語るほどではないくらいの昔。
わたしが、まだ幼い子供だった時分の話。
その頃のわたしは、近所にあった川辺へ出掛け、対岸を見つめるのが好きだった。
夏の終わり、遠い都から母の故郷であるこの里に移り住んでからというもの、毎日のように河辺へ通い、水の路に隔たれた向こう岸を眺めていた。
爽やかな草の香が薫る季節から、紅の葉が流れる季節。
そして、水が白く凍る季節。
季節の移ろいにも天候の流れにも構わなかったわたしは、その冬の日も、いつもの大岩の上で常のように、白く烟った遠い向こう岸へ、飽きもせず視線を向けていた。
深々と舞い落ちる雪。
頬を打つ、柔らかな氷の粒の中に身を晒していると、少しだけ痛い。
その日は、わたしが丁度、七つになった日だった。
特別な祝いだからと、昨年の内に父から贈られた鶴と花紋の赤い着物。とっておきのそれを着て、都で母が選んでくれた黒い別珍の上掛けを羽織り、赤と緑の鼻緒が目に鮮やかな真新しい下駄を履いた。
七つまでは神の子。
七つになれば人の子。
着物を着付けてくれた年老いた女中が、細い声で唄うようにそう教えてくれた。
彼女が結んでくれた生まれて初めての帯は、まだ慣れないせいか少し苦しい。
出掛けの挨拶の時、この姿を見た母は大層喜び、「せっかくだから、都にいらっしゃる旦那様にも見ていただきたかったわね」と残念そうに微笑んだ。
もし、六つの子供が本当に神様のものだったのなら、昨日までのわたしなら、この姿を父に見せることが出来たのだろうか。
強く吹いた風に乱された、濃い葡萄酒色の髪を押さえると、挿してきた紅色の花が指先に触れる。
いつだったか、父が「君の名と同じ花だよ」と飾ってくれた、寒椿。…… 大切な、花。
――― 氷の道を渡ろう 雪の橋に足をかけよう
――― 永ではないその路が 陽の光に消えて仕舞わぬ間に
どこかで、里の子供たちが唄っている。
微かに届くその歌声と、はたはたと着物に降り積る雪の音に耳を澄ませていたせいだろうか。
「向こうに渡らないの?」
横から、突と声を掛けられ驚いた。
見れば、わたしの横に腰掛ける同じ歳頃の男の子がひとり。
…… いつの間に登って来ていたのだろう。まったく気付かなかった。
吃驚したのを馬鹿にされたくなくて必死に押し隠しながら、わたしは目を細めて見知らぬその子を睨む。そんな可愛げのないこちらの態度にめげず、相手はにこにこと笑んできた。
彼は、あの頃からいろんな意味で変な男の子だった。
前に見た、都の貴族が着てきたような質の良い着物は薄い氷碧色で、袴はいま降っている雪と同じ色。
髪色だって、暗い色合いをした人間が多いこの土地にあって、曇りのない真っ白。一目で、里の人間でないと知れた。
同じく色白な面は、こんな田舎には全く以って似つかわしくない。生まれ育った都でもお目に掛かったことがないくらい綺麗で、なぜだか胸やお腹のあたりがぎゅっとした。
でもそれ以上に、わたしを映す紫の瞳が面白いモノを見つけた子猫のように光を湛えていたので、とても腹が立ったことを覚えている。
初めの問いに答えなかったせいだろう。
彼は重ねて、わたしに応えを求めてきた。
「ねえ、渡らないの?」
渡る、と聞いて、それが目の前の河を差しているのだと漸く気付く。
「…… 渡らないわ」
「なぜ?」
「だって、今は河が凍っていて、舟が出ないもの」
夏の景色の中。
船首に切られた水の透き通った煌めきと、それを掬おうと伸ばした己の手。
何も知らされていなかった幸福な時間の、最期の一片。その光景を瞼に蘇らせながら、河を渡った日のことを苦みとともに思い返した。
…… ああ、こんな時期に草履など履いて出たせいだ。
足袋が濡れて指先が酷く冷たい。足元から熱が抜き取られるようだと、会話には関係ない位置で頭が勝手に考える。
一方、わたしの胸中など知らぬ男の子は、無邪気かつ無神経に続けてくれた。
「ああ、凍っているなら、その上を歩けばいいじゃない」
わたしは寒さで赤く染まった唇を横に引き結んだ。目付きが物凄く悪くなった自覚もある。
馬鹿なこと言わないで。
何も知らないくせに。
初めて会ったのだから彼が何も知らないのは当たり前なのだが、子供だったわたしにはそれが我慢ならなかった。本当に、まだ子供だったのだ。
必要以上に冷たい声で、応えを返す。
「……… 渡れない」
きょとんとした表情とともに向けられた視線から、わたしはふんっとばかりに顔を逸らし、再び遠い向こう岸を臨んだ。
「だって、こちらには母様がいるもの」
「ふぅん」
男の子は、わたしの酷い態度にくじける様子を見せなかった。
それどころか、何を思ったのか隣に腰かけてきたので、わたしは慌てて抱え込んだ膝に額を埋めた。
なんなのこの子。
この里にやってきた頃、同じように絡んで来た子供は沢山いたけれど、わたしが自分たちを相手にしないと知るとすぐに皆寄り付かなくなった。
すぐそばで、覗き込んでくる気配。
雪で冷え切っていた頬が、じわりと熱くなる。
「渡りたいけど、渡れないってこと?」
「ちがう! 渡りたくないってことよ! …… しつこいわね、あなた」
「へんなの」
「あなたに言われたくないわっ!」
伏せた顏を勢いよく上げ、大きな声で怒鳴って睨むわたしに、彼は牡丹雪のような、ぽわぽわした笑顔で愉しそうに笑った。
―――― その日から。
わたしと懐かしい土地とを隔てる河。
それを眺めに行くと、彼はいつも何処からともなく現れるようになった。
冬の、間だけ。