本命チョコレート
バレンタインデーキス バレンタインデー・キッス♪ リボンをかけて
シャラララ……―
甘えた声が電波に乗ってラジオを流れる。何年も前の曲だが、この時期になると毎年どこかしらで聞くものだ。今年もこの季節がやってきた。憂鬱な季節。
そもそも、まだ一月だぞ。それも半ばだ。正月気分が抜けきっていないころじゃないのか。のんびりとしたぬくぬく気分が恋の季節のギスギスふわふわが入り混じったよくわからない空気にかき消されてしまった。街中の装飾はピンク一色。クラスの女子の桃色吐息をチラ見している思春期男子。そもそも、だな。学生の本分とは、うんぬんカンヌン。
ああ、いらいらする。そうだよ、これは嫉妬だ。生まれてこの方十七年と少し。もらうチョコレートは、近所のおばさんの手作りチョコレートか女子の三倍返し目当ての大量配布チロルチョコ(たまに大袋のブラックサンダー)。家族からのものはもちろんノーカンだ。
本命チョコをもらうのが言わずと知れた全男子の夢だろう。いや、夢である。幼馴染の春人でさえ、去年のバレンタインデーでは、くっ…認めたくはないが、本命チョコをもらっていた。アイツはただの高校デビューだぞ!?本性は俺と同じオタクなのに。なぜだ、なぜ奴はモテる?
まあそれは置いておこう。この話を続けると、衝動のあまり、やつをうまい棒(チョココーティング三十円+税)で殴り殺してしまいそうだ。
「はあ、本命チョコ、ほしいなあ」
「ふぅん。チョコがほしいんですか?」
「ただのチョコじゃないよ、本命がいいんだ!」
反射的に答えてから気が付く。彼女ができた幼馴染に捨てられて、空教室で一人寂しく昼食をとるような俺の前に女の子がいる。
「君は…?」
「私ですか?私は、恋の成就を助けるキューピッド、その名もお助けテンちゃんです」
無い胸を張って、自己紹介をする少女に目を奪われる。
前髪ごと一息にくくった快活そうなポニーテール。それとは反して意外に白い肌。釣り目がちな猫目。ほっそりとした腕。自分の好みとは正反対ではあったが、整った容姿とスタイルは、まさに『美少女』だった。
「て、天ちゃん?」
「そう!テンちゃん!」
「お助けって何をたすけてくれるんだ?」
「あなたが本命チョコをもらうための手助けです!それで、誰からの本命チョコがほしいんです?」
誰から、そう言われると嫉妬ばかりで。好きな人なんていなかったからなあ。でも、強いて言うなら。
「清川さん…」
「ふーん。理想が高いんですね。清川さんて言ったら、学校のマドンナじゃないですか。成績優秀容姿端麗。ファンクラブもあって先生方の覚えもめでたい。…まるで漫画の中の人みたい」
ふふふっと笑われると、なんだか恥ずかしくなってきた。
「別に理想が高くたっていいだろう。憧れの人なんだ。」
それに、せっかく本命チョコがもらえるなら、絶対にもらえそうにない人からもらった方がお得だろう!
「わかりました。それでは清川さんから本命チョコをもらう手助けをして差し上げます!」
そういって手を握られ、ほほ笑まれて、少しだけ、ドキドキしてしまったのは、誰にも内緒だ。
それから一週間は、自分磨き。天ちゃんのアドバイスにそって、顔を隠すように伸ばした前髪を切り、黒縁でやぼったい眼鏡は、銀縁(シルバーフレームって言って!と何度も言われた)の知的に見えるものに変えた。
一番苦労したのは、しみついた猫背だった。
「また背中まがってる…。こうなったら、最終手段です!」
ぐいっとタイの根元をつかまれ、緩められる。ち、近い!何をするんだ?ブレザーを脱がされ、そのまま、シャツのボタンをスルスルするり。三つとも外された。
「や、やめ…この、痴漢!」
「何、女の子みたいな声出してるんですか!コレさすのに邪魔だから襟元を緩めただけですよ」
さ、さすって…?もしかして、天ちゃんは男だったのか?天使なのだから両性具有でもおかしくはないのだろうけど、でも、だって…。などと馬鹿のことを考えていると、彼女が片手に何かを持って立ち上がった。
それは、一メートル定規。
「何に使うのかって?それは…」
背後に回り込まれた瞬間、ぞわぞわとした寒気が襲う。
「こう使うんです!」
寛げられた後襟から、直接ステンレスの定規が差し込まれる。物理的な寒気が全身を支配する。真冬に鉄製品は氷よりも冷たい気がします…。
「定規に触れたくないのなら、きれいな姿勢を維持できますよね」
にんまりと笑った天ちゃん。心底楽しそうな笑顔だった。
特訓のおかげもあって、根暗オタだった俺も、そこそこ見られるくらいには垢ぬけて、街を堂々と歩けるようになった。クラスの女子の目線も気にならないし、贔屓目抜きで俺は格好良くなった。自信を持って、背筋を伸ばすってこんなにも生きやすくなるんだな!
調子に乗っていた俺は、どうしてこんなことをしていたのか、すっかり忘れてしまっていた。だから、天ちゃんの言葉の意味が一瞬わからなかったのだ。
「それでは、第二段階に移行したいと思います!」
「え?」
「え?じゃないですよ。本命チョコをもらうためには清川さんに接触して惚れさせなくちゃいけないんですよ」
あきれ気味に腰に手をあてる天ちゃんの姿に「あ」と情けない声が漏れる。
「忘れてたの…?」
正直に、忘れていたのだと頷く。せっかく伸ばした背中は、また縮こまっていた。
「清川さんが好きなんじゃないの?本命チョコが欲しかったんでしょう?」
「いや、憧れではあったけど」
天ちゃんから、つい、と目をそらす。責めるような、実際俺を責めている彼女の目を見ていることなんてできなかった。
「ここまでしてもらっても、結局は、あんな美少女と俺の住むところはちがうんだよ。所詮雰囲気だけがましになっただけ。釣り合わない」
もちろん、君のような可愛い子も。
「私は、私は、あなたの恋を応援しようと……。」
小さく彼女がつぶやいた声は、けれど俺の耳には届かなかった。
「ばか」
そう言ってにらみつけた天ちゃんの瞳には涙が浮かんでいた。
気が付けば、俺は独りたたずんでいた。
今年のバレンタインも、近所のおばさんからのガトーショコラ。クラスの女子からは大量生産チョコクッキーをもらった。本命チョコはなし。
けれど、例年と違い、そんなことはどうでもよかった。「そんなこと」よりも俺の頭を占めるのはあの不思議な女の子だ。制服を着ていたのだから、この学校に通っていることも、校章の色が青なのだから、一個下の学年だということもわかっている。だから、全8クラスを毎日1クラスずつ訪れて特徴を伝え、探していた。けれど、快活そうなポニーテール、釣り目がちで、そして何より美少女。そんな彼女はどこにもいなかった。
もしかしたら、天ちゃんは俺の妄想だったのだろうか。
――さん。どうです?本命チョコはもらいました?
いやあ、義理チョコならもらったんですけどねえ。
そういえば、最近ホワイトデーには男の子から本命お菓子を渡すのが流行り始めているそうで
ほうほう、私も気になるあなたに手作り作ってきますね~。
冗談やめてくださいよう。それでは、次の曲行きましょう。お聞きください。どうぞ。
出会った日と同じように きりけむる静かな夜…―――
いつものラジオ番組では、明日に迫るホワイトデーの特集をしていた。
スクバの片隅には、シンプルにラッピングされた小さなホワイトチョコレート。
男はマシュマロ、キャンディー、クッキーで気持ちがうんぬんという噂があるが、そんなことはどうでもいい。チョコレートであることに意味がある。このチョコは買ったものだけれど、素直な俺の気持ちがこもっている。
―――これが俺の本命チョコレート
こんなもの用意したって彼女に渡せるわけはないのに。
放課後何もせずに家に帰るのは嫌で、久しぶりに、図書室へと足を向けた。最近では自分磨きに忙しくて、すっかり足が遠のいていたけれど、天ちゃんに出会うまでは毎日のように通っていたものだ。
さて、今日は何を読もうかと、立ち並ぶ本に懐かしさをおぼえつつ、狭い書架を進む。
「あ」
小さな驚きが上がるとともに、声の人物が抱えていた数冊の本がバサバサと音を立てて地面にぶつかる。拾うのを手伝ってやりながら、ちらりと彼女を盗み見るも、長い前髪と野暮ったい大きな眼鏡で顔のほとんどが隠れていて見えなかった。すみません、とつぶやく彼女に、そういえば、2年にあがってすぐの時もこんなことがあったなと、思いだして、笑みが漏れた。あの時も、この子のように野暮ったい眼鏡と前髪で、同じ子だろうか。
ふと、焦っているようで、うまく本を抱えることができずにあたふたする彼女の前髪に手をのばす。常ならば、こんなことはしないけれど、この子にも、背筋を伸ばして歩くことの素晴らしさをおすそ分けしてあげたかったのかもしれない。
「君も髪を切って眼鏡を変えてみたら?それだけで世界が」
変わって見えるよと続くはずの声は出ない。
長い前髪を左に払おうと持ち上げた左手が震える。
「天、ちゃん…?」
彼女の頬に赤みがさしたかと思うと、その可愛らしい顔が目の前から消える。あの時と同じように走り去ろうとしているのだ。また、俺の前から消えようとしている。
今度は逃がさない。見つけたんだ!
「天ちゃん!」
静かな図書室の中、ぎょろりとカウンターの司書さんに見られるが、気にしてなんていられなかった。
「渡したいものが、あるんだ」
すっと、掴んだ彼女の腕から力が抜ける。
「ちょっと待っててな」
天ちゃんは、うつむいたまま動かない。
「この前はごめん。俺もう、清川さんのチョコはいらないんだ。
俺、君と会うまで、リア充爆発しろ、とか死ねとか言って、自分よりも優れたやつを引きずり落とすことしか考えてなかった。でも、天ちゃんと会って、特訓しただろ。そうしたら、努力すればするほど、人並みになって。自分自身を磨くことを知った。それで、それで俺、それを教えてくれた天ちゃんのことが」
喉がカラカラで手が震える。乾いた唾液は代わりに別の場所から流れ始める。
「天ちゃんのこと、好きになったんだ」
「何泣いてるんですか」
「だ、だって俺…」
「せっかく格好良くなったのに、カッコ悪いですよ。でも」
「私もあなたのことが好きです」
そう言った天ちゃんの声も震えていて、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
その後、空気を読んで待っていてくれた司書さんにこってりと叱られてから、二人で手を繋いで帰路に就いた。帰り道に、たくさん話した。ひと月の空白を埋めるかのように。彼女の名前は、典子。はじめの自己紹介から、「典ちゃん」と名乗っていたのだそうだけど、間違いを正されても、彼女は俺の永遠の天使なのだ。
来年のバレンタインも、10年先も、30年先だって、俺はずっと彼女に本命チョコレートを渡し続けるだろう。可愛くてかわいくて仕方のない天使な恋人に、自分の素直な気持ちを伝えるために。
引用:国生さゆり「バレンタイン・キッス」
Mr.Children「抱きしめたい」