甘い考え
『もう二度と逢えないの? フリューゲル』
『すまない、エンゼル。僕は旅立たないといけない』
『それならばこれを持っていって』
『あぁ……君だと思って大事にするよ……』
流れるエンドロール。退屈な映画だった。ラブロマンスというジャンルだっただろうか。そもそもなぜこんな映画が流行っているのだろうか。隣にすわっている女子三人組は揃って涙している。耳をすませば啜り声も聞こえる。そんな泣ける映画なのか? それとも自分が枯れてしまっただけなのだろうか。前に座っていたカップルらしき男の方は、”俺流”の解説をしている。とてつもなくウザイ。
カプチーノを一気に飲み干し、空の紙コップをゴミ袋へ叩きつけた。つまらなかった映画への鬱憤と、その映画を高く評価する一般人への怒りだ。自分がずれているのか、それとも社会がずれているのか、いずれにせよ自分と一般社会が攪拌することはないだろう。もし混ざっているのなら、僕はコミュニケーションで苦労することはない、こうして一人で映画を見にくることもないだろう。この気持ちを理解してくるのは自分の都合だけで作り出した”脳内彼女”だけだ。イエスといえばイエスだし、ノーと言えばノーだ。この映画はつまらなかった、だから脳内彼女の感想ももちろんつまらなかった、だ。だが現実は、『映画ランキング1位』、おかしいのは社会ではなくきっとこれを理解できない自分なのだろう。だから社会に溶けることができない。砂糖をコーヒーに入れれば溶けていくが、僕は社会に溶けていかない、溶けていけない、溶けていく自分が嫌なのだ。最初からなじむ気なんてないんだ。
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考えてみる。社会に反発しているのか、避けられているのか、一向に生活状況は向上しない。世の中は株価が上がっただとか、ボーナスが上がっただとか言われてるけど、少なくとも僕の時給には何も反映されていない。ハンバーガーひとつ買うのでさえ躊躇してしまうほどだ。小田さんは『人生はブラックコーヒーより苦い』というのだが本当なのだろうか。確かに僕の生活は一向によくならない。女性にも相手にされないし金も持ってない。それどころか教養もないし人に自慢できることすらない。だけどこんな僕でも生活できている。本当は”ブラックコーヒー”は苦くないのではないだろうか。実際に甘くはないが、”それ”に甘やかされているのではないだろうか。苦いのは自分であって社会ではない、社会になじめない自分が甘くない砂糖なのかもしれない。それを理解してくるのはやはり脳内彼女だけ。というより気付いたこの真理を話す相手もいない。結局は苦いコーヒーが悪いのではなく、それに溶けない砂糖が悪いってことなのだと思った。
――今日のブラックコーヒーは少し甘く感じた。




