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翌朝、久々に制服に袖を通すとなんだか懐かしいような気持ちになった。休みになってまだ半月くらいしかたっていないのに不思議だ。
夏休み前と、いまと、状況も別にあんまり変わってもいないのに。
妹を幼稚園に連れて行かなくていいぶん余裕を持って、家を出ることができたのでギリギリまでテレビを見ててもいつもより一本早い電車に乗れた。
車内ではちらほらと同じ制服をみかける。嬉しい気分と、照れ臭いようなくすぐったいような不思議な感触がした。
駅から学校までの途中で寄ったコンビニで飲むヨーグルトとガムを買っていると丸山玲奈ちゃんとレジで会ったので、お互いに夏休みの報告をしながら一緒に教室まで行った。
二年になってからは、こういうのはどれも初めてだ。朝のよりみちとか、友達と並んで喋りながら教室へ入るのとか。
去年までは普通にあったことなのにすごく感激している自分を、内側の自分が不思議そうに首をかしげて見つめている。
「おはよー」
元気よく夏服の襟に飛びついてきたのは、隣の席の松宮良子ちゃんだ。
野球部女子一人の良子ちゃんは夏休みの間も毎日欠かさず練習に出ているわりに、そんなに日焼けしてなかった。
「美白に命かけてますから!」
良子ちゃんは胸を張る。
「なるほど」
「問題は色より……おっとさすがにその先はこの俺でも言えないなあ」
「うるさいわね! あっち行け!」
横を通り過ぎながら口をはさんだサッカー部の溝尾くんに、ちゅうちょなく蹴りを入れながら良子ちゃんが吠える。
サッカー部と野球部はグラウンド争いで伝統的に仲が良くないんだそうだ。
「のんきねあんたたち……」
テスト用にノートをめくっていた十島カナエちゃんが長い黒髪をはらいながらクールに呟き、あたしたちはようやく現実に戻っておのおの席に着いた。
気持ちだけでもやっておこうと単語帳を開いていると、視界の端に前のドアから有本くんが相変わらずだるそうに入ってきたのが見えた。
(あ)
どきっとした。
有本くんの隣の席の吉田澪ちゃんが、教科書で顔を隠しながらこちらを振り返って顔をしかめる。
だらっとした教室の空気を一瞬で変えるほど有本くんは全身から怒気を発していて、唇の端にはまだ乾ききらない血の跡があった。
あたしはごくんと喉を鳴らした。
昨夜別れた時はあんな怪我はなかった。その後となるとかなりの深夜のできごとだ。
時間的に別れてから一人でどこかに行ったとも思えない。胸の中がひんやりした。
静かになった教室の代わりに、校庭の蝉が競って鳴いているのが響き渡る。
有本くんはもちろんこちらへ目を向けることもなく、乱暴に自分の椅子を引きどかっと座った。
白いシャツの背中が怒っている。憤怒で人が殺せるなら近くの席の人は誰か死ぬかもしれない。そう思った。
またかよ、と誰かが迷惑そうに小声で呟いたのが聞こえた。
夏休みの間、この人がものすごく近しい人のように感じていた。
けれど元々クラスのなかでの有本くんはこんな人で、普段は無愛想でにこりともせず黙っているだけだけれど時々手がつけがたく荒れていることがこれまで何度もあった。
自分から喧嘩を売って歩いたりすることはないけれど、荒々しい空気を巻き散らすことをいとわないし、何かあれば力を奮うことを抑制しなかった。
自然とクラスメートは有本君に遠慮して、いっそう遠々しくなっていった。それが一学期だった。
どうして忘れていたんだろう?
クラスは不自然に静まり返っている。そんな中あたしに何かが言えるはずもなく、黙って頬杖ついていた右の拳に歯を当てた。
予告通りの数学のテストが終わった後、末次理恵子ちゃんがあたしの席の横へとことこと来た。
「どうだったー?」
あたしはシャーペンをしまいつつ顔を上げて、声をかける。
「どうもこうもあるわけないじゃないの。もういいの、わたしは終わったテストのことなんて気にしないから! そんなことよりね優香」
理恵子ちゃんはぐっとこぶしを握った。有本くんはテストが終わった直後に教室から姿を消している。
「んー?」
「明日の土曜日、花火大会なんだけど知ってる?」
「知らないー。そっかあ、花火かあ夏だもんね」
去年はお父さんの許可がもらえなくて行けなかった。帰りが夜遅い時間になるけれど、お父さんがその日は出張で駅まで迎えにこれなかったから。
途中まで友達が一緒だし、自分でちゃんと気をつけて帰れるよって言ったけど、ダメだった。
「そうそう、みんなで行こうって話になってるんだけど、優香今年も参加無理そう?」
理恵子ちゃんは首をかしげるようにしてあたしをのぞきこんでいる。
「えーっと、どうだろう。おばあちゃんに一応聞いてみないとどうかな? でも今年はダメとは言われない気がする」
おばあちゃんはそれどころじゃないから。
「やったー!」
理恵子ちゃんはバンザイした後はっと後ろを振り返り、有本くんがまだ教室に戻っていないのを確認して安心したように笑った。
「良かった、期待してるね」
「うん。あとは誰が来るの?」
「真由と、まいまいと、野村さん」
「へえ、あたし野村さんと遊びに行くのはじめてだー。中嶋さんは来ないの?」
ちょっとびっくりしたのは石塚真由ちゃんと桂木舞ちゃんはなにかと遊ぶメンバーにいるけれど、野村有希子ちゃんはあたしは普段あまり話す機会がない。理恵子ちゃんもそのはずだ。
何故なら野村有希子ちゃんには、幼馴染だといおう中嶋さやかちゃんがいつもぴったりくっついていて2人の世界をかもしだしてるからだ。
「中嶋さん? 野村さんも真由からもあたしからも誘ったんだけどね、来られないみたいよ」
「そっかあ」
大人しい中嶋さんは今も窓際に立った野村さんにくっついて、頭を寄せ合うように一緒に数学の参考書を読みあっている。
あたしが頷いた時、HRのはじまりを知らせるチャイムが鳴った。
これが終わればあとは掃除して帰るだけだ。けれど、有本くんは教室に戻ってこないままだった。
掃除が終わった後、一緒に帰ろうと理恵子ちゃんたちに誘われたけれど、先に帰ってもらった。
カバンはまだ置いてある。有本くんは学校のどこかにいるはずだ。
有本くんは視聴覚教室の掃除のグループのはずだったけれど、来なかったと他の男子が言っていた。
探して何を言おうとしているのか、何が聞きたいのか自分でもよくわからない。
けれどこのまま帰ってしまえば、二度と見つけられない気がしてそれはどうしても嫌だった。
同じクラスの、友達、というのとは少し違う。
もちろん彼氏でもない。
たんに夜に道端で会って喋る人。
あたしのくだらないおしゃべりを聞いてくれる人。くだらなすぎて、わざわざ友達にメール送ったり電話かけたりするのも気が引けるくらいの話を黙って聞いてくれてる人。
それは、ものすごくちっぽけなことだけど、今のあたしにとってはとてもだいじなことだった。
「あ」
昇降口に有本くんをようやく見つけた。カバンを手に持っているので、どこですれ違ったのか教室に一度戻ったんだろう。
散々うろうろして追いかけて見つけたはいいけれど、それなのにすぐには声がかけられなくて困った。
当の本人は振り返ることもなく、乱暴に靴を履き替えて出て行こうとしている。人を寄せ付けない空気は顕在で、ずっと探してたのに何故かひるんでしまう。そもそも有本くんに何を言うつもりだったのか、探してる間も考えてなかったのだ。
でも多分、このまま声をかけることができなかったらもう夜の歩道で有本くんに会えない気がする。
勝手な思い込みなんだけれど、どうしてもそんな気がしてあたしはもってた勇気をありったけかきあつめて声をはりあげた。
「あああっと、有本くん!」
多分、恋の告白をする時だって今ほど緊張しない気がする。まあそんな時はさすがのあたしもタイミングと相手の機嫌を見計らうけれども。
有本くんは視線も鋭く首だけをこちらに向けた。けれど、立ち止まってくれた。
「なに」
刺々しい声だったけれど、話しかけてしまったからには今更後には引けない。あたしはぐっと唾を飲み込んだ。
「えーっと、明日の夜! みんなで花火行くんだけど一緒に行かない?」
「なんで俺が」
有本くんはちょっと虚をつかれたように驚いた。あたし自身もびっくりした。そんなことを言いたかったわけじゃない。
けれど、痛々しそうな傷をこうして目の当たりにすればどこをどう触れていいのかわからなかった。
「花火とか見そうにないから……」
有本くんはやっぱりお前はバカだろうという顔をした。
「行かね」
自分でも何を言ってるんだろうという感じだったけれど、有本くんは何の関心もみせずにあっさり言ってまた歩き始めた。汚れたナイキのスニーカーが踵を踏みつけられて、耐えている。
「あ、待って」
とっさにシャツのつかんで裾を引き止めてしまった。けれどこれ以上引き止めるだけのなにか用があるわけじゃなかった。
有本くんはものすごく迷惑そうに、こちらを見た。
「離せよ。……友達じゃないし。なれなれしくされるのうざい」
「……ですよねー」
夜道をフラフラ歩いていたあたしを有本くんが引き止めた時とは、事情が違う。あたしは素直に手を離した。怒られたからじゃない。有本くんは単純に困ってたからだ。
「じゃあさあ、友達になろ」
代わりにスカートのポケットからスマホを取り出す。
「は?」
有本くんは盛大に驚いたけれど、もう今さら何も気にしなかった。
「横でうるさくしないから」
「……根本的に理解が間違ってる」
憮然としつつ、結局ねばり勝ちで有本くんはメアドを交換してくれそのままぷんすかと帰っていった。
あたしは靴箱にもたれかかって溜息をついた。ちょっとしたナンパみたいで、ものすごく緊張したなあ。
テンパったとはいえ、もし有本くんが百万が一花火を了承してたらどうなってただろう。きっとみんなさっきの有本くん以上に青天の霹靂で驚いて後からめちゃくちゃ怒られただろうなあ。
それはそれで楽しかったような気がして、あたしは思わず笑ってしまう。来ない未来でも、好きに想像するのは自由だ。
通りかかった一年生たちが、不審そうにあたしを見ていたけれど気にしなかった。