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「お前……本物のバカだろう」
翌日また同じくらいの時間に今度は別の交差点の歩道橋に座ってた有本くんはあたしを見るなり一瞬絶句した後全身で脱力しながらそう言った。
「あはは、やっぱだめかなあ……?」
「ダメに決まってるだろ!」
速攻却下された。
長袖のラグビーシャツにジーンズにスニーカー。髪も後ろに1つしばりにしてキャップ。そして極めつけに首からさげたホイッスル。
自分の中では万全の支度をして来たつもりだったのである。
「なんの自信なのか知らないけど、そんな付け焼刃じゃなにしたってムダだから」
有本くんは頬杖をついたままため息をついた。
「工夫はしたの!」
あたしは拳を握って力説してみたがまったく感心はされなかったようだ。
「あ、これ昨日のお礼にどーぞ」
会えるだろうという確信があったわけではないけれどもし運良くまた会ったら渡そうと思ってビニール袋に桃を2つ入れて持ってきていたのだった。
「うちのねえ、お父さんの方の叔父さんが甲府にいるんだけどその叔父さんが送ってきてくれたの。ぶどうの時期だからっていう話から始まったのに、送られてきたのは何故か桃。多分すっごくおいしそうだったからだと思うけどね」
ビニール袋を無理矢理渡すと有本くんは苦虫を噛みつぶしたような顔になったけれど一応受け取ってはくれた。
有本くんが座ってる位置をちょっとずれてくれたのでまた隣にいてていいのだと思って嬉しくなった。
あたしはまた隣に座って一生懸命一人で喋り、有本くんは聞
昼間とか夕方に友達と喋るのとはちょっと違う。勝手な仲間意識に似たモノをいつのまにかあたしは有本君に感じていた。
有本君も歓迎してくれてる様子もないけれど、それでも絶対にあっちへ行けとか来るなとは言わないのだった。
あたしの夏休みはそんなふうにゆっくりと漕ぎ出した。
いているのかいないのかろくに返事もしない。
それでもどっかに行ったりせず、そこにいてくれた。
朝はちゃんと早くに起きてラジオ体操に妹を連れて行って、生活乱れてないところをおばあちゃんに示して。
そして涼しいうちにおばあちゃんと妹と三人で近所のスーパーに買い物に行き、昼はおそうめんやおにぎりで簡単に済ませる。
午後は自分の宿題と一緒に妹の勉強をみてやって、お昼寝をしたり庭で水遊びをしたり公園につれていってやったり。
おばあちゃんはたまには昼間に友達の家にでも出かけてきたらと水を向けてくれたけれど、暑い最中どこかへ行く気になれなくてずっと家にいた。
そして夜はぶらりと出かけて、意外に付き合いの良い有本くんと道ばたで喋っていた。
それは、ぱっとしないけれどそれでもそれなりに楽しい日ではあったのだった。
うちのお父さんは厳しい人だった。いや、多分今も元気で家にいたら厳しい。
門限はいまどき十八時。基本的に学校帰りの寄り道禁止。もちろん友達とどうしても出かけるって時はお母さんにメールで連絡したら許可はもらえるけれど。
「最近の女子高生としてはめずらしくない?」
話の流れで有本君にそうたずねてみたけれど案の定そっけない返事がかえってきた。
「女子高生じゃないからわからない」
「う、うん」
家族のルール、ってお父さんは言う。
いつも帰ってくる時間に帰ってこないと心配するから、相手に余計な負担をかけないようにするのが基本的な思いやり。
それはわからなくもないけれど。でもいちいち誰と会って何をするとか親にだって言いたくないこともあったりする。
もちろんそんなお父さんは会社から帰る時間が遅くなる時は必ず家に電話を入れていた。
長距離トラックが一台、ガードレールに座るあたしたちの背中の向こうをガタガタ音をたてて通りすぎていった。
「だからもしいまもうちのお父さんが元気にしてたら、こんな時間に有本くんと道ばたで喋ってることはありえないんだよねー」
「…………」
有本くんは何か言いたげにしたけれど結局黙っていた。
「ま、そもそもこっちに住んでないから前提がおかしいか」
あたしは足の先にひっかけたピンクのサンダルをぶらぶらさせて笑ってみた。
しばらくそうしていていたら不意に有本くんは口を開いた。めずらしく自分から。
「うちは多分お前の家よりもっとうるさい。色んな点で親父が」
「へえー……」
「うるさいけどほっとく」
「んー。ほっとけるんならそれはうるさいんじゃないんじゃないの?」
「殴られてもほっとく」
「……話し合おうよ」
「バカ、できりゃいいけど」
勢いよく人にバカと言っといて語尾は力なく消えた。
「おんなじ言語を使ってても話し合う気がない人間とはムリ」
有本君はきっぱりと言いきった。
あたしは爪先に目を落とす。有本君についてあたしが知ってることはあんまりない。
でもこの隣の同級生は一学期の間も時々、いや続く時はかなり頻繁に顔やら腕やらに傷をつくって学校へ来ていた。
何を言おうか迷ったけれどどこに触れても怒り出しそうな気がする横顔だった。それはきっと、痛いから。
「いろいろあるねえ」
「誰だってそうだろ」
「そっか。そうだね」
「生きてりゃ誰だって」
言いかけて有本くんは黙った。
「今日は涼しいね。クーラーいらないくらい」
見上げた紺色の夜空は駅側の方は光を受けて赤く光っている。雲がかかった月はけれど強く光っていた。
この街から離れたあの海にもこの月の光は落ちているだろうか。聞こえない波の音を遠く思った。
みんなあたしの知らないいろいろの中で生きていて、生きていくしかなくて、そしていつかみんな死んでしまう。
千年後には世界自体が海の底かも知れない。
生きてるって単純には、誰だって死に近づいて行ってるってこと。健康な人だってそうだ。
命は必ず失われるのだ。たいてい自分が望んだとおりの形ではなく。
「生きるってなんだろう」
ふと思いついて呟いたら有本くんは意外にもいつもの苦虫噛みつぶしたような顔ではなくかすかな笑みを浮かべた。注視してみないと気づかないほどごくかすかな。
「そういうの考えられてる間はまだまだ余裕だろ」
「んー、そうかもねえ」
目の前の信号機が青に変わってタクシーがゆっくりと走り出す。
「明日は登校日だねえ。妹は保育園ない日だから遅刻しないですみそう」
「その前に早く寝ろよ」
言って有本くんは勢いをつけて立ち上がった。
「確かにそうだ」
あたしもよいしょと腰をあげる。
「んー」
伸びをしながら息を吐く。
「あ、そうだ。一緒に行く? 学校」
いいことを思いついたと思ったのにあっさり断られた。
「絶対イヤだ」
「えー、なんでよー」
夏休みが終わればまた妹を幼稚園に送っていってからの登校になるので、最初で最後のチャンスだと思ったのに。
「そんなチャンスいらない」
「うー。あ、明日なに持って行くんだっけ。夏休みの宿題持ってくのは小学校だけだよね。従兄の高校はテストがあるらしいけど」
「……うちもだろ」
怪訝な顔をされてものすごくびっくりした。
「えええええ、抜き打ちテスト?」
「お前……」
有本君はあきれはてた顔になった。たしかに彼が事前に知っている以上、抜き打ちではない。でもあたしにとっては十分抜き打ちだ。
「うー……帰ったら寝る前にちょこっとやろうかなあ。無駄な努力でも」
有本くんは無言で肩をすくめた。夜空の星がかすんで見えたような気がした。