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月ぞ残れる  作者: 真央
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 覚えているのは、頭の上の白くぼんやりかすんだ空と寒そうに震える薄紅の花びら。

 わたしの少し前を歩く両親と小さな妹をぼんやり見ていた。ひとりだけ他人みたいに。 

 お父さんはもうすぐ死んでしまう。

 今年の春先。気の早い桜が花をつけた風の冷たい日。お父さんにはラベルがつけられた。

『もって一年。早ければ半年』

 几帳面そうなお父さんと同じくらいの年齢に見えたお医者さんは、言いにくそうにけれどはっきりとあたしたち家族全員に告げた。

 お母さんの肩が少し震えたのを何故かわからないけれどはっきりと思いだせるのに、あたし自身がその時何を考えていたのかはもう忘れてしまった。

 そして、あの春の日からすでに四ヶ月がすぎていた。

 お母さんはその頃からお父さんにつきっきりで、今はデイケアセンターのあるホスピスにずっといる。

 あたしと妹は子供だけで留守番というわけにも行かないので、お父さんの方のおばあちゃんの家にうつった。

 乗り換えあるけどうちから電車で三駅、普段からよく行き来していたおばあちゃんの家だけど。

 時々遊びに来てた時は柱もたたみも親しみ深かったのに、ずっと住むようになったらなんだか急によそよそしくなったみたいに変な感じだ。

 居心地が悪いのとは違うけれどなんか毎日不思議なきもちになる。なんでここにいるんだっけって毎朝起きるたびに思ってしまう。

 週末はおばあちゃんに連れられてお父さんのお見舞いにあたしたちは姉妹揃って行く。 おばあちゃんとお母さんは土曜の夜だけお父さんの看取りを交代する。週に一度その日はお母さんはあたしと妹と一緒におばあちゃんの家に帰る。

 お母さんがいても、けれどそれもやっぱり変な感じだ。なにか足りないみたいで、そのくせ借りてきたみたいにほんとははまらないピースをムリヤリ埋められているかのような。

 変な感じ、居心地悪いと言いながら結局あたしはお父さんのためにもお母さんのためにも何もすることなくぼんやり日をすごしている。

 しいていえば学校の行き帰りに妹を保育園に送り迎えすることと、ご飯の時とかおばあちゃんの手伝いをちょこっとするくらいだ。

 明日から学校は夏休みだけれど、それでも別にあたしの仕事は増えないみたい。べつになにができるというわけでもないのだけれど。

 お母さんは優香にも梨香にも寂しい思いをさせているのだから、できるだけ普段どおりでそれでいいのだと言う。

 お父さんはちょっとづつ死に近づきながらけれど生きていて、あたしと妹が会いに行くと起きてる時は嬉しそうに笑う。

 妹は喜んでお見舞いに行くしお父さんのそばに行きたがるけれど、あたしは本当は少し嫌だ。

 痩せていくお父さんを見たくない。お父さんが可哀想だから。お母さんが苦しそうだから。そしてあたし自身が辛いから。

 けれど行きたくないというとお母さんにもおばあちゃんにも怒られるので、しかたなく

ついていく。

 しぶしぶ出かけるのがまた、お父さんが可哀想だと思うけれどどうしようもない。

 おばあちゃんは、お互いに準備が必要だからねと言う。

 準備。

 もうそんなに遠くない未来。必ずやってくるお別れの日のための心の準備。

 そんなのしたくない。

 したくなくてもしなきゃならないんだよ。人間生きていればこれからもずっとしたくないこともしなきゃならないんだからね。これがそのはじめだよ、とおばあちゃんは言う。

 やだよ。そんなの。

 嫌だよ。

 そういえばお父さんはあたしが小さい頃から準備が出来ていないことを嫌った。

 たとえば小学校の時間割とか。夜のうちにすませてないと必ず雷が落ちる。

 うっかり忘れて朝、体操着やリコーダーをあわてて探しているのをみつかるととひどく叱られた。

 家族旅行の時も、お母さんが出かけ前に手をとられていたりするとお小言が出た。

 最後の最後までお父さんはあたしたちに準備を強いる。 

 あたしがぐずぐずしている間におばあちゃんは出かける用意を済ませてあたしをうながした。


 病院のお父さんの部屋は一人部屋だ。名札には『友近敬志』とフルネームで書いてある。 広くはない部屋だけれど窓からは遠くに海が見える。海岸は見えないけれど沖にはヨットが数台気持ちよさそうに色とりどりの帆を広げていた。

「もう夏休みか」

 病室のベッドに半身を起こしたお父さんがふいに言った。学生時代バスケをずっとやっていたお父さんはあたしたちが生まれた後も体を動かすのが好きで、筋肉質のがっちりした体型をしていた。それがいまは嘘のようにお父さんはすっかり痩せてしまっていた。

 あんたダレって言いたくなるくらいに。

「今年の夏は優香も梨香もどこも連れて行ってやれないなあ。海なんてこんなに近いのに」

 お父さんにも窓の向こうが見えたのかもしれない。独り言みたいに呟いた。

 あたしは脇のスツールで足をぶらぶらさせながら聞こえなかったふりをした。梨香はお父さんのベッドに上がり込んで絵本を読んでいる。

「梨香ちゃんどこ行きたい?」

 お父さんがのぞきこむようにして聞いた。 梨香は素直に海とプールとディズニーランドと答えた。

 あたしも聞かれたらどうしようと身構えたけれどお父さんはまた視線を窓に向けた。

「来年は」

 お父さんはそして口をつぐんだ。空調の音。 席を立つのも白々しい気がしてあたしも海を眺めた。

 紺碧の海はまるで夏を早送りで連れてきたみたいに、白い入道雲を立ち上げている。日差しが強そうであたしは椅子に座ったまま手を伸ばしてカーテンを少しだけ閉めた。

 お父さんはもうなにも言わなかった。妹が時々読んでる絵本を指さしながら高い声を上げる。

 病室の中は清潔で、そしてエアコンがよく効いていて涼しい。窓から見る遠い海は太陽を受けて輝いてて潮の匂いもしない。


 夜の歩道は風がなく、足下のコンクリートはむわっと昼間の熱気を立ち上げている。

 別にどこへ行くというわけでもないのだけれど二十二時半という時間帯を考えれば人通りの少ない方へ向かうわけにも行かずなんとなく液の方へと歩いて行っていた。

 夏休みになって四日目。早寝する必要もなくなった。

 『生活の乱れ』を気にするおばあちゃんを上手にまるめこんで妹が寝た後三十分くらいだけという約束で自由にさせてもらっている。

 おとといとその前ははコンビニや終夜営業の本屋で時間をつぶしたけれど、うるさく寄ってくる人たちがいたりしてただぶらぶら歩いている方が面倒がないということをゆうべ学んだ。

 なのであてのないあたしはただひたすら近所をぐるぐる歩き回っている。止まったら死んじゃう水族館の回遊魚みたいに。

 海の中には戻れない。夜の街の中を。ただひたすらどこへ行くわけでもなく歩いている。

 目の前の信号が点滅して赤に変わる。待つまでもないのでサンダルのつま先を右に向けた時、偶然信号にもたれているクラスメートを発見した。

「あれ、有本くんだー。家こっちのほうなの?」

 思わず手を振って声をかけると、有本暢明はとても嫌そうな顔をこちらに向けた。Tシャツにジーンズで手ぶら。

 どう見てもどこかに行った帰りと言うよりはあたしと同じくそこらからふらっとあらわれた格好だった。

「うちはほんとは東花地区の方なんだけど。春休みからこっちにずっといるのに今まで1度も会ったことないね。あたしが朝とか遅いからか。うち長洲二丁目のとこ。有本くんは?」

 有本暢明は不機嫌そうに黙って立っている。少し待ってみたけれど返事はしてくれ無さそうだった。

「えーとぉ」

 有本くんはあんまりクラスの女子に人気がない。というか男子からも遠巻きにされている。あたしも同じクラスになった一学期の間に喋ったという記憶がほとんどない。

 球技大会の時になんかで業務連絡的に会話したくらいだ。

 愛想がないしいつも喧嘩の跡が絶えないし、今夜に限らずどこか苛立ってるような雰囲気がありむっつり黙ってろくすっぽ返事をしないからだ。

「どこ、行くの?」

 聞いてどうすんの、って顔をした。まあ確かに好奇心というか単に話題を繋ぐためだけの質問だった。

 ごめんね。でもあたしはちょびっとだけここでクラスメートに会ったのが嬉しかったのだ。たとえ親しくないというかこれまで全く接点の無かった相手であっても。

「んーと、じゃああたしもうちょっとふらふらするから行くねえ」

 曖昧に笑って手を振ってその場から離れようとした瞬間ものすごい勢いでキャミソールのすそをつかまれた、

「うぎょおおお」

 変な悲鳴が出た。

 有本くんはさっきより更に怒った顔であたしを見ていた。

「なにをするのー」

「お前はバカか」

 吐き捨てるように決めつけられてますますびっくりした。

「えー?」

「先週この駅前のビルで強盗殺人があった犯人まだ捕まってねえんだぞ。ふらふらしてる場合じゃねえだろ」

「えええええええ」

 そういえばおばあちゃんがそんなことを言ってたような? よく覚えてないけれど。

「こんな田舎でそんなことが……」

 キャミソールに短パン。そしてサンダル。確かにものすごく脳天気な姿でバカかもしれない。

「あたしの唯一のリラックスタイムがああ」

 本当に心底がっくりした。

 有本くんはあたしを黙ってみていた。

 がっかりしたけれどあたしに何かあったら、やっぱりだめだ。あたしも可哀想だけどお母さんはもっと可哀想だ。お父さんも可哀想だしおばあちゃんも妹も可哀想だ。

 帰るしかないのだけれど諦めきれずぐずぐずしていると、

「座れ」

 唐突に有本くんが口を開いて道路脇のガードレールを指さした。

「へ?」

 びっくりしているとそのまま有本くんは離れてゆく。なんなんだろうあの人は。紺色のTシャツは少し離れた自動販売機の前で止まった。白い光の中に治りかけたあざのある日焼けした顔が見える。

 なにか二つ、ペットボトルを持って有本くんは戻ってきた。ポカリスエットのペットボトルを黙ったままあたしにくれた。

「わあ、ありがとうおごってくれるの?」

 手の中に水滴のついた冷えたペットボトルがおさまる。有本くんは何も言わずにガードレールに腰かけた。

 なんだかよくわからないけれど、あたしも同じようにもたれかかった。どうやらまだ家に帰りたくないあたしに付き合ってくれるようだった。

 ポカリスエットを口に含むと甘酸っぱい味が広がった。

 見かけの割に意外と怖くない人なんだなあ。親切なんだなあ。

 けれどもしかしたらもしかしたら。たんに親切なだけじゃなくて。

 たぶん、この人も行くところのない人なのかもしれなかった。

「そういえば、ポカリの成分って点滴と同じなんだっけ?」

 どこかで聞きかじった知識を披露してみたけれど、応答はなし。

 その後はあたしのポカリスエットがなくなるまで、二人並んでずっと無言でぼんやりしていた。

 行き交う車のライトがあたしたちの背中を照らし出す。影が歩道に落ちる。とおりすぎていく人の靴音。不思議そうに見てゆく人。

 有本くんは時々携帯を触ったりペットボトルの中身を口に含んだりしたけれど、黙ったままだった。けれど不思議なことにちっとも気詰まりではなかった。

 あたしのペットボトルが空になると手を伸ばして持っていって自動販売機の横のゴミ箱にきちんと捨てた。

 おおお、学校では礼儀知らずと評判なのに、意外ときちんとしているんだなあと失礼なことを考えた。

 有本くんが歩き出し自然とあたしもついて行く形になった。交差点を渡り、歩道橋を越え二丁目のほうへ向かっていたからだ。

「有本くんも二丁目なんだ」

 町内会が一緒だ、と言うと有本くんはまた嫌そうな顔をした。けれどそんな態度にも慣れてきていたので怖くなかった。

「中学は長洲中でしょ? A組の松田つかさちゃんもだよね」

 あたしたちは、というかあたしが一方的に世間話を繰り広げ有本くんは聞いているのか聞いてないのか返事もなかった。

 そしておばあちゃんちのごく近くまで戻ってきてこんなに家が近いはずはない、とようやく悟って有本くんが送ってくれてたのだとわかった。 

「うわあ、ごめんね有本くん」

 有本暢明は呆れたようにため息をついた。

「……引き留めといて置いて帰ってもしょうがないだろ」

 面倒くさそうにぼやくけれど、不思議と今日は怖くない。

「ありがとね!」

 あたしは心からお礼を言ったけれど、有本くんは照れていると言うより不本意そうに首を振りやはり無言だった。

「あそこのねえ、柿の木がある家なの。もう見えてるからここでヘイキだよ」

 家を指さして見せたけれど返事はなかった。

 結局家の前まで送ってもらったけれど、有本くんは足を止めずそのまままっすぐ行ってしまった。

 ものすごくそっけないのに、妙に親切でなんだかおかしくなってあたしは玄関でサンダルを脱ぎながら一人でずっと笑った。


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