13/05/15(2) スポーツクラブ:こんばんは
法務局で旭と別れてからはCARPに直行した。
現在は前屈しながらストレッチ中。普段の日課をこなしているわけだが……俺がここにいる理由は昨日までと全く異なる。
なぜなら俺が今やっているのは「仕事」、それもマルコウである。
日中の旭に教えていた仕事は余興にすぎない。いよいよここからが本番なのだ。
俺が朝気づいたのは、過去に失敗して打ち切られたマルコウの工作記録。
打ち切った工作記録は誰でも閲覧可能、しかし誰も見る事はない。なぜなら、その中身は俺が二月に尾行を失敗した工作記録と似た様な代物ばかり。基本的には読んでも役に立たないゴミにすぎない。
だから俺も最初は無視した。観音が目を通していたから真似してみただけの話で。
──しかしゴミの中に、驚くべき聞き込みを記した工作記録が紛れ込んでいた。
【金本さんは仕事帰りにスポーツクラブ『CARP』に通っていると奥さんから聞きました。糖尿病の体調管理だそうです。毎晩帰りが遅いのを私も見ています】
聞き込みの日付は一昨年の二月下旬。担当者は俺の知らない職員、つまり入れ替わりで異動した人。決裁には上がっていなかった。
ここまでプライベートに踏み込める接点はそうそう見つかるものではない。もし三月に異動がなければ、決裁に上げるつもりで工作記録を作っておいたのだろう。しかし異動が確定したので握り潰したのだ。
これは公安庁だと、よくあるどころか当たり前の話。後任が引き継いでマルコウを成功させても、前任者はあまり評価されない。だから「他人に手柄を渡すくらいなら」と、自らマルコウを潰すのだ。
決裁してないのでシュレッダーしても構わないはずだが、手違いか勘違いで、うっかりキャビネットにしまいこんでしまったのだろう。
もっとも、これでマルタイがCARPをやめてしまっていたら意味はない。しかし幸いながら、そこはCARPに通い出した初日の時点で確認済だ。
何よりも今、俺はマルタイを目の前にしている。
──今日もウォーキングに励む頭ギラギラのハゲオヤジ。
あいつがマルタイである。
個人ファイルの写真は例のごとく粗く汚かった。しかしつるっぱげという大きな特徴があるのと、CARPでいつも本人を見ていたおかげで何とかわかった。
マルタイの本名は金達郎。通名は金本達郎。
肩書はマルセ神奈川県本部の出版部長。
出版部長は地位こそ高いけど、いわゆるあがりポスト。その実態は窓際の閑職で社内ニートに近い。既に野心は枯れてるはずなので、一応は条件もある。
観音がCARPに通い出した真の目的は金本だ。日誌を差し出した時の態度から間違いない。
しかし観音は金本のマルコウに着手していない。そしてここに俺を連れてきた。
つまり観音は……「君がやれ」と言っているのだ。
要するに観音は口に出して教えるつもりも命令するつもりもない。だけど俺が登録まで見据えた仕事を始めれば金本の存在に気づく。その場合に限り、すぐ動けるだけのお膳立てをしてくれていたのだ。
つまりは俺のやる気を試したということ。
全く随分と用意周到な真似をしてくれたよな、あの女狐。
いや、観音は俺を信じてくれたのだ。
きっといつかは、俺が自分の足で立つと。そこまで上司として器の大きい所を見せられれば、部下の俺もその期待に応えなくてはなるまい。
また、観音が何も指示を出さなかったのは「初回マルセツまでは自分でやってみろ」ということ。まずはそれを成功させないと、観音の志を無駄にすることになる。
──吉島さんが近づいてきた。
一瞬だけ歯を食い縛り、不安を噛み殺すおまじないをする。
「弥生さ~ん、こんばんは~。今日も頑張ってますね」
会う度に毎回話しかけていたおかげで、下の名前で呼ばれる程には仲良くなれた。
「吉島さん、こんばんは。今日も相変わらずお綺麗ですね」
「だから、そんな事言っても何も出ませんってば。全くもう。口が上手いんだから」
口こそいつものお世辞だが、彼女の姿は俺の目をすり抜けてしまっている。
心臓がばくばくする。前屈を深く繰り返して誤魔化す。
果たして俺の筋書通りに持って行けるか。怖い。考えたくない。
でもやってやる。
俺は今から吉島さんを利用してマルタイとのマルセツを試みる。
身分偽装での初回マルセツだと、マルタイに挨拶をして先方から返ってくるだけでも成功の評価を受ける。だけどそれだけじゃ芸がない。どうせなら更なる高みを目指してやろうじゃないか。
吉島さんがキャビネットから俺のカルテを持ってきた。
「弥生さん、順調に体重落ちてますね。停滞期も無事抜けましたし、素晴らしいです」
「現在七八㎏。遂に八〇㎏台を割れたのが嬉しくて嬉しくて。それでですね、今日からはウォーキングもやってみたいなあって思ってるんですけど」
本当に嬉しいだけに自然と笑顔になる。現在の自分にはありがたい。
「弥生さんってずっとバイクばかりでしたしね。いいと思いますよ」
「では早速今からウォーキングマシンの使い方を教えてもらえますか」
「いいですよ。それじゃマシンに行きましょうか」
よし、第一段階成功。
マルタイに一歩一歩近づくにつれ、胸の鼓動が大きくなる。
さて第二段階。
ここだ。いつも役所でやっている事を思い出せ。
「こんばんは」
マルタイに笑顔で大きな声ではきはきと挨拶をする。
「こんばんは」
マルタイがこちらを向いて挨拶を返してきた。これで最低限のラインはクリアだ。
一般人からすれば「対人恐怖症じゃあるまいし」と思うのかもしれない。
しかし俺達にすれば、挨拶一つですら神経をすり減らすのだ。
なんせ目の前にいる人物は一般人ではない。
対立している「敵」なのだから。
俺達の仕事は常に人権侵害。根拠法の破防法が憲法違反である一方、スパイ防止法の無い日本では敵国スパイだって善良な一市民。
現行法制上は、マルセこそが正義で俺達は悪なのだ。
抗議されても反論できない。真面目に仕事しても新聞から叩かれる。失敗が明るみになれば国会において名指しで糾弾される。加えて逆マルコウされる危険もある。
「敵」と交流するという事はそれだけのリスクを背負うという事。
一歩間違えば人生までも失う。社会的に殺される場合もある。書いた覚えのない遺書を残して「自殺」する場合もある。俺達はそうした恐怖を押し殺し、平静を装って会話しなければならない。その重圧は実際にやっている者にしかわからない。
しかも俺達は、その「敵」を「味方」にしなければならないのだ。
何はともあれ挨拶はうまく行った。いよいよここからが計画の山場だ。
「じゃあ吉島さん、マシンの使い方教えてもらえますか」
「このマシンは──」
表向きはうんうんと頷いてみせるも、説明は全然耳に入ってこない。
「──わかった?」
わかってないが、とにかく話題をつなげる。
「どのくらい歩けばいいんですかね?」
「有酸素運動には変わりないから最低二〇分。あくまでも自分に無理のないペースで続けて下さい。慣れればこちらの金本さんみたいに一時間頑張れる様になれますから」
「ハアハア、そうそう、こういうのは、ハアハア、まず続けるのが大事だからね」
──かかった!
そう、俺が狙ったのは吉島さんを利用してマルタイを会話に巻き込む事。面識のない俺がマルタイにいきなり話しかけるのは変だが、気さくな吉島さんを連れていけばマルタイにも話を振ってくれるだろうと考えたのだ。
「金本さんですか。流川と申します。よろしくお願いします」
「よろしく、ハアハア」
「金本さんは糖尿病でカロリーコントロールのために頑張ってるんですよ」
吉島さんが早速願ってもない話題を振ってくれた。
「え、そうなんですか。実は僕も糖尿病なんですよ」
担当者とマルタイに共通点がある事。実はこれも「条件」である。共通点があれば話も弾むから関係を深めやすいのだ。
吉島さんが大声を出して驚く、と言うかむしろ怒った。
「ええっ、糖尿病なんですか! それならそうと、カルテに書いて下さい!」
「ごめんなさい。恥ずかしくて」
「ハアハア、まだ若いのに、ハアハア、これから先、ハアハア、苦労するよ」
「先日カリウム不足でいきなり全身が動かなくなって救急車で運ばれたんですけど、その原因を調べるために検査したら糖尿病の診断を受けたんですよ」
この時は死ぬほど怖かった。実際にそのまま心臓麻痺でぽっくり逝く事もあると、医者から言われた。あの時の事を思い出すだけで、演技するまでもなく体がガクガクと震え出す。
「ハアハア、糖尿病は、ハアハア、カリウムが流れちゃう事あるからね、ハアハア」
「そうらしいんですよね。でも、なっちゃったばかりなのでよく分からなくて……また倒れたらと思うと不安で……金本さん、よろしければ色々教えていただけませんか」
ここで瞼を伏せながら俯いてみる。期待する答はすぐに返ってきた。
「ハアハア、ああいいよ、ハアハア、私で良ければ」
おっしゃあ!
「是非お願いしますね!」
無邪気にはしゃいでみせながら、心の中でガッツポーズ。
でもまだ気を抜くな。最後まで無事にやりおおせなくては。
「弥生さん、本当に仕方ないなあ。じゃあ予定より長めの時間でやりましょうか」
「はい」
頷きながら、吉島さんがセッティングするのを見守る。
「速歩……時速六㎞くらいでいいかなあ。今日はまず四〇分。そこから徐々に伸ばしていきましょうね」
歩きながら二人から糖尿病の話を色々と聞く。失明したり足が腐ったりとか怖すぎるんですけど。
よし、本気で生活改善に取り組もう。その方がマルコウも進んでいきそうだ。
ウォーキングを終えたマルタイが先に引き上げる。
これで今日のところは一段落だ。
……四〇分歩き終えた。
俺はシャワーも浴びず、CARPを後にした。
※※※
CARPの最寄り駅。トイレの大用に入って鍵を閉める。
「うげえええええええええええええええええええええええええええええええ」
がくりと膝の力が抜ける。
俺はそのまま床にへたり込み、体を壁に預けた。




