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12/05/05(1) 自宅:兄ぃ、大好きだよ

12/05/05 土 11: 30


 頬に暖かみを感じて目が覚める。

 陽射しが眩しい。置き時計を見るとまだ昼前。布団はふかふか。網戸越しに吹き付ける風は爽やか。再び目を瞑り手足を伸ばす。

 ──ぐはっ。腹に突然の重み。それと同時に生暖かい感触が布越しに伝わってくる。

「兄ぃ」声と同時に右頬がピシっと軽く痛む。

「兄ぃ」続けて左頬。右。左。右。左。

 どうやら往復ビンタを食らっているらしい。でも俺は起きない。ああ起きるものか。この幸せな一時は決して誰にも邪魔をさせないぞ。

「今すぐ目を開けないと後悔するよ」

 あれ? 妙に軽やかな調子の声。嫌な予感が走り、目を開ける。

「お、おお、おおおおおお、お前なあああああああああ」

 そこには俺にマウントしながら置き時計を振り上げる我が妹、皆実がいた。

「目が覚めた? だったら起きて」

「腹に五〇㎏の重しが乗っかってるのに起きれ──わかった、もうわかったから」

 振り下ろされた置き時計は、辛うじて鼻の頭すれすれで止まった。

「うちは四九㎏だから。これは一六〇㎝の美容体重というのをよく覚えておいてね」

 皆実は頬を膨らませつつ俺の腹からどいた。短く切った髪をかき上げる。

「ほら、とっとと立ち上がる、そして座る。素麺茹でてくるから待ってて」

 皆実は俺の肩をポンと叩くと、小走りで台所に向かった。テーブルには具もめんつゆも箸も並べられていた。後は茹でるだけのところで起こしてくれたらしい。

 ベランダには大量に干された洗濯物。ジャージにTシャツにパンツ。ああ、まさに洗濯日和だ……って。

 皆実が素麺と氷を盛りつけた皿を運んできた。

 よくよく見れば、皆実の格好は俺のTシャツ一枚。

「そのはしたない格好はなんだ」

「はしたない? ああ、下に短パン履いてるってば。ほら」

「捲るな。ついでにベランダの縞パンは俺の見えない所に干せ」

「道路側に干したら通行人から見えるじゃない。そんなのストーカー対策の一般常識です。兄ぃだって仕事でストーカーしてるんだからわかるでしょう」

「俺はストーカーじゃなくてスパイだ」

「他人をこっそり調べてつけ回すあたり、やってることは同じじゃん」

 これが一般人の認識だよなあ。もっともなだけに言い返せなくなってしまった。

 すると皆実がニッとしてみせ、外に跳ねた髪をくるりと捻る。

「ま、兄ぃがそういう仕事をしてくれてるから、うちも呑気に悪態つけるんだけどさ」

 ほろっと来る。一方で胸がチクリと痛む。

 皆実には、俺が庁内ニートとなってしまった事を話していない。もう役所はどうでもいいが、皆実の前でだけは立派な兄ぃでいたい。それが最後に残された俺の意地だ。

 本当は外見的にも立派な兄ぃでいたかった。でも皆実は太った俺を見て、何も言わなかった。それどころか目の前の素麺は超山盛。特に気にしてないのだろう。

 だったら俺自身はこのままでいい。デブになったからといって、俺の生活は以前と何ら変わらない。ならばデブを気にするのは無駄というもの。これは太ってみて初めてわかった世の中の真理だ。

 「いただきます」と手を合わせ、素麺に手を伸ばす。麺汁につけ、つるりと啜る。うん、この喉越しがたまらない。

「まったくもう。うちは兄ぃのメイドじゃないんだからね。いい加減にお嫁さん候補を見つけるか、自分で家事する習慣を身につけなよ」

「普段はちゃんと自分で掃除も洗濯もしてるし自炊もしてるんだよ」

 仏頂面で素麺をつるつる啜る皆実に言い返す。兄には兄の威厳というものが──

「そういうすぐばれる嘘はやめて。うちが来た時にはどこにも足の踏み場がなかったじゃない。脱ぎ散らかした服に半額シールが貼られた弁当箱の数々にペットボトルの山。どうやったら六畳の和室と四畳半のダイニングキッチンの空間にあれだけのゴミをばらまけるのさ。今回だけじゃない。いつも、いつも、いつだってそうじゃない!」

 ──あったはずなのだが、たった三秒で崩れ去ってしまった。

「だからお前が東京に来るための航空券を送ってやったじゃないか」

 皆実は一七歳の高校三年生で、鹿児島の実家住まい。長期休暇ごとに俺が旅費を負担して横浜に呼んでいる。それは皆実が小さい頃に俺が上京したから。実家を出るとき泣かれたのもあるし、久々に会って「お兄ちゃん、誰?」と言われたくないし。

 まあ幸い、今も昔と変わらず懐かれている……多分。

「その『だから』はどう掛かるわけ? 『掃除炊事洗濯をさせたかった』? それとも『かわいい妹の顔を久々にまじまじと見たかった』?」

「もちろん後者に決まってるじゃないか」

 それ以外の回答を許さないかの様に睨み付けるのはやめてくれ。

「よろしい。それなら今日こそはどこか遊びに連れて行ってくれるよね。なんせ月曜に東京に来てから今日までずっと朝夕食の支度にお弁当作りに部屋の大掃除。昨晩ようやく片付け終わるまで働き続けてきたうちに御褒美くらいあってもいいよね」

 皆実が捲し立てる。もし「食事中に箸を握りしめるのは行儀悪いからやめなさい」と注意しようものなら、即座にその握った箸を手に突き立ててきそうな勢いだ。

「わかったよ、仕方ないなあ。何処行きたいんだよ」

「んとね、秋葉原。ノートパソコン新調したくてさ。今使ってる兄ぃのお古じゃ最近はまってるネットゲーム、略してネトゲが重く──」

 手を突き出して先を遮る。

「その先は言うな。俺に金はな──」

 皆実に手を突き返される。

「ぐーぐるさんに教えてもらったところによると、メイド喫茶の日給相場は八千円」

 相変わらず口達者な奴め……とは言えない。

 本当は言われなくとも遊びに連れ回す予定だった。しかし昨日まで豪雨が続いた上に皆実が「部屋を片付ける」と言い張ったので、ずっとどこにも行かずじまいだった。しかもそのせいで、遊ぶための予算がそっくりそのまま残っている。さらに俺のお古のCPUはPen4と略される代物、もはや骨董品と言っていい。

 恐らく皆実のおねだりはこれらの事情を全て見越しての事。こいつはそれだけ頭が回る。だからと言って素直に「うん」と言うのは負けたみたいで口惜しい。

 口惜しいんだけど……。

「わかったよ、買ってやる」

「ありがとう! じゃあ着替えるから兄ぃも早く準備してね」

 皆実は顔を花開かせ、ダイニングキッチンへ向かう。そのまま引き戸を閉める──と思いきや、振り向きざまにニヤニヤと嫌な視線を投げてきた。

「兄ぃ、大好きだよ」

「とっとと着替えろ!」

 しかし俺の放った怒号は、ぴしゃりと閉まる引き戸に遮られた。

 やれやれ……テーブルの皿を重ねながら思う。

 兄は妹に絶対勝てない。

 これは能力云々の問題ではない。きっと世の中の真理だ。


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