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13/04/15(2) スポーツクラブ:正しい方法で計画通りに続ければ必ず痩せます

 現在、俺は横浜市某所所在のスポーツクラブCARPにいる。

 観音にヘッドロックをカマされながら。

 部屋の壁時計の針が定時を指すや、俺はダッシュで逃げようとした。しかし観音にタックルされて捕まり、頭を固められて引き摺られ、歩道でも、電車の中でも、そしてここでも、未だにずっとその体勢のまま。

 密着しているのに欠片も胸の感触を感じないのが、せめてもの救いだ。

「恥ずかしいから放して」

「放したら逃げるだろうが」

「おうちに運動着取りに帰らせて」

「弥生がそんなもの持ってるとは初めから思っていない。〝調活〟から出してやるからここで買え。『予対RYに対する手交金』とか『手土産代』で処理しておいてやる」

 調活とは調査活動費の略、いわゆる機密費である。

 調活は原則領収書無しで自由に使える。スパイ活動で使途を明らかにするわけにいかないからだが、その性質上、横領し放題という問題が存在する。これは日本政府における最もアンタッチャブルなマターの一つだ。

「たかがスポーツウェアの買物で政治問題になりそうな事を言わないで下さい!」

 観音がようやく放してくれた。

「冗談に決まってるだろ。まさかこんな金を調活で落とせるか」

「ゴホッ、ゴホッ……当たり前ですよ」

「靴とトレパンは買ってやる。無理矢理通わせるんだから、そのくらいはしてやるよ」

「できるだけ高いの選んでやる……」

「好きにしろ。私からのプレゼントだ、ありがたく思え。家に持って帰ったら布団の中で抱いて寝て『観音さあん』とむせび泣け」

「これから運動するんだから汗臭いに決まってるでしょうが。しかも自分の汗ですよ」

「私の汗の臭いが嗅ぎたいなら、終わった後に貸してやろう」

「いりませんから」

「残念だな、君に嗅いで欲しかったのに」

 観音が大きな体を竦め、しょげかえった。しかし、顔は思い切り笑っている。

「せっかくだし私が選ぼう。『若い』女性が選んだ物を使えばやる気も出るだろ」

 確かにそう思えるから不思議なもの。それはきっと、シノでも、旭でも、皆実でも、目の前の受付カウンターに座るお姉さんでも同じだろう。

「ではありがたく。ジャージの方がいいですね。ハーフパンツが好みです」

「汗をかくから撥水性に優れた物の方がいいな。うーん。黒しかないか。派手な色の方が体を動かす気分になるし、見た目を気にするからいいんだが。このあたりかなあ」

 観音がハンガーに掛かったジャージを次から次へ手に取る。なんて真剣な面持ち、俺のために……いや、駄目だ。騙されるな。絆されるな。これが悪魔の手口だ。

「弥生、靴は自分で最初に候補を選べ。サイズがぴったり合わないと意味がないから」

 候補をいくつか並べる。観音は相対してシューフィッターが如くしゃがみこみ、その中の一つを手に取る。そして顔を上げ、上目遣いに微笑んだ。

「よし、これにしとけ。単に私の好みだけど君に履いて欲しいな」

 やばい。今度こそ騙されそう。マルセの人達もこうやって篭絡されていくのかしら。

 値段も結構するな。例え無理矢理通わされる身とは言え、さすがに何かしらのお返しをしないとまずいか。しかし観音は察したらしく、茶化した様に口を開く。

「値段の事は気にするな。お返しも考えなくていい。君が痩せるのが何よりの恩返しというのを肝に銘じてくれればそれでいい」

「はあ……」

 それはそれで肝に銘じたくはない。

「それとも私に競泳水着を選んでくれるか?」

「選びませんから!」

「残念だな、君に選んで欲しかったのに」

 観音が顔を背けて拗ねた態度を取る。でもこれも絶対嘘だ。回り込んで覗き込む。ほら、やっぱり笑ってる。

「一段落ついたし入会手続するぞ。勤務先は私が契約している偽装会社にしておこう」

「わかりました。しかし、いかにも観音さんが好きそうなクラブの名前ですよね」

「うむ。名前もこのクラブにした理由の一つだ。オーナーは広島出身らしい」

「何でそんな事知っ──」

 ぶほっ! みぞおちに観音の体を預けた拳。その態勢のまま、観音が耳元にすっと顔を寄せてきた。

(尾行の時もそうだが、君はつくづく防衛意識が薄いな。何かを始めるにあたって、敵が関係してないか調べるのは基本中の基本だろうが)

 囁き終えた観音はすっと離れ、何事もなかった様に会話を再開した。

「ネット検索したらオーナーのブログがあった。そのブログを読んで私は感銘を受けた。もうタイトルからして『カープファンにあらずんば広島市民にあらず』だからな」

「ここは横浜市じゃないですか、しかもそれってどんな偏見ですか」

「そんなことはないぞ。焼け野原の広島で集められた樽募金。みんななけなしの金を入れたものだ。カミソリシュートで独り奮迅する長谷川投手は格好よかった。現役時代に首位打者を争っていた古葉選手が死球を食らった時は悲嘆にくれて大洋球団事務所に不幸の手紙を送った。球団創設以来Aクラスはたった一回。セリーグのウジ虫と蔑まれながら遂に果たした昭和五〇年の初優勝。平和大通りのパレードを眺めつつどれだけの広島市民が感涙にむせび泣いたか」

「産まれてもいない時代の話をまるで見てきた様に長々つらつらと語らないで下さい」

「うるさいな。私はプールに行く。見に来てもいいぞ、見たいだろ、遠慮しなくてもいいぞ、ありがたく私の痴態を目に焼き付けるがいい」

「行きませんから。しかも痴態って何ですか、怪しげな事言わないで下さい」

「まあ頑張れ。最初だしストレッチはじっくりとな。終わったら帰っていいぞ」

 観音はけらけら笑いながら女子更衣室に向かっていった。


 ふう、やっと解放された。

 着替えてからジムに入り、ストレッチを始める。

 ジム内を見渡す。あまり規模の大きくないスポーツクラブだからか、人はまばら。

 やたら目立つのはおっさん達。ウォーキングしているオヤジの頭が眩しい。バイクの人は汗だくだ。筋トレをしている人は歯を食い縛り黙々と励んでいる。しかし禿頭を除いたおっさん達はお腹でっぷり。先行きに不安を感じるほかない。

 カップルもいる。二人でバイクを漕ぎながらきゃっきゃうふふ。目障りなこと、この上ない。

 ガラス一枚隔てたスタジオではエアロビクスが行われている。

 インストラクターの女性に目が行く。俺と同じ年くらいかな。筋肉で飾られた躰に脂肪のない胸。そしてスポーツブラ。これはこれで最高の取り合わせかもしれない。

 エアロビクスが終わり、スタジオから出てきたインストラクターが挨拶してくれた。

「こんばんは~」

「こんばんは」

 挨拶は大きな声ではきはきと。我ながらつくづく身に染みついてしまっている。

 この人、近くで見るとかわいいな。かなり短めの髪でボーイッシュに見える。

「感じのいい挨拶ですね。ストレッチ手伝いましょうか」

「お願いします」

 インストラクターの胸にはネームプレート。【吉島】さんか。

 マットに座ると吉島さんが背に手を当ててくる。運動後のためか、かなり暖かい。

「いきますよ~、せーの……体硬いですねえ」

「あいたた、恥ずかしい。実は今日が初めてなんですよ」

「そうなんですか。良かったら筋トレやマシンの使い方を後で説明しましょうか」

「是非お願いします。こんな僕でも痩せられるんですかね」

 『僕』は仕事関係でも友人関係でもない場合に使っている。本当に痩せたいとは思ってないが表向きはやる気を示さないと。

「大丈夫です。正しい方法で計画通りに続ければ必ず痩せます」

 自信満々に言ってのけた。頼もしいな。

「では頑張ります。話は変わりますけど、年配の会員ばかりなのは気のせいですか」

「若い人達はもっと大きくて色々な設備が揃ってる所に通いたがりますから。でもうちも現在キャンペーンで対抗してるんですよ」

「あー、僕もそのキャンペーンを利用して入会しました」

「ありがとうございます。やはり彼女さんといらっしゃったんですか」

「いえ、職場の同僚です。数合わせとして無理矢理連れてこられました」

「あらら。でも体動かすのって楽しいですし頑張りましょうよ」

「吉島さんに教えていただけるなら頑張れそうな気がします」

「ふふ、お上手ですね」

 ストレッチの後はマシンの使い方の説明を受ける。

「基礎代謝を上げる必要があるので、まず筋トレを行います。軽く負荷が掛かるくらいにセッティングして一セット一二回でマシンを回って下さい。終わったら有酸素運動です。ウォーキングでもバイクでもいいですが、脂肪を効率的に燃焼させるため、最低でも二〇分は続けて下さい」

 スマホをいじりやすそうなバイクを選ぶと、吉島さんが使い方を教えてくれた。

「それじゃ頑張って下さいね、応援してますから」

 吉島さんは立ち去り、他の会員達に一人一人挨拶して回っている。時には周囲を巻き込んで何人かで雑談したり。気さくな人だなあ。

 さて、マッシュの雑談スレでも読みながら頑張るか。


 終わった。

 サウナに入ると、ハゲオヤジが修行僧の如く険しい顔で座っていた。頭は照り返してくるし、オヤジの裸なぞ見たくない。視界に入れない様にあえて隣に座る。

 シャワー室へ行く。目に入ったのはお腹でっぷりオヤジ集団。もっとキャンペーンに力入れようよ。

 あーでも、何だかふわふわしたいい気持ち。何かをやり遂げた後の心地よい爽快感。

 観音は終わったかな。

 せっかくだし、観音の競泳水着姿を見てみたい。何せ外見だけなら俺の理想。知られたらどこまでいじられるかわからない、だけどそれでも目に焼き付けたい。

 ──というわけで、こっそりプールに。

 観音は……いた。背が高いのですぐわかる。

 競泳水着は黒だった。スーツもそうだけど、本当に黒ずくめの印象。しかしながらそのシンプルさは、体型の良さを引き立てていた。ああ、普段はスーツで曖昧にされている見事なツルペタ。見ているだけで心が癒される。

 さて、見つかる前にさっさと帰ろう。

 皆実は今晩新歓コンパ。幸い家にいないしな。


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