13/04/08(1) 横浜喫煙室:役人である前に人間なんだから仕方ないさ
13/04/08 月 14: 00
いつもの横浜事務所。
観音は着任以来、大量のファイルを机に山積みにして一心不乱に睨めっこしている。今朝は過去の報告書。特に観音が引き継いだ客から以前入手した情報についてインプットしている様子。まさに先週末の話の有言実行と言うべきか。
──シノが決裁ばさみを手にして観音に声を掛ける。
「観音さん、忙しいところすみません。報告書に決裁お願いします」
観音ははさみから報告書を取り出すと、赤ペンを手にして書き込みを始めた。無言で素早く手を動かす様からは集中しているのが傍目にもわかる。
観音がはさみをシノに差し戻す。シノはおずおずとはさみを受け取りゆっくり開く──とそのまま固まってしまった。
報告書は真っ赤っか。赤線や赤文字で紙中がびっしりと埋め尽くされている。
「これって何でしょう?」
シノの口がようやく開く、しかしその声は上ずっていた。
「見て分からないか? 見ての通りの〝直し〟だが?」
観音はきょとんとしている。答え方からして、質問の意図すら飲み込めないらしい。
公安庁では報告書を決裁に上げると上司に添削される。これを直しという。
諜報における報告はわかりやすく誤解の余地が無い事が求められる。そのため日本語には徹底的に拘る。5W1Hは詳細に明確に。主観と客観は明確に。「てにをは」から用語の用い方、使う順序、並べ方その他色々と作法がある。
「いや、あの……これ全く原型とどめてませんけど……『。』しか残ってませんが」
シノの言葉は途切れ途切れ。報告書を持った手はぷるぷると震えている。
「『。』が残っただけでも上等じゃないか」
観音の台詞は本当。本庁の直しでは、若手だと『。』すら残らない。
「私、これまで直し入れられたことありませんけど」
観音のこめかみがピクッと動く……しかし視線は何故かこちらに向かった。
「弥生、車で付近を案内しろ。シノ、終えたら統括決裁に上げていい」
観音がそう言った時には既に、シノは鬼気迫る勢いでキーボードを叩いていた。
※※※
駐車場を出る。日本大通りを流しながら観音に確認する。
「マルセ県本部から川崎に向かってコリアタウンを適当でいいですか?」
「任す。しかしどうしたものか。これまでシノには誰も何も教えてないのか?」
煙草を咥える観音の機嫌は明らかに悪そう。やはり頭を冷やすためのドライブか。
ただ観音の気持ちはわかる。
シノは熱心に働いてはいるものの、実は仕事を知らない。それは俺が現場仕事を知らないのとは、また別の次元での話である。
例えばバレンタインの時でもそうだった。当日中に送らないといけない速報を、どうして翌朝書いているのか。しかも当日の晩は残業までしてたというのに。俺は同期で庁内ニート、何か言える分際でもないから黙ったけど。
「以前は知りませんが、ここ数年の上司はあの人ですしねえ」
「あの厨二統括がまともな指導するともできるとも思えないからなあ」
つまり旭に限らない。シノもまた、教育システムが不在という制度的欠点の犠牲者なのだ。上司の仕事を見て覚えるしかないから、上が無能なら下もそうなる。
「シノ自身は私から見ても生真面目なくらいに頑張ってますよ」
しかし知らないものは見えない。自らの欠点にも気づきようがない。その一方でなまじ仕事ができるとされてきたものだから、先週末に本日にと、余計にショックを受けたのだろう。
「シノとは研修の時にドライブ行ったりしたから知ってるけど、真面目だし気は利く子なんだよなあ。期待してたからこそ戸惑ったんだけど──」
頭を抱え込む観音が視界の端に映る。
「──そうか、いやそうだよな。私ももっと気を遣わないと。どうしよう……」
何だか落ち込み始めた。優しいのか、それとも人間が小さいのか。
「旭の真似でもしてみればいいんじゃないですか。シノって旭に懐かれて、困った様な顔をしつつも喜んでるふしがありますし」
「ん、そうだな」
第一京浜に入る。実質はただのドライブ。小春日和の陽射しが気持ちいい。どうせこのまま走り回るだけだし時間はたっぷりある。この際だし色々と聞いてみよう。
「観音さんはどうして横浜に来たんですか?」
「何を今更、君を助けるためだろ。テコ入れも本当に兼ねてるけどさ」
「そうじゃなくて。西条課長はともかく観音さんに私を助ける義理はないですから」
観音が「ああ」と得心した様子で答え始める。
「私は西条課長に借りがある身だから。あの人が行けと言うならどこへでも行くさ」
「借り?」
「西条課長は私が最初に行った現場の近畿局──大阪の調査第二部長だったんだよ。あの人がいなければ私の登録はなかった」
「どういう事でしょう」
「部屋の同僚達がよってたかって足を引っ張りに来たんだ。例えば、君達に話したのは二人目のマルタイ。一人目も有望だったけど、直属の上司に潰された」
「穏やかじゃないですね。具体的には?」
「私の工作記録をマルセの大阪府本部にファックスしたんだよ。マルタイから『どういう事だ』とファックスを突きつけられた時は固まるしかなかったなあ」
「ありえない……」
絶句するしかない。
観音は自嘲気味にけらけら笑っている。だけど絶対に笑い話じゃない。
「公安庁では私に限らずよくある話さ。『登録はできなくて当たり前』でまかり通ってるところに誰か登録しちゃったら、他の人のメンツは丸潰れじゃないか」
それがマルコウできないはずのキャリアとくれば尚更か。
皆実の言葉を思い出す。
(自分が絶対無理だと言ってる事を他人が成功させちゃったら、自らの無能を認めないといけない。そんなの嫌だからなかった事にしたくなるのが人ってものだよ)
いわば観音はマツコンで優勝したねぎか。でもこれはネトゲじゃないんだぞ。
「うちの職員に役人だとか公務だとかの自覚はないんですか」
「役人である前に人間なんだから仕方ないさ」
観音は事も無げに流す。もう悟ったと言わんばかりの淡々とした話しぶりに、俺の側まで怒ったり呆れたりするのがバカらしくなってきた。このまま話を続けよう。
「それで西条課長が助けてくれた、と」
「そそ。私が新しい予対を探して動いている間に、まず首席を味方に引きこんでくれた。さすがに首席は無視できないからさ」
「ですね」
「決裁は他の上司を無視して、首席に直接上げる様になった。さらに西条課長は登録に必要な根回しや調整はもちろん、尾行や監視まで手伝ってくれた」
「西条課長自らですか」
そんな現場仕事を幹部がやるなんて聞いた事がない。しかもあのダンディな課長が。
「そういう人だから人望もあるし、出世コースにいるんだよ」
「なるほどなあ……」
「私も自分の苦労話はしたくない。この辺りで勘弁してもらえないか」
苦労話は一つの自慢話だからか。容姿外見については自慢しまくってる癖に。
観音は煙たくなったのか、窓を僅かに開ける。心地よい春風が吹き込んできた。
「まあ、横浜行きはむしろ喜んで受けたよ。私は現場の雰囲気が好きだからさ、お堅い本庁と違って自由だし大らかだし」
「それはありますね」
「何たって誰も見てないんだから遊び放題のさぼり放題。家から近いマルタイ見つければ、スーパーマーケットのお惣菜半額処分セール夕方の部だって間に合うし」
ちょい待てや。
「初めて会った時、私をバカヤロ様呼ばわりしたのはどこの誰ですか」
「あれは手を抜きたいのがバレバレなのに身の程知らずの相手に手を出したから叱ったんだ。さぼりたいならさぼりたいで、もっと相応の予対を立てろ」
「じゃあ言わせてもらいます。観音さんの集中した勤務態度見てたら『さぼる』って言葉が全く似合いませんけど」
「定時に帰りたいからこそ勤務時間は集中してるんじゃないか。役所なんてブラック企業も同然、残業代が出ないのに残業するなんて馬鹿馬鹿しいわ」
「仕事がなければ帰る」という選択肢がある分、ブラック企業よりはマシだと思う。
「なんかこう、意外な台詞ですね」
むしろキャリアであることに自負を抱いて残業しまくるタイプと思っていた。俺だって段原補佐と対立するまではそうだったし。
「そうかな? 容姿外見性格と完璧な私に君が抱くイメージはわかるけどさ」
「自分で言わないで下さい」
あと、性格は絶対に難ありだと思う。しかし観音は俺の言葉を無視して続けた。
「私は出世に興味ないし野心もない。母親に仕送る金と弟の学費さえ稼げればいい」
これまたイメージにそぐわない健気な台詞が聞こえてきた。
「でも実績は上げてるじゃないですか」
「その場限りでは『負けたくない』って熱くなっちゃうだけだよ」
「負けず嫌いですねえ」
「まあなあ……だけど元々が広島で一生のんびり暮らすつもりだったからさ」
「じゃあどうしてキャリアに? と言うか、公安庁に?」
「国家一種は県庁の予行演習で受けただけ。公安庁入ったのは誘われたから何となく」
めちゃめちゃ行き当たりばったりじゃないか。
観音はうららかな陽射しに眠気を誘われたか、欠伸を噛み殺す。
「ふわ──あふ。まあ、今回は事情が違う。シノは信用できるし、厨二統括は昼行灯のお人好しだから警戒する必要もない。せいぜい羽を伸ばさせてもらうさ」
「千田首席はどうでしょう」
「本当に段原補佐と仲がいいなら面倒だな。いずれ千田首席から何らかのアクションがあると思うし、それ次第ってとこ」
「はい」
「君は君で考えて動けばいいよ。今は私がいるんだからさ」
つまり「何もするな」という役所言葉か。実際に西条課長は観音に甘えろと言ったし、やれと言われても困ってしまう。それ以前にそもそもやりたくない。
「わかりました」
観音が煙草に火を点けてから、さらに窓を開ける。
「それとだな、君にはダイエットしてもらう」
「はい!?」
「そう、それでいい。この件に関しては『はい』以外の返事を許さない」
「同意の『はい』じゃないから! 何を理不尽な事言ってるんですか!」
つい声を荒げてしまう。でも当たり前だろう。一体どこの職場にダイエットを部下に命じる上司がいるっていうんだ!
「『はい』と言え。言わないなら三良坂課長や段原補佐の代わりに私が君を潰す」
「私がダイエットしようとすまいと観音さんには関係ないでしょうが!」
「大いに関係ある。私はデブが大嫌いだ」
「勝手に嫌えばいいじゃないですか」
しかし観音は俺の言葉を無視して、うだうだと続けていく。
「もちろん一部には病気等で仕方ないデブもいる。だけど多くのデブは痩せようと思えば痩せられるのに何もしない。しかもその怠惰を全身で表現している。要するに甘ったれなんだ。見ているだけでむかついてくる」
チラっと横目で見る。観音の目は完全にすわっている。
「私は糖尿病ですけど『仕方ないデブ』に入りませんか」
「今すぐ痩せろ!」




