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13/03/26    横浜オフィス:イエス マイ ロード

13/03/26 火 09:20



 本日も始業時刻一〇分前に役所に到着。これは本庁だろうと現場だろうと、役人に求められるマナー。「役人の仕事は一に時間を守ること」、ここだけはジョークではない。外務省を除いた霞ヶ関共通のルールである。

 席につくと、向かいの観音が机に顔を突っ伏していた。長い髪が広がり垂れ下がる様はまるでサダコ。右を向いて、隣席に座るシノに聞いてみる。

「何これ」

「さあ? 私が朝番で出勤した時には、既にこの状態だったけど……」

 朝番は午前八時三〇分出勤。つまり観音はそれ以前から出勤していたことになる。

「そんな朝早くから?」

 観音の唸り声が聞こえてくる。

「うー……しょっぱい……肉が固い……さらさらしすぎて味が薄い……匂いがきつい……臭い……胃に来る……吐きたい……」

 とりあえず、カレーを食べたことは理解した。シノがちらりと哀れんだ視線を観音に向ける。

「多分眠れなかったんじゃないかな。下手に寝ちゃうとまずいから早めに来たんだよ」

 俺達は全員翌日休んだのだから見上げたもの。だが、しかし。

「無理をおして出勤したところで、今の時期に仕事なんてないのに」

「それだけ真面目なんでしょ」

 ん? 机に広がる長い髪の下に、文書が見える。タイトルは【漫画・アニメ・ラノベ名台詞集】。手にとり、開いてみる。

 文書の中には台詞とその出典がずらりと並んでいた。赤ペンと青ペンでびっしりと矢印やコメントが記入されている。【赤:土橋統括の予想される台詞 青:私が返すべき台詞】、台詞の横には【胸を張って】、【切なそうに】、【上目遣いで】などなど……。

 横から覗き込んでいたシノが口を開く。

「土橋統括の趣味に合わせた想定問答集みたいね」

「国会答弁じゃないんだから」

「それだけ真面目なんでしょ」

 お前、その台詞さっきも言ったぞ。この人が何かを間違えてるとは思わないのか。

 観音の傍らにはメモが一枚。

【始業時刻になったら起こして下さい】

 もうすぐ九時三〇分の定時。

「シノ、どうする?」

「寝かせといてあげようよ。どうせ仕事ないんだし」

「そうだな」

 ──外事班、つまり旭の上司の白島統括が呼びかけてくる。

「弥生ちゃ~ん、少しいい?」

「何でしょう?」 

「ほら、例の旭ちゃん教えてくれた御礼。頼まれてたの手に入ったよ」

 そう言って、円盤の入ったケースを二つ手渡してくる。

「おお! ありがとうございます!」

「弥生ちゃんもマニアックな趣味してるねえ」

「こっちはどうやってこんなの入手してくるのか聞きたいです。そもそも、どうやってその身分で情報取ってくるんですか……」

「エロは男性の世界共通の趣味だからね。これで落ちない男はいないよん」

 白鳥統括の偽装身分はAV評論家。偽装とは言ってもあちこちの雑誌にペンネームで署名記事を書いており、本職と言っても過言ではない活動をしている。

 そして俺が受け取った銀盤は、裏に流出したエロDVD。こちらは純粋に仕事絡みで怪しげなルートに通じているらしい。

「元々は只の趣味ですよね。まさかここまでの偽装をしてみせるとは……」

「スパイ仕事って自分の趣味をどれだけ活かせるかも大事よん」

「はあ……」

「きっつい仕事なんだからさ、仕事と思ってたらイヤになるって。趣味を兼ねた遊びと思えるくらいじゃないとさ」

「そうだぞ、弥生」

 何かを間違った女性がいつの間にか横にいた。起きたのか。

「白島統括、お久しぶりです。御指導御鞭撻の程よろしくお願いします」

「観音ちゃん、お久しぶり。係は違うけどよろしくね」

 観音の深々とした一礼の挨拶に統括が笑顔で応じる。

「あれ? 知り合いなんですか?」

 観音って外事にいたことはなかったと思うけど。

「西条課長つながりだよ。白島統括はしばしば本庁に呼ばれてるからさ。うちって小さい役所だし、本庁にいるとすぐ顔が広がる」

 俺も本庁いたけど、そうでもないぞ?

「顔が広がるのは観音ちゃんが美人だからの間違いでしょ」

「そんな大した顔でもありませんから」

 表情一つ変えずさらりと流す。俺の前ではさんざん自慢してたくせに。

 観音が視線をこちらに振る。

「さっきの話だけどな。この仕事は相手に合わせるのも大切、でもその一方で自分の土俵に乗せることが求められるんだよ」

「はあ」

 何やら語り出した。

「情報を引き出すためには、どこかで自分が優位にならないといけないからさ。好きな分野であれば自信をもって偽装できるだろ」

 現在のあなたが言っても全然説得力ありませんが。土橋統括の土俵に思い切り乗せられてますやん。そう返したいのを飲み込む。

「だからと言ってAV評論家ってのは……」

 いくらなんでもうちの仕事と遠すぎるだろう。しかし観音は首を横に振る。

「うちの偽装ときたら『シンクタンクの研究員』だの『フリーライター』だのばかりだろう。実際に私もそうだけど、あまりに芸がなさすぎる」

「それはさすがにテンプレすぎて、情報機関の職員と自白してる様なものですけどね」

 かと言って本格的に偽装するとなると、公務員の副業禁止規定がネックとなる。マルコウの度にその許可をいちいち取るわけにはいかないし。バカバカしい話だが、うちだろうとマルケイだろうとやっぱり公務員なのだ。

 ここで白島統括が口を挟んできた。

「AV評論家だって同じだよ。どこの世界に中国やロシアの事情を知りたがるAV評論家がいるのさ。何を名乗ろうと質問した時点で正体明かす様なものだって」

「それって偽装の意味ないじゃないですか」

「明かすまでの間に打ち解けやすいでしょ。猥談嫌いな男はまずいないから。加えて下半身事情を探りやすいし、女もあてがいやすい」

「それは確かに」

「あくまで偽装は情報を取るためじゃなくて懐に飛び込むためのものだからさ。仲良くなった後はバラしても構わない。難しいのはそのタイミングなんだよ」

 よくわからん。すると観音が付け加えた。

「理想的なマルコウは明示ですからね。身分を明かさないと深い話をダイレクトに聞けないですし、マルタイを思惑通りに動かしづらいですから」

 シンクタンクやマスコミの立場で聞ける話は、そういう人達に聞くなり、そういう出版物を読めばいいということでもあるか。

「麻薬取締官みたいに自ら潜入して調査するなら、また別だけどね。ボク達がやってるのはあくまでスパイ獲得工作だから、偽装の意味合いもまた違ってくるって話」

「勉強になります。それで弥生、どんなのもらったんだ?」

「あっ!?」

 話がこっちに振られたと思いきや、観音は俺の手から円盤を奪い取っていた。そのまま円盤のタイトルを大声で読み上げる。

「『やはりお前の黄色いスパッツはまちがっている』、『先輩てんまがわのスパッツ姿がこんなに可愛いわけがない』、失礼な。私のスパッツ姿は可愛いぞ?」

「題名を読むのも読み替えるのもやめて下さい。シノも旭もいるんですから!」

先輩どばしとうかつのスパッツ姿がこんなに可愛いわけはない」

「キモイからやめて下さい!」

「想像しちゃったじゃないか!」

 白島統括までもが叫んだ。

「弥生ってスパッツフェチだったんだな。私もスパッツは黄色より黒だと思うぞ」

「職場で女性上司とこんな会話させられるなんて、どんな羞恥プレイですか」

「そう思うなら私のいない場所で話せ。私だって『若い』女性なんだから」

「以後気をつけます。それでカレーはどうでした?」

「実におつな味だったよ」

 「乙な味」の間違いだろ。まったくこの人は口が減らない。

「天満川さん~、ちょっと来てくれるぅ~」

 土橋統括の呼びかけに応じて観音が向かう。

自席に戻り業務日誌を書く。すると、土橋統括の怒鳴り声なんだろうけど決してそうは聞こえない、ぬた~っとした大声が聞こえてきた。何事? 頭を上げる。

「メイドをなめるなぁ~」

 何をやらかしたのか。昨日の挨拶回りの時と同じく、観音の肩はぷるぷると震えている。しかし観音は跪くと、右手を前に回しながらうやうやしく一礼した。

「イエス マイ ロード」

「まったくもうぅ。もっと自分のキャラってものを考えなよぉ。ぷんぷん」

 確かに観音ってメイドというよりは執事だが……土橋統括が台詞を放ったその瞬間、観音の背に回した左拳が血管の浮き出るほど力一杯握りしめられた。

 俺はそれをこの目ではっきりと見た。


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