11/07/21 本庁オフィス:キャリアさんはいいなあ
11/07/21 木 13: 05
法務省庁舎一階エレベーターホール。エレベーター入口上方の掛け時計に目を遣る。
一三時五分。まずいな、午後の始業時間を過ぎてしまっている。
隣に立つのは調査第二部第三部門、略して二‐三の西条管理官。二‐三は俺の所属部署、管理官はいわゆる課長職。すなわち西条管理官は俺の上司だ。
現在は西条管理官からランチを奢ってもらった帰り。時間は管理官任せになるから、本来なら遅刻しても咎められない。しかし俺についてはそうも言っていられない。
──エレベーターが到着。
西条管理官が先に乗り込む。颯爽と歩く様が仕立てのいいスーツに見合っている。定年まで残り数年の貫禄も相まって、総白髪をオールバックに決めてみせた風貌はダンディと呼ぶに相応しい。
続いて乗り込む、操作盤前に位置取って【6】をタッチ。
エレベーターには他に誰もいない。
扉が閉まる、それを待っていたかの様に西条管理官が口を開いた。
「弥生、美味しかったな」
「弥生」と下の名前で呼ばれる事には抵抗がある。
西条管理官に限った話ではない。庁内では同僚全員からそう呼ばれている。しかし役所では目下に対して苗字でお堅く呼ぶのが本来の姿。そして俺には「流川」という苗字がちゃんとあるのだから。
皆は「親しさを込めてだよ」と言う。でも実際は面白がっているだけだ。くりくり目な女顔に女っぽい名前とくるから仕方ないけど。
視線を少し上げ、西条管理官と目を合わせる。
「土用の丑の日はやっぱりウナギですね。味もさすがは銀座の老舗、大満足です」
「そうか、そうか」
西条管理官が笑う。一見して冷たげな、一重まぶたに縁取られる三白眼。しかし下げられた目尻には、はっきりと温もりが感じられた。
二‐三に到着。西条管理官は軽く手をあげ、管理官室に入っていった。
音を立てない程度に足を早め、自席へ向かう。
「奴」が視界に入る。向かい席の班員と話をしている様だ。
──自席到着。隣席の上司、段原課長補佐(略称、補佐)に頭を下げる。
「すみません、遅れました」
「いいよ、別にさあ──」
爪で黒板を引っかいたような、甲高く不快な声。
顔を下に向けたまま、ちらりと前方を見る。
段原補佐はこちらを向き、薄ら笑いを浮かべた。
「──僕も管理官に注意するわけにいかないしねえ。キャリアさんはいいなあ」
やっぱりきた、また始まった。何かあるとすぐこれだもの。
俺達は元々ウマが合わない。もう生理的にダメってやつだ。そこにキャリア対ノンキャリアとくるから尚更である。
キャリアとは国家一種試験(現国家公務員総合職試験)に合格して採用された幹部候補職員。世間的には「キャリア官僚」と言えば通りが良いだろうか。一方のノンキャリアは国家二種試験(現国家公務員一般職試験)その他の資格によって採用された職員。段原補佐は入庁三十年を超えるノンキャリアである。
キャリアとノンキャリアは例えて言うなら新幹線と普通列車。昇進の速さも出世のゴールも大きく異なる。俺は今年四年目だが、あと四年もすれば段原補佐と肩を並べる。そして公安庁だとキャリアは全員が「指定職」──本庁課長級の更に上まで昇進するが、ノンキャリアはほぼ本庁課長補佐級止まり。
つまり霞ヶ関では採用資格による徹底したカースト制度が敷かれている。デリケートな問題だけに、俺は黙るしかない。
すると段原補佐は調子に乗った。
「でもうちは三流官庁だからさあ。君も所詮、三流キャリアなのは自覚してねえ」
どうして自分の職場を三流と恥ずかしげもなく言えるのか。
確かに公安庁は霞ヶ関で三流どころか底辺とまで言われる官庁だ。
でも自分達の手で一流にすればいいじゃないか。俺はそれだけの志を持って公安庁に入ったつもりだ。現実はもちろん甘くない。だけどまずそう思わないことには始まらないじゃないか。
まあいい。事実として遅れた以上、非は俺にある。下げていた頭をもっと下げる。座っている段原補佐の目線よりも下まで。そして大きな声ではっきりと言い放つ。
「御迷惑お掛けして申し訳ありませんでした、以後気をつけます」
段原補佐がふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。それと同時に椅子の輪がすっと動く。ああ、ようやく席に座れる。
さて仕事しよう。ノートパソコンを開き、電源を入れる。
すると隣から話し声が聞こえてきた。
「さっきの続きだけどさ、僕は『マルコ様』推しなんだ」
「いいですねえ。背が高くすらっとしてて、まさにアイドルって感じで」
何を話してたのかと思えば。一体どのツラ下げて俺にイヤミを──いや言うまい。
霞ヶ関では「役人の仕事は一に時間を守る事、二に不祥事を起こさない事、三に椅子に座って何もしない事」と言われているくらいだし。
もちろんブラックジョークだけどな。
OSが立ち上がった。【合同情報会議用】と名付けた文書ファイルを開く。軽く息を吸い込み、ざらりとキーボードをなぞる。
本庁の業務は〝現場〟と呼ばれる地方支局が入手した情報の分析。具体的には情報自体の真偽を判断したり、他の情報と合わせてその裏に隠れている事象を洗い出したり、敵の出方について予測したりする。
これら一連の作業が世に言うインテリジェンス──諜報である。
俺の所属する二‐三は〝マルセ〟を担当している。マルセとは「某国とその在日組織の双方」を指す庁内の隠語だ。
マルセは我が国に向けてミサイルを度々発射し、戦争も辞さないと恫喝している。加えて水面下では、日本を害する活動を色々と実行している。それは決して過去の日本人拉致だけではないし、終わりでもない。
はっきり言おう、日本とマルセは既に戦争をしている。
ただし、その武器は銃やミサイルではない。
「情報」である。
俺達は情報を入手するため、マルセ内に〝客〟を作ったり送り込んだりしている。客とは密偵、世間におなじみのスパイそのものである。そしてその情報を官邸──政府中枢に報告する事で、俺達はマルセの脅威から日本を護る一翼を担っている。
俺は今年四月、現場での二年にわたる研修を終え、二‐三に配属された。
花形部署ゆえ熱烈に希望していたところ、西条管理官が「頑張れ、期待している」と叶えてくれたのだ。期待してくれたからにはそれに応えるのが男というもの。そう思いつつ、日々の仕事に取り組んでいる。
よし、文書完成、プリントアウト。
「の」の字に力を込めながら印鑑を押し、決裁ばさみに入れる。そして隣席の、未だに閉じられたままのノートパソコンの上にそ~っと置く。
ふう、一息入れよう。流しへ行き、ポットからコーヒーを注ぐ。
いい感じの苦み。これから一悶着あるだろうし、気合を入れるには丁度いい。
──流しから戻るやいなや、ダンッと激しい炸裂音が部屋中に響く。
俺の机には先程の決裁ばさみが叩きつけられていた。
顔を真っ赤にした段原補佐の手によって。
「弥生君、この文書は何かね」
案の定だ。あえて棒読み口調、ゆっくりと題名を諳んじる。
「【マルセによる野党工作並びに政治献金が行われた国会議員のリストについて】」
この野党はマルセに対して強硬路線を主張する自明党。与党の民生党は内部分裂の危機をはらんでおり、遠くない将来に自明党へ政権を明け渡す──つまり反マルセ政権が誕生する──ことが確実視されている。そのためマルセでは自明党内にシンパを作り上げるのが急務となっているのだ。
「見ればわかる。君は永田町に政争を引き起こしたいのか、と聞いてるんだ」
情報機関は政治的に中立であるべし。これは俺達の世界で基本とされる姿勢であり、政治問題に関わる情報を扱うのをよしとしない職員も多い。段原補佐もその一人だし、当然その言い分にも理はある。
「私達の職務は、日本を脅かす情報があれば官邸に報せることです。結果的に政争が起こったところで使う側の問題でしょう」
しかし本来はこれがあるべき姿。悪いのは俺達じゃない。モラルを有しない政治家の方だ。
「そんなの綺麗事じゃないか。その後に担当の僕達がどうなるか考えろ。どれだけの後始末に追われることか。責任とらされて飛ばされるまでありうるんだぞ」
「火中に飛び込んでこそ役所の存在をアピールできるんじゃないですか。政争になるなら尚のこと。マルセの実態が広まる事で、国民にも私達の仕事への理解が得られましょう」
それが当庁の地位向上につながるし、ひいては国民の安全にもつながる。どこの世界にこれだけ敵国スパイからされたい放題の国があるんだ。
段原補佐が小さく細い肩をわなわなと震えさせる。背が低く歯も出てるから、まるで雨に打たれたネズミの様だ。
部屋中に俺達二人の大声が響き渡る。
段原補佐の言葉数は段々と少なくなってきた。
勝った、そう思った瞬間だった。
「弥生君が何を言おうが、この文書は決裁に上げない」
段原補佐は文書を手に取り、歩き始めた。向かう先にあるのはシュレッダー。
ゴウっと唸りながら文書を呑み込んでいく。
段原補佐がちらりと目線をよこす。あてつけがましく手をパンパン払うと、無言のまま席に戻っていった。