13/02/14(6) ホテルラウンジ:世の男性はああいうのを喜ぶんじゃないのか?
「はいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」
まったく予想だにしなかった台詞。
観音が人差し指を立て「静かに」とジェスチャーしてきた。
「先だって三良坂課長が君の調査を人事課に要請してきたんだ。君がマルセに機密情報を流している疑いがある、動機として左遷の逆恨みが考え得るとな」
ふざけるな。横浜に飛ばして庁内ニートにしただけじゃ、まだ足りないのか。
「根も葉もない言いがかりです。うちの情報がマルセに漏れているとでも?」
はっ、と観音が失笑する。
「何を今更、ずっと漏れっぱなしじゃないか。君の入庁する前の話だけど『新聞記者マルセ拘束事件』は知ってるだろ」
もちろん知っている。一九九九年、当庁と内調の客だった新聞記者が、マルセ本国を旅行中にスパイ容疑で当局から拘束された事件。この事件では、同記者が当庁に提供したはずの写真やビデオ等の資料が、悉くマルセ側に渡ってしまっていた事実が明らかになった。入庁前の事件なので、それ以上の詳しい話は知らないけど。
「確かにあの事件は当庁内にマルセの二重スパイがいた証拠です。でも、あくまで昔の話でしょう」
「今も同じだよ。『ザル』という表現が全くふさわしい」
観音が顔をしかめる。苦虫を噛みつぶすとはまさにこの表情だ。
「でも情報漏洩があったとして、庁内ニートの私に何が提供できるんですか」
「そんなのどうとでもなるだろ」
あっさり返されてしまった。質問を変えよう。
「三良坂課長はどうしてそんな嫌疑を?」
観音が二本指を立てる。
「二つ考えられる」
「聞かせてもらえますか」
「一つは風説の流布。噂が一旦広まれば勝手に根も葉もついてきて何時の間にか真実になる。そうなると、他者を攻撃する正当な理由を得た人達ほど恐ろしいものはない。君は職員達から憂さ晴らしにいじめ抜かれて依願退職に追い込まれるだろう」
それって、ねぎのマツコン騒動そのまんまじゃないか。
「もう一つは?」
「その前に私から聞こう。君はどうして外の仕事に出られたと思っている?」
「福山首席の栄転が決まったから」
「やっぱりその程度にしか考えてないのか」
観音が「あーあ」とでも言いたげに頭を振る。
「やけに含みがありますね」
語気を強めてみる。しかし観音は全く意に介さない様子で平然と答えた。
「三良坂課長が裏で糸を引いているんだよ。具体的には二重の罠。現場慣れしてない君が外に出てトラブルを起こせば更なる攻撃の口実にできる。トラブルを起こさなくても、君がマルセと接触すれば二重スパイの証拠として論う事ができる」
「もう滅茶苦茶じゃな──んがんぐ」
思わず声を張り上げかけたら、体を乗り出した観音に口を塞がれた。
「その思惑に乗って実際にトラブルを起こしかけたのはどこの誰だ」
「んが、もご……はあ。だって、まさかばれてるとは思わないじゃないですか」
俺の口から手を放した観音は、姿勢を戻しながら嘆息をついた。
「はあ。説明してやるから、よく聞け」
「はい」
「出勤だと毎日ほぼ同じ時間に同じ顔ぶれでバス待ちをする。その中に見た事のない顔があれば、防衛意識の高い人なら警戒するよ。どうせ同じ電車に乗るのだから道中は確認するまでもない。あとはホームでマルタイがやった通りにすればいいだけ」
説明を終えた観音は一息ついてから呟く様に付け加える。
「経験浅いとありがちなミス。私にすれば見なくともわかるレベルの話だ」
「なるほど」
そういえば一部分は、俺もマルタイに同じ事をした様な。自分がやられる側に回るとわからないものだ。
「なるほどじゃないよ。あいつの役職を言ってみろ」
「県本の組織部長です」
「そんなの防衛意識高くて当然だろうが。では、どうしてあいつを予対に選んだ?」
「……家から近かったからです」
情けないけど本当にこれだけ。めんどくさいし、さぼりやすいし。
「このバカヤロ様が」
返す言葉もない。質問を変えて話題を逸らそう。
「大体、何で三良坂課長が面識もない私にそこまでするんですか。段原補佐に頼まれたにしてもしつこすぎるじゃないですか」
観音は腕を組んで首を傾げると、「あくまで私の想像だけど」と切り出した。
「見せしめじゃないかなあ。『神様』を茶化した罰としてのさ」
「それって、まさかそんなことで……」
意外というか、呆れたというか。とにかく言葉が続かなくなってしまった。
「十分ありえるよ。君と面識のなかった私すら神様の講話を知ってるくらいだし。検事に反感を抱くキャリアは君だけじゃないから一罰百戒を狙ったんじゃないかな」
その「一」に俺を選ぶなよ。そう思ったら観音がけらけら笑い始めた。
「そんな顔するなって。検事が本気なら、今頃君は無実の罪で塀の中だよ」
「洒落になってませんから」
「洒落どころか事実だろう。まだ、そこまでは深刻じゃないってことさ」
「それって慰めになってませんから」
「慰めるつもりはないけど助けるつもりはあるぞ。だから私はここにいる」
あなたの態度はどう見ても人を助けるつもりがある様には見えません。
「もったいぶらずにお話しいただきたいのですが」
「君と同じく、と言うべきかな。私は西条課長の子飼いなんだよ」
ここは驚くところじゃない。そうでなければ観音はここにいない。
「それで?」
「西条課長は君を助けるために『キャリアの問題はキャリアで解決する』と建前を講じて、私に仕事を命じたのさ。三良坂課長が引き下がる様な報告書を作成しろって」
「把握しました、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。離れていても西条課長から気に掛けてもらえた事が心から嬉しい。もちろんその意向を受けて動いてくれている観音にも感謝するほかない。
「君の事は色々と洗わせてもらった。悪いとは思うけど、報告書を全て捏造するわけにはいかないんでな。今朝の一件は、その過程でたまたま出くわしただけだ」
「それは構いません。では今後私はどうすればいいでしょう」
「当面は喫煙室警備を続けろ。何事もなく終わればそれに越した事はない──」
観音がコーヒーに口をつける。
「──だけど私の読み通りなら、福山首席が何らかの理由をつけて外回りをせっついてくる。その時は何とか逃げ切れ」
「『何らか』とか『何とか』って何ですか」
観音がコーヒーをごくごくと一気に飲み干した。
「その時になってみないとわからないだろ」
それもそうですね、と俺もコーヒーを飲み干す。
コーヒーはすっかり冷めきってしまっていた。
──観音が目を瞑る。再び見開かれた瞳には更なる苛烈な光が宿っていた。
「今度は私から聞きたい。君は本庁に帰りたいか」
「帰りたいに決まってるじゃないですか!」
当たり前だ。どうして俺がこんな理不尽な仕打ちを受け続けなければならない。
「わかった。もしかすると事態を動かせるかもしれない。また追って連絡する」
観音の言葉に頷く。聞き取りやすい明瞭な発音、落ち着いた声質。テンポや間のとり方もいいのだろう、自然と言葉を受け容れられる。クールな外見も相まって、会話しているだけで理知的で聡明な印象を受ける。
なるほど……「薔薇」の二つ名にも合点がいく。
愛でるには最高、でも触わり方を間違えると鋭いトゲが突き刺さりそうだ。
観音が店員を呼び、コーヒーのお代わりを二人分頼み直す。店員が立ち去った後は、すっかり暗くなった窓の外に視線を向けた。
「ここからの夜景はきれいだな。一度来てみたかったんだ」
俺も窓の外に目を向ける。
凍てつきそうな夜の海にライトアップされたベイブリッジが浮かび上がる。
確かにきれいだ。
横目で観音を視界の端に入れる。
周囲からは恋人同士にでも見えるだろうか。
そんなことを考えていたら観音がぼそっとつぶやいた。
「リア充爆発しろ」
台無しだ。
とりあえず彼氏はいないらしい。
──コーヒーのお代わりが届き、観音が話を再開した。
「ところで今日の一件はどのように報告した?」
土橋上席に報告した内容をそのまま説明する。
「うん、それでいい。私も帳尻合わせて報告しておく」
「それで何故飛び膝蹴りを?」
「君が立ち往生してしまったから私が飛び込むことでうやむやにしようとした」
「確かに助かりました。納得もします。それで何故飛び膝蹴りを?」
「今説明しただろ。助かったし納得もしたんだろ」
「いや、だから飛び膝蹴りをする必要はあったのかと」
「世の男性はああいうのを喜ぶんじゃないのか?」
観音は真顔で言っている。バカがここにいた。
「だからあなたには彼氏がいないんだ」
観音が笑みを浮かべたまま口端を歪め──。
「デブの分際で、助けてやった恩人に随分な口を利くじゃないか。あん?」
「痛い痛い、こめかみを鷲掴みにするのはやめて。ごめんなさい」
はあはあ、やっと離してくれた。どこまで暴力女だ。
「弥生、話はこれで終わりだ。人事課への報告書には【弥生は退庁後自宅に真っ直ぐ独りで帰った。バレンタインデーじゃあゆうんに悲しいのう、切ないのう】と書いておく。何かあれば周囲にも話は合わせておいてくれ」
「『帰った』まででいいでしょうが。しかも、なぜ広島弁!?」
「うちは広島人じゃけえね。広島弁は広島人のソウルなんよ」
それ、説明になってる様で全然なってないから。もうツッコむのも疲れた。
観音が会計伝票を手に取ってから立ち上がる。
「ここの支払いはすませておくからゆっくりしていけ、アンニョンヒケセヨ」
今度はハングル語で「さようなら」ね。ただし、これは二‐三だと普通の挨拶。
観音は背を向けると、手をひらひら振りつつレジへ向かった。
時間をずらした退店は連絡の基本、観音の「していけ」は「しろ」と同義だ。せっかくのラウンジでもあることだし、しばらく夜景を眺めて雰囲気に酔おう。
コーヒーカップへ手を伸ばす、しかしその時、俺の思惑も店の雰囲気も何もかも全てをぶち壊してくれる物体が目に入った。
あの女、パンスト置いたまま行きやがった。