13/02/14(5) ホテルラウンジ:痩せてから言え
一九時丁度。指定された店に入り店内を見渡す。窓際のテーブル席に座る、黒髪黒スーツと黒ずくめの女性が目に入る。ぼんやり覚えている感じだとあの女性か。
女性が立ち上がり、こちらを向いた。間違いない。近づいて視界に捉える。
──息を呑む。そこにいたのは「みつき」だった。
シャギーが入り艶やかに真っ直ぐ腰まで伸びた黒髪。
身長は俺と目の位置が同じ、ヒールの高さを考えると一七〇㎝くらいか。
パンツのシルエットがすらりと映える長い足に裾から覗く締まった足首。
おまけに胸まで薄く、女性特有の無駄な脂肪がない。それでいながら上着越しにもわかるくびれた腰回りが女性らしさを演出している。
何よりも印象的なのは切れ長で吊り上がった彼女の目。
青紫の瞳で真っ直ぐ俺を見据えている。初対面の俺ですら彼女の意志の強さが感じ取れる程に力強き目は、全体にも凜とした雰囲気を醸し出していた。
「こんばんは。呼び出してすまなかったな」
──女性の声で我に返った。すっかり見とれてしまっていたらしい。
「こんばんは。改めて何の御用件でしょうか」
「まずは自己紹介をしよう。これが私の名刺だ」
ここまで来れば完全に安心していい。差し出された名刺を受け取る。
【公安調査庁 調査第二部第三部門 上席調査官 天満川観音】
マルセか。俺と入れ違いで二‐三に配属されたんだな。
観音が椅子に腰を下ろしたので、俺も続く。
「『てんまがわかんのん』さん?」
「『てんまがわみね』だ。特徴のありすぎる名字だし長いから観音でいい」
「じゃあ、観音」
「君は目上に対して呼び捨てする教育を受けているのか?」
「電話でからかわれたお返しですよ、観音『さん』」
観音さんとやらが「ちっ」と舌打ちしながら店員を呼ぶ。
「心の中で呼び捨てする分には許してやろう。人間誰しも生まれながらにして内心の自由を有しているのは憲法一九条の通り。そこまでは私の咎める筋合じゃない」
口の減らない人だ。
やってきた店員にコーヒーを注文する。
「では御言葉に甘えて心の中では呼び捨てにさせてもらいましょう」
「勝手にしろ。ここまで素性を隠させてもらった割には驚いた様子がないな」
「公安庁の人間というのは察しつきましたから。これはパンスト代です」
千円札を入れた茶封筒を差し出す。パンスト代としては十分だろう。
「本当に弁償してくれるのか。なら、これをやろう」
観音がバッグから黒いパンストを取り出し、テーブルに置いた。
「いらんわ!」
気づいたら、両手でテーブルの縁を握りしめていた。
「遠慮しなくていい。決して捨てるのが面倒だから押しつけようというわけではない」
「捨てるのが面倒なんじゃないか、そのくらい自分でやれよ」
「そう言うな。私と君の仲だ」
「たった今、知り合ったばかりだろうが」
「つれないな、好きに使っていいんだぞ。それと口の利き方には気をつけような」
「本当に好きに使いますよ?」
「光栄だな」
軽くあしらわれた。人を食った様な余裕の笑みを浮かべているのが実に腹立たしい。
──天満川観音。
人事の入れ違いが続いたため会った事はなかったが、噂には聞いていた。俺と同じキャリア組で二つ上の先輩。庁内ではシノと並ぶ公安庁二大美人として「薔薇の天満川」の二つ名を有している。
もっとも、観音を有名たらしめるのは容姿以上に仕事。それも現場での実績だ。
マルケイだと刑事ドラマで「現場のわからないキャリアが!」と罵られる場面が出てくるが、公安庁でもまったく同じ事が当てはまる。
当たり前だ、新人の二年間で何ができる。形だけの仕事は与えられるが、実質は物見遊山だ。それ以前に「マルコウみたいな汚れ仕事をするために難関の国家一種試験を合格したのではない」というのがキャリアの本音である。
つまり俺を含むキャリアは、マルコウをできないし、知らないし、最初からやるつもりもない。もちろん登録どころか、本対に昇格させた人すらほとんどいない。
しかし観音はその二年間でマルセのマルコウを仕上げて登録をやってのけた。その結果として、観音は庁内で「マルコウのできるキャリア」として評されている。観音の他にキャリアで登録したのは一〇期ほど上に一人いるだけだ。
しかしこれ程までに俺の理想が顕現した女性がいようとは。改めて見とれてしまう。
「何を見とれている」
「はい?」
自ら「見とれる」と口にするなんて。どれだけ自分の容姿に自信を持ってるんだ。そんな思いを見透かしたように、観音が冷笑を浮かべる。
「確かに私は美人でナイムネでくびれで長身のお姉様。パンツスーツの下は美脚だしパンストも履いている。弥生の理想のど真ん中ストライクだろうけどな」
「どうして俺の理想なんて知ってるんですか!」
まさか心を読んだ?
「読まなくとも知っている。証拠も出してやろう」
「読んでるじゃないですか! って、証拠?」
今のは読むまでもないだろう。観音はそう答えてから口角を軽く上げた。
「『最近、姉のパンストがちょっと破れてるんだが』、『彼女はブラが着けられない』、『はたらくのっぽさま!』、『とある、くびれた年上上司』」
「どうして先日私がレンタルしたエロビデオのタイトルを知ってるんですか!」
それと最後のは勝手にタイトルを変えないで。あなたは俺の上司じゃない!
「それを調べるのがうちの仕事だろ」
観音は意味ありげにニヤニヤしている。まったくイヤったらしいったら。
もっとも俺を調べていたこと自体については驚かない。呼び出したのはその目的を伝えるためのはずだから。
問題はそこではない。例えマルケイや公安庁が相手でも、店はそうそう簡単に個人情報をバラさない。恐らく俺はマルセの支援者か工作員扱いでもされたのだ。
「あそこでは二度と借りない……」
というか、二度と行けない。よくも俺の憩いの場を奪いやがって。
「そうしとけ──」
何かを続けようとした観音が、ほんの僅かに視線を動かしてから口をつぐむ。恐らく俺の背後から店員が近づいているのだろう、あわせて押し黙る。必要あろうとなかろうと、他人の気配を感じると黙ってしまう。これは俺達の職業病だ。
観音が、運ばれたコーヒーに口をつけながら沈黙を破る。
「──断っておくけど、君が私にフラグを立ててもバキバキに折るからな」
「ぶっ!?」
飲みかけていたコーヒーを吹き出しかける。発言の内容そのものが問題なのではない。まさか観音の口から「フラグ」という言葉が出るとは思わなかったから。
スパイは誰にでも話題を合わせる必要があるから、職員同士の会話でネットスラングが出てくるのも普通ではある。それでもこの容姿雰囲気には似つかわしくない。
「私はデブが大嫌いだ。もちろん本日も君への義理チョコなぞ用意していない」
俺こそ今日はもう欲しくない。でも、こんな物言いには逆らいたくなる。
「義理チョコくらいくれたっていいじゃないですか」
「痩せてから言え。君が私からチョコをもらえると思ったなら、鏡を見て自らの姿を、言動を、そして思考を恥じろ。もし恥と思えないなら幻想を抱いたまま死ぬがいい」
この女……好き放題に毒吐きまくりやがって。
「ああそうですか。観音さんは尾行中の私を蹴り飛ばして、伝線したパンストを押しつけて、デブデブと言葉の暴力で殴りつけるためにわざわざ横浜まで来たんですか」
観音が浮かべていた笑みを消し、射貫く様な眼差しを向けてきた。
「本題に入ろう。私は西条人事課長の意向でここにいる」
「続けていただけますか」
ようやく本題に入ってくれた。西条元管理官は現在人事課長となっている。
「心して聞け、君に二重スパイの嫌疑が掛けられている」