13/02/14(4) 横浜オフィス:本当も何もパンスト代を弁償してくれと言っている
会議という名のさぼりが終わったので連れだって部屋に戻る。
席に着くと、右隣に座るシノがキーボードを叩く手を止めた。
「弥生お疲れ。これ義理チョコ」
シノはポッキーを俺の机に置くと、すぐに手を戻してワープロを再開した。忙しいのは見ればわかる。でもせめて、こちらを向いて渡してほしい。
シノの机の上のメモには民団とか核実験の文字。昨日のか……って昨日?
「シノ──」
開き掛けた口を慌てて噤む。俺が言うべき事じゃない。
「何?」
「ごめん、何でもない」
シノはふーんと流してから、土橋上席に視線を向ける。
「上席、報告書の決裁お願いします」
「了解ぃ。シノちゃん、朝から飛ばしてるねぇ。もっとのんびりやりなよぉ」
俺も工作記録作らないと。ポッキーを咥えつつキーを叩く。
工作記録はまず作業の内容等の客観的事実を端的に記す。次に作業にあたった印象、感触、感想等の主観を記す。
工作記録は工作会議──マルコウについて話し合う会議の軸となるから、本来は可能な限り詳細に記すことが求められる。しかし今回はかなり適当に作成している。
なぜなら、今朝の作業は失敗したし改めて手を着けるつもりもない。かような失敗した工作記録はキャビネットに納められる。誰でも閲覧は可能だが、時間の無駄なので誰も見る事はない。つまり決裁後は闇に葬られるも同然の代物だから。
──工作記録を土橋上席に提出。終わった終わった。
背もたれに体重を預けながら呆けていると、シノが机にカップを差し出してきた。はて? 顔を見るとにっこりと笑っている。
「これは弥生だけへのバレンタイン特別サービス。暖まるよ」
シノはそう言って着席した。
カップの中身はココア……うーん、本来なら喜んで受け取るんだけどな。
実は先日、糖尿病が発覚したばかり。今朝は既にチョコとお汁粉とポッキーを食べてるし、これ以上の糖分はさすがに抵抗を感じる。
もちろん病気の件は家族に内緒。心配掛けるし、好きな物を食べられなくなるし。職場については、聞かれもしないのに自分から口にする話でもない。
「ありがと、美味しくいただくよ」
そんな優しげに見つめられて飲まないわけにもいくまい。意識して口角を上げる。俺の顔、引きつってないよな。カップに手を伸ばす──も横から奪い取られた。
振り向くと、そこにいたのは小柄なツインテール女。腰に手を当てながらカップを煽り、ごくごく一気に飲み干している。そんなことして熱くないのか。
「弥生さんのくせにシノさんの特別ココアを飲むとは生意気です~」
「生意気なのはお前だろうが。旭のくせに何を言っている」
この語尾を伸ばしながらゆったりとした口調で話す女は、江田島旭。昨年四月に入庁したルーキー。高卒での入庁なので庁内最年少職員でもある。
旭は髪型、童顔、一見幼児体型のくせして半端に無駄な脂肪だけはある、とその形作る要素全てが俺のタイプと正反対の存在。その上に生意気とくるので、常日頃からしょっちゅうこんな風にやり合っている。
ただし今回だけは、俺の代わりに飲んでくれた事を感謝してやろう。
「シ~ノ~さぁん、ココア美味しかったです~」
旭は座るシノに背中から抱きつき、シノの顔に頬をより寄せる。ふにゃっと目を細め、いかにも御満悦の様子。
「どういたしまして。でも他人の飲み物を勝手に飲んじゃだめでしょ」
「だって、シノさんの特製ときたら私が飲まないわけには~」
シノは苦笑いを浮かべているが旭からは見えていないだろう。
旭はえへへと照れ笑いしながら体を起こすと、シノの両肩を掴んで椅子を半回転させた。向かい合ったところで旭は再びシノに抱きつき、魔乳に顔を埋める。
「うーん、今日もシノさんのおっぱいはふくよかです~。元気です~。癒されます~」
「もう恥ずかしいってば……」
シノは両腕を垂らしつつ天を仰ぎ、口を半開きにして呆ける。
この旭の奇行は入庁時から本日まで一日欠かさず続けられている。まるでINしたねぎが俺にチャットを打ち込むかの様に。きっと旭にとっての鉄則なのだろう。
旭には「百合の旭」という二つ名が付けられている。その由来はまさに見たまま。旭はシノのみならず美人を見つける度に抱きつきまくるのだ。旭としては美しい人が好きなだけでそっちの気はないらしい。
これでよくトラブルにならないものだと思う。そこは旭曰く「抱きつくとまずい人は本能が教えてくれる」とか。どれだけ都合のいい本能だよ。
シノはようやく気力を蓄えたのか、力づくで無理矢理に旭を引きはがす。
「弥生、旭ちゃんが全部飲んじゃったからおかわり入れてくるね」
顔を背けて照れたふりをする。
今度こそ俺の顔は引きつっていると思うから。
ランチタイム。昨日誘いを断った埋め合わせにシノを誘い、ついでに旭も。
現在は既に食べ終わってコーヒーブレイク中。
「弥生良かったね、ようやく外に出してもらえてさ」
今朝の一件を思い出し、内心ビクリとする。素知らぬ顔で通さないと。
「まあな。四月にはまた元通りだろうけどさ」
「弥生さんが羨ましいです~。私も外に出たいです~。内勤はもう嫌です~」
「事務仕事が新人の役目だ。シノだって同じ道を通ってきたんだから」
「でも旭ちゃんもそろそろ外に出ていい頃なんだけどね」
「上司が忙しくて仕事教えてもらえないので、外に行く用事が全然思いつきません~」
これは公安庁の制度的欠点。新人を指導するシステムが一研以外にない上、その一研すら単なる新人同士の交流会なのが実情である。
OJT、つまり実務を通じて覚えると言えば聞こえはいいが、現実には何一つ制度化されていない。だから全ては本人のセンスと直属の上司次第になる。
「仕方ないよね。旭ちゃんの外事班は人がいないし」
外事班は二‐四の中国・ロシア、二‐五の国際テロと担当範囲が広い一方、班員は白島統括と旭の二名しかいない。つまり白島統括一人で働いているに等しく、当然ながらパンク状態。連日連夜の残業が続くなか、旭を教える時間なんてあるはずもない。
「私だって仕事したいです~。仕事が覚えたいです~。早く一人前になりたいです~」
「お前が外に出たいのは、ずっと福山首席と部屋で二人きりだからだろうが」
「それも否定しません~、でも誰のせいだと思ってるんですか~。弥生さんが喫煙室に引き籠もってるからじゃないですか~。残される私の身にもなってください~」
噛みつく旭を尻目に腕時計をちらり。針が一三時を示した。
「じゃあ出ようか。俺は用事があるから先に役所に戻ってて」
※※※
山下公園内に入り、海岸沿いに歩く。
人気の無い場所は、と。この辺でいいか。
怖いな……いっそ見なかった事にしたい。でも連絡を取らないと先に進めない。
ええい、ままよ。指定された番号を入力して発信。
一コールでつながる。
「もしもし。今朝はどうも」
「流川か、弥生と呼んだ方がいいかな」
落ち着いた女性の声、随分とぶっきらぼうな話し方だ。台詞からは、俺が職場で下の名前で呼ばれているのを知る事が窺われる。
「どちらでも構いませんよ。早速ですが用件を聞きましょうか」
気が逸る、早く本題に入りたい。
「そうか。実は朝の件でパンストが伝線してしまってな。弁償してもらえないかと」
はあ? 「蹴り飛ばしたお詫びにお茶を」どころじゃなかった。あまりに右斜め上すぎて、おちょくられているとしか思えない。
「本当の用件は何ですか」
「本当も何もパンスト代を弁償してくれと言っている。今晩時間は空いているか」
「空いてます」
本当の用件は会ってからか。完全に相手のペースだが受ける他あるまい。
「それでは一九時に横浜グランドインターコンチネンタル二階のラウンジでどうだ」
無難な選択だな。同業者同士で会う時はホテルのカフェやラウンジが通り相場だし。
「構いません」
「OK、少なくとも私は君の敵ではない。そこは安心してくれていい」
「本当にそうであることを期待したいですね」
「分かっているだろうが内密にな。防衛にも細心の注意を払う様に」
わかりました、と答えると女性は電話を切った。
ふう、どうやらクビになる事態は免れたみたいだ。胸を撫で下ろす。
彼女は確かに敵ではない。なぜなら、防衛に注意を払うのはスパイの常識。他の機関の人間なら、同業者相手にわざわざ念を押すことなんてない。
恐らく同じ公安庁の人間だろう……でも、一体何のために?