13/02/14(3) 横浜オフィス:心は少女だもん
後の事は後で考えよう、まずは気持ちを切り替えてと。
ロッカーの並びを抜ける。
「おはようございまーす」
挨拶は大きな声ではきはき爽やかに。俺達公安調査官にとって基本中の基本だ。
「おはよう」「おはよん」「おはようぉ」「おはよっ」「おはようございます~」
みんなからも挨拶が返ってくる。
ああ、空気の淀んだ職場にそぐわぬ爽やかさ。
机の脇にカバンを置くと、土橋上席が向かいの席から声を掛けてきた。上席は係長。土橋上席は俺とシノの直属の上司、かつマルセ班の班長である。
「弥生さんお疲れぇ、喫煙室で話そうかぁ」
喫煙室。土橋上席が煙草に火を点け、大きく煙を吐き出す。
「で、どうだったのぉ。顛末話してぇ」
土橋上席はだらっとソファーに背を預け、視線をぼんやり宙に彷徨わす。本音は報告に関心ないのがありあり。「早く終わらせて遊ぼうよぉ」と全身で訴えている。
「失敗しました。マルタイに続いて電車に乗ろうとしたら、マルタイがホームに降りました。尾行失敗と判断し、そのまま乗り込みました。ミスの心当たりはありません」
女性の事は隠す。要らぬ事を言わないのは官僚としての基本だ。
「失敗は仕方ないよぉ。あとで〝工作記録〟書いて決裁にあげてねぇ」
工作とはスパイ獲得工作の略。隠語で〝マルコウ〟と言うのが通例である。工作記録は文字通りマルコウの記録でマルタイ毎に作成する。
マルコウは、〝予対〟選定、〝本対〟昇格、〝登録〟という手順を踏む。
「お客さん候補になる予対を探すのも大変だよねぇ。『ベルファストの少女』みたく〝条件〟も〝接点〟も揃ってる人はなかなかいないからねぇ」
土橋上席はアニオタ。「ベルファストの少女」はアニメに出てくるスパイ。こんな人だからこそ、シノが暗号とまで呼んだ俺のリクエストを叶えてくれる。
「そうですね。彼女は貧乏ですから、『金を渡せば』スパイになってくれそうという条件がありますし。会いたければ自宅に行けばいいですから、『予対と容易に会う事ができる』という接点もあります」
条件とは「○○すればスパイになる」の○○を指す。接点は場所的なものと人的なものがある。前者は行きつけの店等。後者は仲介者等。
「それに条件や接点があってもさあぁ、スパイなんて割に合わない仕事を引き受けてくれる頭が可哀相な人は滅多にいないからねぇ。『ベルファストの少女』だって最後は死んじゃったしぃ」
「『頭が』は要りませんから。本当にかわいそうじゃないですか」
「『ベルファストの少女』好きなのぉ?」
「好きですよ。弟妹を養うためにスパイ仕事を頑張るなんて健気じゃないですか」
土橋上席が立ち上がる。そのまま両腕を広げ、包み込む様に抱きしめてきた。
「思い出させちゃったかねぇ」
「おっさんに抱かれた過去はないです! 加齢臭移るから離れて!」
四十半ばを過ぎた小太り中年オヤジに少女スパイの真似されても嬉しくないわ!
土橋上席はしょぼくれて着席。両手の指をこねくり回しながらいじいじしている。いい年こいて拗ねるんじゃないよ。キモイよ。スルーして話を続けよう。
「とにかく条件と接点の揃った人を見つけないと話が始まりませんしね。だから予対を挙げては監視や尾行によって調べ上げるという〝基調〟を繰り返すわけですが」
まさにストーカー。今朝の尾行も基調の一環である。
「マルコウできそうな予対が見つかれば見つかったで〝マルセツ〟を重ねないとだしぃ。本対に昇格させるためには、お友達になるなり、脅すなり、騙すなりで関係を深める事が必要だからねぇ」
マルセツとは「接触」を指す隠語。接触は文字通りマルタイと会う事。
「本対に昇格できたら次は情報を聞きまくって登録を目指すわけですけど……」
「そのためには高度情報が期待されるから、もっと難しくなっちゃうよねぇ」
端的に言えば「役に立たないスパイは要らない」という事である。
「実際、〝A協〟の登録できた人ってどれだけいるんですか」
客はABCでランク付けがなされる。単に登録と言う場合はA協登録のみを指す。
「僕の同期で全体の三割以下だよぉ。それも二五年のトータルでぇ」
公安庁の採用人数は毎年六〇人前後。各期において一年に一人出ない計算となる。登録はそれくらいに難しい。それゆえ現場職員にとっては勲章と呼べる代物である。
もし登録できれば三年間は何もせず堂々と遊ぶ事が許される。言わばリフレッシュ期間。登録はそれ程の成果であると同時に、それ程の苦痛と重圧と厳しさを伴うから。
しかし俺含む現場職員の多くはこんな感じである。
「登録なんかできるわけないんですから割り切らないとですよね。外に出さえすれば遊び放題さぼり放題のパラダイス、現場マンセー、私達を養ってくれる国民マンセー」
その一方で、登録できる人は毎年働いて毎年登録するから不思議なものだ。
「みんなまともなマルコウなんかやってないからねぇ。僕もだけどぉ」
「でも、そんな事言いながら、土橋上席は本対持ってるじゃないですか」
土橋上席が「えへへ」と笑いながら、鼻の下を指で擦る。
「だって現場では本対作るのが最低限のノルマだもん。本対持ってないと遊べないしぃ、福山首席からねちねちぬったり何いびられるかわかんないしぃ」
言い終えた土橋上席は顔をしかめる。福山首席の顔を思い出してしまったからか。
土橋上席は気を取り直すためか頭を振ると、上着のポケットから箱を取り出した。
「話変わるけどぉ。今年のうちの部屋の義理チョコはこれだったよぉ」
「チョコポッキー? 義理どころか、もはやイベント感すらないじゃないですか」
「そうだねぇ。でも、これはこれでありだよぉ」
土橋上席はポッキーを咥えて立ち上がると、両足で大きなステップをどたどた踏み始めた。
「何やってるんですか?」
「とあるゲーセンで踊る魔法少女の真似ぇ」
歯をニカっとむき出しにしてサムズアップしながら答える。
「キモイからやめて下さい」
「心は少女だもん」
土橋上席はひたすら踊り続ける。
傍目には大相撲の土俵入りで四股を踏んでいる様にしか映らないけど。これでも土橋上席って、二次元ではなく本物の娘がいる父親なんだよなあ。
「今日帰ったらきっと娘からチョコレートもらえるんだよねぇ。ハアハア。ホワイトデーにはモスグリーンのパーカーと短パンをお返しするつもりなんだぁ。ハアハア」
微笑ましい話のはずなのに、ダンスで息を切らしているせいで全て台無し。しかもその服って、まさに土橋上席が真似る魔法少女の衣装じゃないか。
「あなたは娘を魔法少女にするつもりですか」
「僕でよければ、ハアハア、いつでも魔法少女になるのに、ハアハア。それと引換えに娘と結婚する願いを、ハアハア、叶えてもらうんだ、ハアハア」
「私の願いはもう叶いましたからね。ようやく福山首席の顔を見なくて済みます」
できれば「あなたの魔法少女姿は見たくない」という願いも叶えてもらいたい。
土橋上席がようやくダンスを止め──たと思ったらしゃがみ込み、俺の手をふわり優しげに握り込んできた。上目遣いの視線を寄越し、淀んだ目を潤ませる。
「何とかしてあげたかったけど弱い立場なものでぇ。役立たずの上司でごめんねぇ」
気づいた時にはその手を振り解いていた。まさに考えるよりも早かった。
「その気持ちだけで十分ですよ。私の味方をすれば上席も飛ばされちゃいますから」
土橋上席にシノ。マルセ班の二人が仲良く接してくれるのが今は心からの救いである……だけど別の意味で「気持ちだけで」と言わせる行為は頼むからやめてくれ。