13/02/14(2) 横浜市営地下鉄某駅:連絡は一三時以降に
「大丈夫ですか?」
うっ……男性の声で目が覚める。視界に入ったのは駅員さん。
俺はホームのベンチで横になっていた。どうやら寝かせていってくれたらしい、御丁寧なことで。体を起こし、ベンチに腰掛けてから返事をする。
「大丈夫です」
「よければ救急車呼びますが」
「いえ、大丈夫です。お構いなく」
そんなもの呼ばれてたまるか。何一つ事情を話せる身分じゃないのに。お腹は痛みで少々うずくが、放っておけばおさまるだろう。
怪訝な顔をしながら駅員が立ち去る。あなたの親切さには心の中でだけ御礼を言わせてもらうよ。
駅員の背が小さくなるのを確認してから腕時計に目を向ける。気絶していたのは二〇分程度か。
──そうだ、調査官手帳は!?
左手をパンツのポケットに差し入れる。手応えあり……助かった。手帳を紛失するのが一番洒落になってない。後で取り出して確認しよう。
電車に乗り込む。
既に通勤ラッシュのピークは過ぎているけど、空席がない程度には混雑していた。吊り輪に両手を添えてから、思考に耽る。
さっきのは何だったのか。
倒れ際に、マルタイがぽかんとしつつ再び電車に乗り込んだのは確認できた。何はともあれ女性に助けられた事だけは間違いない。もし蹴り飛ばされなければ、今頃はどうなっていたか……。
その一方で、見知らぬ女にいきなり飛び膝蹴りを喰らうなんてありえない。でもまだ腹部に残る痛みは、紛れもなく現実である事を物語っている。
気味が悪い。しかし思考停止するわけにはいかない。
あの女性は何者だろうか。
俺と同業者である事だけは間違いない。蹴り飛ばした行為そのものが、俺を、俺の仕事を、そしてあの状況を全て認識していた事を示しているから。仮にそうでなければ、あんな暴力女は今すぐ警察に連行されるべきだ。
──マルセの関係者。
多分それはない。マルタイにそのまま対応させればいいのだし。
でも二段構えでのハニートラップはないか。一旦危難が去った後の人間は安心して騙されやすくなっているから、それを利用した手法は十分に考えられる。
もしそうなら新たな接触があるだろう。誘い文句は「蹴り飛ばしたお詫びに食事を奢らせて下さい」ってとこか。諜報の世界だと印象づけるためにわざとらしい出会いを演じる事が多いから、方法論としては考えられる。
でもこんな暴力女を好む日本人男性がいるわけない。もし本気でこんな作戦を実行したのなら、マルセは今すぐ日本文化の研究をやり直せ。
──他機関とのバッティング。
韓国の情報機関国家情報院、通称国情院あるいはマルケイ。
こちらは現実味がある。たまたま同じマルタイを追尾していたところ、俺が失敗したから共倒れを防ぐ意味で助けたのだろう。
……でも考えたくはない。なぜなら後で役所にクレームが入るのは確実。現在の俺が置かれた立場だと、すぐさま強制的に辞表を書かされるだろう。待ち構えているのは依願退職という名の「クビ」だ。
もちろん他機関が「クレームを入れない代わりに」と脅してくる可能性もある。それならそれで俺の役人人生は終わり。元々終わってはいるけど、これ以上に人生振り回されるのは絶対御免だ。
桜木町駅到着。本来は関内駅だが、作業後は尾行を確認しないといけないため一つ手前の駅で降りる……もう今更だとは思うけど。
エスカレーターを上り、地上に抜ける。JRの改札口を左手にしながら曲がり、視界が開けたところで調査官手帳を開く。
そこには一枚の紙片が挟まっていた。
【〇九〇―△△△△―×××× 連絡は一三時以降に】
手帳をしまうと、コートにごろっとした重みを感じた。そう言えばお汁粉が当たったんだっけな。ポケットから取り出し、一気に飲み干す。
冷めたお汁粉はこの上なく不味かった。